マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕10・26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

 32だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 

 本日のみことばのテーマは「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」です。

 

 第一朗読はエレミヤの預言です。エレミヤは紀元前7世紀にエルサレムで活動した預言者ですが、その預言の四分の三は禍(わざわい)の預言です。そこから禍(わざわい)の預言者とも言われます。

 エレミヤに主の言葉が臨み、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」という声が響きました。エレミヤは「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と言って預言者の使命を拒もうとしました。しかし、主はそれを許さず、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と言い彼を預言者として立てました

 この日からエレミヤは苛酷な生活をせざるを得なくなります。

 エレミヤのわざわいの預言を聞いた人々は回心するのではなく、むしろ、エレミヤを弾劾しようとします。

 「彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」という人々は、エレミヤが悪霊に惑わされているので、勝つことができると考えます。

 今日の朗読箇所の最後でエレミヤは、「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」と言った直後、「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。……なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」と預言者としての苛酷な使命に耐えきれず自分は生まれてくるのではなかったと弱音を吐きます。

 エレミヤ書にはエレミヤがどのように最期を迎えたかは書かれていません。

 ユダヤ教の伝承や初期キリスト教の記録には、エレミヤはエジプトに連行され、そこでもエレミヤは相変わらず妥協せず、「エジプトの神々を拝むな」「ここにいてもいずれバビロン軍に滅ぼされる」と厳しい警告を語り続けました。

 これに激怒した(あるいは彼の言葉を煙たがった)親エジプト派の同胞(ユダヤ人たち)によって、石を投げつけられて殺された(石打ちによる殉教)とされています。

 

 第二朗読は使徒パウロのローマの教会への手紙です。パウロは「信仰による義」、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(3:24)と説きます。今日の箇所では、アダムとキリストを対比して、「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれる」といい、信仰によって義とされた者は死から解放されていることを説きます。

 

 山上での説教の後、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ました。しかし、救いを待つ人々があまりに多く、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と弟子たちに言い、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすために、十二人を選び、使徒と名付け、「汚れた霊に対する権能をお授けにな」りました。今日の福音は十二人を派遣するにあたり、イエスが指示する言葉です。

 

 聖書に繰り返し現れることばの一つは「恐れるな」です。旧約聖書のイザヤの預言では11回、エレミヤの預言では8回現れます。エレミヤの召命の場面でも、主である神は「恐れるな」と言った後、「わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と続けます。危機的な状況に陥っても恐れる必要がないのは、主である神が共にいるからです。

 

 弟子たちは宣教にあたりさまざまな不安を感じていたはずです。その不安やおびえを見越してイエスは語ります。イエスは、「体を殺す者」を「恐れるな」と弟子に言います。彼らが恐れなくてはならないのは、すべてを支配している神です。

 

 このイエスの勧告はイエスご自身の思いでもあったはずです。イエスご自身が人々の無理解と反感を買い、迫害され、十字架につけられることを十分に知っているにも関わらず、ご自分の使命を果たそうとなさったのは、父である神がご自分と共にいてくださることを実感していたからだと思います。

 イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえます。父である神の「恐れるな」という声をイエスは聴き取っておられたのではないでしょうか。

 

 私たちはいろいろなことにおびえ、恐れています。神に捨てられたと絶望しそうになるときも、エレミヤが聞いた「恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」という神の言葉を聞くことができますように。そして「人々の前で自分をイエス・キリストの仲間であると言い表す」勇気を頂けますように。

 

ひとこと

 「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」とイエスは言いました。

 最期の晩餐をイエスと共にしたとき、ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」とイエスに言いました。

 イエスはペトロに「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と予告します。

 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 イエスの予告通り、ペトロは大祭司の屋敷の中庭でイエスを三度「知らない」と言いました。しかしイエスはペトロを始めとした弟子たちをゆるし、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と弟子たちを宣教に派遣します。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕6・24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは-明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 

 「神ととに仕えることはできない。」と新共同訳で策されている部分は、原文では「神とマモンに兼ね仕えることはできない。」となっています。

 イエスはマモンを悪魔的に擬人化しています。富は手段ですが、豊かな生活をするために富を求めようとすると、富は悪魔化し、富が人を支配し、人は富の奴隷になるとイエスは警告しているのだと思います。

 イエスはマモンのとりこにならない生き方を教えます。

 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは-明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕6・19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。

 22体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

 

 イエスは「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」と言います。目が澄んでいれば、さまざまな物事をその通りに見ることができますが、心が「傲慢」「自己保身」「極端な偏見」に蔽われてしまうと、光が消えた状態になります。

 スコトーシスという言葉をご存じでしょうか。スコトーシスとは、もともと医学用語で「暗点(視野の中で見えない部分)」を意味する言葉ですが、心理学や認知科学においては「知識や思い込み、重要性の評価によって、目の前にある現実が脳に認識されなくなる現象(心理的盲点)」を指します。

 イエスが「その暗さはどれほどか(どれほど深い闇か)」と恐れた理由こそ、まさにスコトーシスの性質そのものです。

 人間は、物理的な暗闇(知らないこと)に対しては「見えないから気をつけよう」と警戒できます。しかし、スコトーシスによる暗闇は、「見えていないこと自体が、本人には見えない」のです。

 イエスと対峙する律法学者やファリサイ派の人々はスコトーシスに陥っています。

 スコトーシスの怖さは「見えていないこと自体が、本人には見えない」ところにあります。わたしたちもスコトーシスに陥っていないか、イエスの言葉で、日々点検する必要があります。