マタイによる福音
〔そのとき、〕19・3ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。4イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」5そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。6だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」7すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」8イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。9言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」10弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。11イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。12結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
何故弟子たちはイエスに「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言ったのでしょうか。
AIで調べて見ました。
弟子たちがこのように感嘆(あるいは落胆)した背景には、当時のユダヤ社会における婚姻観・離婚の慣習と、それに対するイエスの提示した基準の圧倒的な厳しさとの間に、大きなギャップがあったからです。
主に次の3つの理由から説明できます。
1. 当時のユダヤ社会における「容易な離婚」
当時のユダヤ社会(とりわけファリサイ派のヒレル派と呼ばれる学派)では、男性側の都合で比較的簡単に妻を離婚(離縁)することが認められていました。
「妻が料理を焦がした」「夫の気に入らない点があった」といった軽微な理由でも、夫が「離縁状」を渡しさえすれば離婚が成立していたのです。男性にとって結婚は、万が一うまくいかなければ「解消できる契約」という認識が一般的でした。
2. イエスが提示した「本来の厳格な基準」
これに対してイエスは、創世記を引きながら「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と教えました。
モーセの律法で離婚が認められていたのは「人間の心がかたくなだから許されていた特例(妥協点)」に過ぎず、本来の神の意図としては「不貞(淫らな行い)などの正当な理由がない限り、離婚して再婚することは姦淫にあたる」という非常に厳しい原則を打ち出したのです。
3. 弟子たちのショックと現実的な恐れ
この教えを聞いた弟子たちは、次のように受け止めました。
「一度結婚したら、どんなに不仲になっても逃げ場がないのか」
「一生解消できないリスクを背負うくらいなら、最初から妻を迎えない(結婚しない)方がリスクが少ないのではないか」
つまり弟子たちは、「簡単にやり直す(やり直させる)ことが許されない一生ものの重い誓い」として結婚をとらえ直し、その責任の重さに恐れをなして「それなら最初から結婚しない方がましだ」と本音を漏らしたのです。
弟子たちのこのリアクションに対して、イエスは呆れるのではなく、「独身でいること(結婚しないこと)もまた、誰もが選択できるわけではなく、特別に与えられた恵み(召命)によるものだ」(マタイ19:11-12)と続け、結婚する道も独身を守る道も、ともに神からの召命や覚悟が必要であることを示しました。
日本には「伴侶」という言葉があります。「配偶者(夫や妻)」という制度的な関係を超えて、人生という長い道のりを共に歩む存在としての深いニュアンスを含んだ言葉です。
教会論におけるシノダリティと、人生における「伴侶」という関係性は、どちらも「孤立を拒み、一つの道を共に歩む」というキリスト教的な人間観・共同体観を体現しています。
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭については女子パウロ会ホームページをごらんください。
https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=081401