ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」

 

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」とイエスは弟子たちに言います。

 「世が与える平和」とは、権力者が統治するなかで、紛争がない(あるいは起こせない)状態や体制が維持されている状態を指します。

 ヨハネによる福音書が書かれた時代、人々にとっての「平和」とは、まさにローマ帝国が武力によって維持していたこの秩序そのものでした。

 異論や反乱は徹底的に鎮圧されることで、帝国内の安定が保たれていました。道路網の整備、通商の安全、法的な保護など、目に見える形での繁栄と安全が提供されていました。ローマ皇帝を神として崇め、帝国の秩序に従う限りにおいて享受できる「取引」としての平和でした。

 「平和」は相対的、一時的で、脅しによる「平和」です。

 ミサの聖体拝領の前に司祭は「わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える」と言います。

 主キリストの平和が世界に与えられますように。

ヨハネによる福音14:1-12

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

 

 復活節のことばの典礼で朗読される聖書の第一朗読と第二朗読では、イエスの復活後、誕生した教会が成長して行く様子が語られます。福音ではイエスを救い主だと信じる人々がよりどころとするイエスのことばが朗読されます。

 

 聖霊降臨後、誕生した教会では、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」と使徒言行録は述べます。使徒たちは、ユダヤ教当局による逮捕、尋問、鞭打ちを受けていました。一方、教会内部でも問題が生じていました。

 本日朗読された使徒言行録ではその事情が語られました。教会の中で、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間で対立が生まれました。その原因は、「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」こととされますが、対立の原因はもっと深いところにありました。

 ヘブライ語を話すユダヤ人たちは、ユダヤ教の中で育った人たちで律法の遵守を大切にしました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちは、ギリシャ文化の中で育った人たちで律法の遵守、特に割礼に対しては否定的な態度だったと思われます。

この問題の解決のために選ばれたステファノを始めとした七人は、いずれもギリシャ語の名前で彼らはギリシャ語を話すユダヤ人であったことが分かります。

 使徒たちは、あえてギリシャ語を話すユダヤ人たちを教会の役務者として任命した結果、教会は大きく発展していくことになります。

 

 第一朗読がユダヤ人の中の様子が語られているのに対して、第二朗読のペトロの手紙は、異教から改宗した異邦人キリスト者に宛てられています。彼らは元の異教の習慣に戻るよう誘惑されました。誘惑に負けて、キリストへの信仰を捨てようとする者もいたようです。

 手紙の著者はそうした者たちに「主のもとに来なさい。」と呼びかけ、御言葉を信じて、神に選ばれた、尊い、生きた石として信仰を証しするよう励まします。

 

 福音はイエスの告別説教です。

 晩餐の席からユダが出て行くと、イエスは弟子たちに話しはじめます。話の中で、イエスが「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」というのを聞いた弟子たちは、不安になり動揺しました。

 弟子たちにイエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言い始め、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と結びます。

 

 イエスの告別説教を聞いた時点では、イエスが何を言っているのか使徒たちには分かりませんでした。しかし、聖霊降臨後、教会が誕生し、成長する現場で、使徒たちは、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」というイエスのことばを実感することになります。

 

ひとこと

 新共同訳で「はっきり言っておく。」と訳されていることばは直訳すると、「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。

 アーメンは、祈りの締めくくりに言われる言葉で、「本当に」「確かにその通りです」「誠に」といった意味を持っています。

 ヨハネ福音書で、イエスは、話の最初に二度アーメンをくり返します。エレミヤスという聖書学者はアーメンはもともと母親が子どもを抱き上げるしぐさをさしていたと言います。母に抱かれる子どもは安堵し、母を信頼します。母も子ども抱きながら安堵します。

 イエスが「アーメン、アーメン」と繰り返すのは、最初のアーメンはイエスが父である神との信頼関係をあらわし、二度目のアーメンはイエスと弟子たちとの信頼関係をあらわしているのではないかと私は思います。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言われるイエスを信頼しましょう。

 この地上にイエス・キリストの平和が来ますように。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・7「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

 告別説教の中で、イエスとトマスの対話の後、イエスとフィリポが対話します。

 イエスが「あなたがたは、すでに父を見ている」というとフィリッポは「主よ、私たちに御父をお示し下さい」と求めます。

 するとイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と返します。

 エドワード・スキレベークス(Edward Schillebeeckx)の代表作『キリスト、神との出会いの秘跡』(1958年)は、20世紀のキリスト教神学、特にカトリックの秘跡論で重要な著作と言われます。

 その中で、スキレベークスは、キリストは「原秘跡」であると言います。

 神を人間は見ることのできません。しかし、イエス・キリストという歴史的な「人間」を通して、イエスの弟子たちは神の愛と救い見ることができました。

 キリストは神と人間が出会うための「根源的な秘跡」であると彼は説きました。

 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」というイエスの言葉は「キリストは本性において神である父と同一のもの」と宣言するアタナシオスの信仰告白につながります。

 アタナシオスは358年に司教に就任した後、アリウス派の策謀により373年に死去するまでのうち、17年間司教職から追放されています。

 

聖アタナシオ司教教会博士については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201