マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは言われた。〕11・28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 軛(くびき)は家畜が農耕や運搬に使われなくなってからは死語のようになってしまいました。軛とはまさに頸木であり、牛や馬の首にかける木の棒状の器具のことです。

 軛には家畜を一頭つなぐものと二頭つなぐものがあります。イエスの言う「わたしの軛」は、片側はイエスが負う軛ではないかと思います。軛の片側をイエスがほとんどを負って下さるので、軛の反対側は軽くなり、負いやすくなるのだと思います。

 イエスが共にいて、重荷を背負ってくださるのです。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕18・12「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

 わたしたちが羊を百匹持っていたとして、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行くでしょうか。わたしが羊の所有者だとしたら、見失った一匹のことを残念に思う前に、残りの九十九匹を失わないように手立てを尽くすように思います。

 

 イエスのたとえに出てくる人は、雇われの羊飼いではなく、羊の所有者です。見失った一匹のことで気が動転して、探しに出たのかもしれないと思います。

 

 羊の所有者は迷いでた一匹の羊を全力で探し、「見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶ」とイエスは言います。

 

 羊の所有者がイエスで、迷いでた一匹の羊がわたしだとしたら、見つけてくれて肩に乗せて群れに連れ帰ってくれるイエスに驚きと感謝しかないと思います。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕1・26天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

 カトリック教会の教えによれば、人類の祖先アダムとエバの罪(原罪)の結果、すべての人間は生まれながらにして原罪の汚れを負っています。

 

 第一朗読は創世記のアダムと女の罪に対する神の宣告の場面です。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」という聖書の言葉(創世記 3章15節)は、カトリック教会において「原福音」(げんふくいん、Protoevangelium)と呼ばれ、無原罪の聖マリアの教義と、救いの計画を理解する上で非常に深いつながりがあります。

 神の言葉に対するアダムとエバの不従順は、神の言葉に対するマリアの「(お言葉どおりに)なりますように」(fiat)という従順によって、救い主の誕生につながります。

 

 天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」と告げました。

 「恐れるな」という言葉は、天使からザカリアに、次にマリアに、そして羊飼いに告げられます。そして、イエスは宣教生活の中でしばしば「恐れるな」と言います。

 わたしたちは自分の予期しないことに出会うと恐れを感じ、神に捨てられたようにも感じます。しかし、主が共におられ、神から恵みを頂いていることを知っていれば恐れることはないのです。

 聖母マリアの生涯を考えると、予期しないことの連続であったように思います。しかし、予期しない天使との出会いの時からマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という気持ちで一生を過ごされたのだと思います。

以前にもお伝えしましたが、ビートルズのレット・イット・ビーは、天使のお告げに対するマリアの答えをなぞっています。マリアの答えはNRSV訳では、"Here am I, the servant of the Lord; let it be with me according to your word."、ヴルガタ訳では、”Ecce ancilla Domini, fiat mihi secundum verbum tuum.”です。マリアがささやく知恵の言葉は、「お言葉どおり、この身に成りますように。」です。

 予想外の出来事に遭遇し、神に捨てられたように感じるときも、聖母マリアの助けにより、神に信頼することができますように。

 

 無原罪の聖マリアについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=120801

 2021年12月8日無原罪の聖マリアの祭日に、サグラダ・ファミリア教会の「聖母マリアの塔」の先端の星が点灯されました。戦争、地球温暖化などの闇が蔽う世界で、「恐れるな」と言う天使の声を聴くことができますように。

https://www.youtube.com/watch?v=MTPmyPxQ5PM