ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕1・47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

 イエスがナタナエルに言った言葉は謎めいています。

 この言葉は、旧約聖書の『創世記』(第28章)に登場する「ヤコブの夢」を直接下敷きにしています。

 祖父アブラハムや父イサクの祝福を逃れ、孤独に旅をしていたヤコブが、野宿の夜に「先端が天に達する梯子(階段)が地に向かって立てられ、神の天使たちがそれを上ったり下ったりしている夢」を見ました。

 そのとき、その梯子の傍らに立たれた神がヤコブに「わたしはあなたと共にいる」と約束し、そこが「神の家(ベテル)」であると気づかされたというエピソードです。

 旧約聖書では「天と地を結ぶ梯子」の上を天使が昇り降りしていましたが、イエスはこの言葉で、その「梯子」の役割を果たすのが、他でもない「人の子(=イエス自身)」であると宣言しています。天使たちが昇り降りするその「基盤」または「通路」として、イエスが人の上に位置づけられています。つまり、かつてヤコブが夢で見た「神と人とが出会う場所、天と地が繋がる場所」が、形ある建物や場所ではなく、イエス・キリストという存在そのものにおいて実現するということです。

 「天が開け、天使が昇り降りする」ということは、神の領域(天)と人間の領域(地)を隔てていた壁が完全に取り払われ、神の恵みや救い、交わりが絶えず行き交う状態を指しています。

 イエスが十字架にかかり、復活・昇天し、そして人として歩まれた生涯そのものが、神と人とを完全に結びつける通路となりました。

 ナタナエルは最初、「いちじくの木の下にいたイエスを見かけた」という小さな驚きから信仰を持とうとしましたが、イエスは「そんなことよりも、もっと壮大な、神と人がイエスを介して一つにつながる決定的な出来事(救いの御業)を、あなたたちはこれから目撃することになる」と告げられたのです。

 

 三大天使については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/festa0929.php

ルカによる福音

 〔そのとき、〕9・46弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。47イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、48言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 49そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」50イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

 イエスの弟子たちの間では、だれがいちばん偉いかををめぐっての仲間争いが常態化していたようです。他の弟子仲間から馬鹿にされたり、軽視される弟子もいたと思われます。イエスは彼らの前で子供の手を取り、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と言います。

 弟子たちはイエスが言うことを理解できなかったとわたしは思います。

 教会の中でも、それぞれの職業や社会的な地位などによって順位付けをする傾向があります。そんな時、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」というイエスの言葉を肝に銘じていたいものです。

 

聖トマス西と15殉教者については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=092801

マタイによる福音21:28-32

 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕28 「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 

 第一朗読のエゼキエルは、18章の冒頭で、エゼキエルは「先祖が酢いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く」ということわざを引き合いに出します。

 当時のイスラエルの人々は、自分たちの国が滅びに向かう苦しみの中で、「主の道は正しくない」と不平を漏らしていました。

 彼らには、なぜ私たちが先祖の罪のせいで苦しまなければならないのかという、不条理感が蔓延していたのです。

 しかし神は、預言者エゼキエルを通してそれをきっぱりと否定されます。

 「悪人がその行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる」。

 神は、血筋や過去の因習、あるいは「親のせい・時代のせい」という決定論ではなく、「いま、この瞬間における一人ひとりの回心と責任」を見つめておられます。

 18章は「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」という主なる神の言葉で結ばれます。

 「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」という神の言葉にわたしたちも力づけられます。

 

 福音は、イエスが祭司長や民の長老に語ったたとえです。

 イエスのたとえの中心は父親の指示に対する兄弟の応答です。「ぶどう園に行きなさい」という父親に対して、兄は「いやです」と答えた後で、「考え直して」出かけます。同じ言いつけを聞いた弟は、「お父さん、承知しました」と言ったのに出かけなかったとイエスは言います。そして、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と祭司長や民の長老たちに問いかけます。彼らは「兄の方です」と答えざるを得ません。

 

 祭司長や長老たちは、律法を守り、神のおきてに従った生活を送っていると自負していました。新共同訳で「お父さん、承知しました」と訳されている弟の答えは原文では、「キュリエ、エゴー」です。キュリエは「主よ」、エゴーは「私」です。ギリシャ語で、あえてエゴーという場合、「私」をことさら強調する表現となります。従って、「主よ、私こそが」と翻訳することもできます。

 「主よ、私こそが」という思いは、祭司長や長老の気持ちでした。他方、たとえに登場する兄は徴税人や娼婦だとイエスは言います。律法学者や長老から見れば彼らは律法を守らず、神の救いとは無縁の者たちでした。しかし、彼らは洗礼者ヨハネと出会って、自分の生活を「考え直して」、彼のことばを信じました。

 自分たちは律法を守って神の掟に従っていると豪語する祭司長や長老たちではなく、彼らが軽蔑していた徴税人や娼婦の方が「神の国」に先に入る、とイエスはいいます。

 なぜなら、義の道を示した洗礼者ヨハネの言葉を信じ、受け入れたのは、徴税人や娼婦だったからです。人間の現実の姿を認めずに、神の指示を果たしていると思い込んでいた祭司長たちや長老たちは、かえってそれに従っていないとイエスは指摘します。

 神の掟どおりに生きることができないことに苦しみ、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを受け入れた徴税人や娼婦が、結果的には神の言葉に従うことになったのです。

 

 神学者のロナガンは「スコトーシス」という言葉で、人間の頑なさを説明します。スコトーシスとは、ギリシャ語の闇を意味するスコトスに由来します。ロナガンは、「スコトーシスは、起こってほしくないさまざまなひらめきを起こしうる視野の広がりが、意識にのぼってこないように妨げる異常である」と説明しています。

 ヨハネの福音でイエスが生まれつきの盲人を癒やしたとき、わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」とイエスは言うと、ファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」とイエスに反論します。そのときイエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と返しました。ファリサイ派の人びとは「スコトーシス」に陥っていたのです。

 

祈りましょう。

 主よ、私たちはしばしば口先だけで信仰を語り、実際の行動を伴わせずに生きることがあります。また、自分の不遇を環境や他者のせいにしがちです。

 どうかあなたの聖霊によって私たちの心を新しくし、過去のこだわりやしばりから解放してください。私たちが「いやです」という不従順から立ち直り、あなたのぶどう園に向かう一歩を踏み出す勇気を与えください。