ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕6・52ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

 

 6章26節から始まったパンについてのイエスと群衆との対話の場所はカファルナウムの会堂だったとヨハネは伝えます。

 カファルナウムの会堂は100人から200人程度を収容できる広さだったと推定されています。

 イエスとイエスを追いかけてきた一部の人々や、会堂に集まっていた人々との間で対話が始まりました。その対話は次第に白熱します。最後には、弟子の多くもイエスの言葉につまずき、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言い、イエスを離れ去ります。

 イエスが十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われると、シモン・ペトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答えます。

 日本では長い間、聖体拝領前の信仰告白はこのペトロの言葉でした。現在でもこのペトロの信仰宣言を使うことができます。

 病者の聖体拝領では、ペトロの信仰告白をする方が多くいらっしゃいます。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕6・44「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48わたしは命のパンである。49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 

 「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」というイエスの言葉は、聴衆には冒涜の言葉と受けとめられました。

 律法では、「血」は生命そのものであり、神に属するものと考えられていました。そのため、いかなる動物であってもその血を食べることは厳格に禁じられていました。

 「イエスの肉を食べる」ことは忌まわしいことと聴衆は受けとめました。

 そうした反応は日本でもあったようです。

 江戸時代の日本においてキリスト教が弾圧された際、「キリシタンは人間の肉を食べ、血を飲んでいる」という噂や非難は非常に広く流布していたと言われます。

ヨハネによる福音

〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕6・35「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

 「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」とイエスは言います。

 キリスト者はこのイエスの言葉に全幅の信頼をよせる人のことです。

 葬儀のたびにイエスの言葉を思い返します。