ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15・9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

 

 イエスがいう「父の掟」とは十戒や律法のことではありません。イエスが父の愛にとどまり続けることが「父の掟」です。

 わたしの掟とはイエスの愛にとどまり続けることです。

 「父の掟」にとどまり続けるイエスは喜びに満たされています。そのように弟子たちも喜びに満たされて生きよとイエスは命じます。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15・1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

 

 ぶどうの木と枝のたとえです。幹につながっていない枝は、すでに枯れているので取り除く必要があります。それらは「集められ、火に投げ入れられて焼かれて」しまいますが、そのこと自体は罰でもさばきでもありません。

 他方、幹につながっている枝も剪定を必要とします。剪定はより豊かに実を結ばせるために行われるものです。

 イエスは「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と言います。

 枝であるわたしたちがるイエスにつながり豊かな実を結ぶことができますように。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」

 

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」とイエスは弟子たちに言います。

 「世が与える平和」とは、権力者が統治するなかで、紛争がない(あるいは起こせない)状態や体制が維持されている状態を指します。

 ヨハネによる福音書が書かれた時代、人々にとっての「平和」とは、まさにローマ帝国が武力によって維持していたこの秩序そのものでした。

 異論や反乱は徹底的に鎮圧されることで、帝国内の安定が保たれていました。道路網の整備、通商の安全、法的な保護など、目に見える形での繁栄と安全が提供されていました。ローマ皇帝を神として崇め、帝国の秩序に従う限りにおいて享受できる「取引」としての平和でした。

 「平和」は相対的、一時的で、脅しによる「平和」です。

 ミサの聖体拝領の前に司祭は「わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える」と言います。

 主キリストの平和が世界に与えられますように。