戦争より怖かった」 新型肺炎と比較されるSARS、日本人はどう闘ったか

2/23(日) 7:15配信

SankeiBiz

「戦争より怖かった」 新型肺炎と比較されるSARS、日本人はどう闘ったか

クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」が停泊する大黒ふ頭から出発するバス。下船者を乗せているとみられる=19日午前、横浜市鶴見区(鴨川一也撮影) 

 新型コロナウイルスの影響が止まらない。日本でも死者が出て、経済も打撃を受けるなど、もはや完全に日本の国内問題となっている。報道などで見られるのはSARS(重症急性呼吸器症候群)との比較である。(ノンフィクション作家・青樹明子)

 SARSは感染被害が最も大きかったのが首都・北京だったということで、中国在留邦人や中国へ進出している日本企業への影響は甚大だった。それはまさに「戦争」のようだったという。

 「戦争は弾の飛ぶ場所に行かなければ怖くない。でもウイルスはどこから来るか分からないから戦争より怖かった」(日本企業駐在員)

 ビジネスへの影響も大きい。「天安門事件の時の比ではなかった。このインパクトは想像外だった」

 急激な経済発展を見せ始めていた中国を襲った原因不明の感染症は、在留邦人たちを混乱の極みに陥れていた。特にSARS問題の象徴とされた北京の動揺は筆舌に尽くしがたい。しかしそうした中でも、企業と民間人、各企業では日本人スタッフと中国人スタッフが一致団結してSARSと闘ったのである。

 北京では商工会議所、日本人会が中心となって「SARS対策チーム」を発足させ、民間発の情報を発信していった。

 普段は出すことがない飛行機の予約情報を提供した航空会社、日本料理店の開店情報を出した日本人調理師会、生徒の帰国情報を送った日本人学校、外出制限の中での留学生情報など、噂ではなく、確実な情報がメールマガジンに寄せられたという。

 今回の新型肺炎も、既にいろいろと風評を生み始めている。中国からの帰国者に接触すると感染する、中国人が多く集まる銀座や浅草に行くのは危険だなどの、非科学的ともいえる情報も含めて、人々を恐怖に陥れている。

 当時SARS対策チームの中核だった経済人は「たとえ感染したとしても、段取りさえ分かっていればパニックにならずにすむ」と語っていた。

 「北京市内に協和西病院というちゃんとした病院が用意されていて、そこで治療を受ければまず生きて出てくることができる。感染しても治らないわけではないということが分かっていれば怖くなかった」「大切なのは、いかにして日本でウイルスを発生させないかではなく、発生しても大丈夫、という体制を作ることである」

 SARS問題で最も大きかったのは、帰国した日本人をいかに守るかだった。特に子供たちだ。「ばい菌!」「うつる!」などといじめを受けたことは、日本人帰国者に心の傷を与えた。

 非常時というのは、普段現れないものが出やすくなってくる。そんな時だからこそやはり見たい。中国人と日本人の底力というものを。

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当時、海外における新プロジェクトでタイ、中国とタイへの出張を会社の上司から

「お前は、タイに行ってこい。俺は(感染が報道されてない安全な)韓国行ってカルビ喰ってくるから。」って、半分笑いながら命じられた。全く酷い時代である。

 

上司の言う事が「正しくない」「こいつは自分の事しか考えてない」と確信したのは

この時である。当時は、部長とか課長とか偉そうにしていても「安全衛生」とか

「職場環境」と行った今では基本的な優先事項がないがしろであり、寧ろそれでも

特攻隊精神で戦地に赴くのが「会社への忠誠心」と言う極めて歪んだ精神構造が王道だった。

だから、不思議と出征して重用されるのが「太鼓持ち」、歪んだ忠誠心の表現として

飲み会で「完全な馬鹿」っぷりを如何に露出するか、下ネタも含めて実に悲惨だ。

 

悶々としながら、取り敢えず当時あまり世の中に浸透していなかったインターネット

のモバイル機器(ソニーのCLIEとかVAIOの初号機)と運よく宿泊先にインターネットが接続利用できるモデュールジャックがある事を望みつつ、優先型のカプラーを探し回り自費でコンセント変換プラグを購入し、行きたくもないSARS感染蔓延地区への出張へ赴いたものだ。今の若い人たちが聞いたら本当にびっくりするだろうが、それが現実だった。当時の会社のマインドとしては(少なくとも私の上司は)大敗を喫した太平洋戦争と同じだった。そんな地域へ出張に行って当たり前、と言うかこれも俺様が与えてやった教育、経験の一環という考えだ。この上司「ありがたく思え」ぐらいの感覚であった。

 

SARS感染と海外出張という状況で乗り込んだ(当時は、JAL機であったと思うが)

機内で乗客は殆どがマスクをする中、フライトアテンダントの女性達はマスクもせず

にこやかに対応していて、「ああ、プロだなぁ」と感激したものだ。

降り立ったタイの空港でもマスクの人々が右往左往する中、移動は殆どタクシーで

泊まったホテルのインターネット用のジャックでは持ってきたカプラーが悪いのか

結局、全然機能しなかった。つまり日本とのメールなんて無い状況である。

 

無我夢中で海外でのプロジェクトを殆ど英語だけで乗り切ったが、気が張っていたのかSARSの症状も出ずに帰国した。ところが別の中国出張時は、帰国と同時に脇腹が痛む仕方なく成田から自宅までタクシーで帰ったのだが、会社で上司から「なんで空港から(ムダ金使って)帰ったんだ!」とか、自前で購入した通信用カプラーや変換コンセントプラグ代金は、認めない!とか散々だった。

結局、帰国後病院での診察は疲労による肝炎もしくはストレス性のものとの事で、会社の上司にはどうでもいい事と扱われた。

 

つまり、現在の新型コロナウイルスの対応として、在宅勤務にするとか、その為の環境を整備するとか以前の凄まじい認識のズレがあり、上記のような「職場衛生環境」とか「従業員を大事にする」とかは軽視されていた。これも少子高齢化に伴い若い労働力が需給関係から希少価値があるようになったからという側面もあるかも知れない。

 

一つ言える事は、最終的に自分の身は自分自信で守らなければならないが、上記のような特攻隊宜しく「退路を考慮しない」「人を大事にしない」人は誰かの上司になる資格は無い。威張るだけ、リスクを下に押し付けるだけの人は、自ら不要だと自覚し退場しない限り都度のリスクでも毎回、犠牲者を拡大させるだけに終わる。

新型コロナウイルスの流行拡大が止まらない。そんな中、無責任にSNSで煽るような人々もいて、WHOはインフォデミック(情報の流行)という言葉でこれを批判している。

 

武漢では患者増加はやや鈍化し、中国の他の都市では武漢より患者数も死亡率も低い。生物兵器の流出などといった荒唐無稽な陰謀論を拡散する前に、中国の疾病対策で何が成功して何が失敗だったか、また、不幸にして亡くなった方はどのような要因が関与しているのかなど、日本での流行抑制に重要なことがあるだろう。

 

さて、新しい感染症の流行はたいていの場合、動物の感染症がヒトに宿主を広げることで発生する。自然宿主である動物の感染症(多くは無症状)がヒトに感染性を獲得することで人獣共通感染症となり、さらにヒトヒト感染を獲得することで新興感染症となるという典型的な疾患の成り立ちを提唱されている。

 

中国ではコウモリも重要な食材らしい。世界中の多くの国でコウモリを自然宿主とするウイルス感染がヒトにも広がるという事例がある。エボラ出血熱やハンタウイルス感染症、ヒストプラズマ感染症、そして狂犬病を含むリッサウイルス感染症など枚挙にいとまがない。

 

では、なぜコウモリは人にウイルスを感染させるのか。

哺乳類の中で唯一、長距離の飛翔を行うコウモリは、酸化ストレスにより細胞内に多くの核酸断片を生じる。断片化した核酸は通常では細胞内の分子センサーに認識され、細胞にウイルス抵抗性を与えたり、他の免疫細胞を活性化するインターフェロンという物質が誘導されたりする。しかし、コウモリはこのようなインターフェロン応答を欠き、結果、多くのウイルスに持続感染しているという。

 彼ら自身は未知のメカニズムでこれらのウイルスに抵抗するが、他の動物に媒介して疾病を引き起こすため、人獣共通感染症の原因となっている。空を自由に飛べるコウモリはその数が多く、世界では1000種に達する。多くは夜行性のため目が退化し、自ら発射する超音波の反射により餌や障害物など外界を探知する。

 

コロナウイルスの多くがコウモリを宿主としているため、過去にも今回のようなパンデミックがたびたび生じ、そのたびに人類やその祖先は治療薬がなくても獲得免疫の力でこれを撃退してきたのであろう。実際、SARSやMERSは今では跡形もないし、今回のCOVID-19も数カ月のうちに消えていくであろう(と信じたい)。その結果、残ったのが、感冒の原因となる4種類のコロナウイルスである。
 

今般流行している新型コロナウイルス(SARS-CoV2)は、現時点では特効薬もワクチンもなく、国内流行が始まりつつある現在、手洗いなどの個人衛生に努めるしかない。もう一つ、最近気になった論文は、喫煙が肺胞細胞のコロナウイルスレセプターACE2の発現を誘導するというものである。

 これは健常者の肺組織を用いた研究で、実際の患者さんの予後は未知数であるが、禁煙でウイルス結合性が低下するのであれば、少なくとも流行中は禁煙減煙するにこしたことはない。

 

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こういう科学的な検証に基づいたコロナウイルス発生と感染に関する理論を見ると

ウイルスは、まるで身軽で超悪徳な「不良賃借人」のようだ。まずコウモリという家に

入り込み増殖し、様々な経過を経て同じ哺乳類たる人類に「引っ越す」そして増殖

次にコウモリ以上に行動範囲も時間も長い人間を宿主として、自らのコピーを量産

そして遂に発症、人から人へと宿主を変えてフワフワと宿主の唾液や咳の飛沫に

潜み、中には感染者が触った物体に長時間待機して、次の「めちゃくちゃに出来る」

宿主たる家を探しているだけの存在だ。先ずは、この尖兵達を近づけない事こそ重要だ。

コロナウイルスの猛威で、結局発生源とされる武漢市はもとより

中国での封じ込めは失敗に終わった。日本での検疫は機能せず

感染は日本全国にばら撒かれた。

 

インフルエンザと異なり、本格的な春となり気温が上昇しても

コロナウイルスの流行が収束を迎えるかどうかは不明だ。

 

このまま夏に入れば東京オリンピックの延期または中止もありえる。

既にインバウンドによる経済効果は大幅ダウンしており旅館業や

交通関連もダメージは甚大である。

 

同時に世界の工場となっている中国の機能停止は日本をはじめ

世界のサプライチェーンの停滞となり、これにウイルス感染に

伴う人の移動も激減するので、体力の弱い中小企業をはじめとした

多くの企業・組織が活動・運営困難となり、金融機関もまた

貸し渋りに傾くので、大型倒産や失業者の増加、医療費出費の増大

税収の大幅減少、オリンピックはじめ各種イベントや関連活動の

停滞で経済的にも激甚災害となるのは確実となっている。

 

もし、この感染ペースが失速しないまま従来から指摘されている

南海トラフ大地震や首都圏への大地震・昨年以上の台風・豪雨等

が発生する可能性があり実際に発生したら、それこそ国家存亡の危機

となる。

 

グローバルでは、既にアメリカと中国が貿易戦争中であり、パリ協定脱退

というアメリカ一強を唱え大統領選だけをみているトランプ氏と中国の周主席は

まさに「分断の時代」の象徴であり、新型コロナウイルスの大流行は、この

「分断」の概念をウイルスと同時に世界中に感染させている。

 

中国人をはじめアジア系に対する暴力や差別、ヘイトはエスカレートしており

およそ「世界は一つ」という理想と真逆「個人主義の先鋭化」「分断の時代」

へと転げ落ちていっている。

 

これは、まさに世界大戦前夜の状況であり、ユダヤ人迫害と同様の排斥思想が

世界を覆い、自国第一主義が台頭する。関東大震災などで経済的に疲弊した

日本は満州国をでっち上げ大陸侵略・軍事拡張へと向かっていった時代である。

 

人は誰しも平和を愛し、戦争で悲惨な死を迎えたい等とは思わないが

与えられた運命や様々な災害、経済的な貧困、不安、恐怖が人を戦争へと

駆り立てる。理性よりも感情が支配する世の中である。

 

インターネットの発達とスマートフォンの普及、SNSによる情報拡散で

瞬間的に且つ写真や動画で情報が飛び交う時代なので、尚更情報や思惑が

先鋭化し、凄まじいスピードで「分断の時代」と「国家の弱体化」が

進行していく。

 

何があってもスマフォ画面では他人事であり、ウイルス感染というリアル

には極端に恐れ、人間としての協調やプラス側面はないがしろにされやすい。

 

既に政府も医療機関も会社も「たかが知れている実力」でありウイルスを

水際で止められず実力を曝け出してしまった。頼れるのは自分だけであり

他に信用できるものは一つもない時代である。

 

果たして、このウイルス感染に伴う物理的・精神的な「分断」を乗り越えて

無事に東京オリンピックを迎え「分断」から「協調」の時代に出来るかどうか

我々は今、まさにそうした瀬戸際に立たされている。

パンデミックの歴史、スペイン風邪の猛威とインフルエンザの起源

 

ダイヤモンド・オンライン



● 世界の人口の約50%が感染した 「スペイン風邪」とは?

 新型コロナウイルスが猛威を振るっている。世界保健機関(WHO)は、肺炎の感染拡大に対処するとして「緊急事態」を宣言した。今のところ治療法もワクチンもなく、中国に拠点を持つ日本企業は緊急体制に入っている。

 感染が短期間で世界的に拡大し、多数の人々が年齢を問わず感染する「パンデミック」。

人類はこれまで何度もこうした状況を経験してきた。

 近現代においてその中で最も世界を脅かしたものは、「スペイン風邪」だろう。

インフルエンザの一種であり、第1次世界大戦のさなかに瞬く間に世界中に広がった。

20世紀初頭は「ウイルス」という概念がまだ新しく、抗生物質も発見されていない。手洗いやうがい、患者の隔離といったことしか手だてがなかった。

 約5億人、世界の人口の約50%が感染し、25%が発症。死者は5000万人ともそれ以上ともいわれている。

日本では1918年の11月に全国的に流行し、3年間で人口の約半数の2380万人がかかり、約39万人が死亡したと報告されている。

● インフルエンザの 名前の由来は「星の影響」

 そもそも「インフルエンザ」はいつから人類を脅かしているのか。起源について調べてみると、平安時代の歴史書『日本三代実録』内に、「京都だけではなくほぼ全国にわたって多くの人が『咳逆』を患い、多数の死者が出ている」といった内容の記述がある。

 さらにさかのぼると、紀元前412年に古代ギリシャの医者、ヒポクラテスが「突然、住民たちが高熱を出し、震えや咳が止まらなくなった。

たちまち村中にこの症状が広がり住民たちは怯えたが、すぐに去っていった」という記録を残している。

しかしインフルエンザという概念の成立はここ100年。いずれも実際にインフルエンザだったかどうかの真偽は不明だ。

 インフルエンザの言葉の由来は「Influentiacoeli」という単語。ラテン語で「星の影響」を意味する。毎年、冬から春にかけて流行するという周期性から、16世紀にイギリスの占星術師がこのように呼んだとのことだ。

 これまで何度もパンデミックは世界の歴史に大きな影響を与えてきた。前述のスペイン風邪は戦力不足を招き、第1次世界大戦の終結を早めたという。今回の新型コロナウイルスは米中貿易戦争にどのような影響を与えるのだろうか。

ダイヤモンド編集部/長谷川幸光

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聖書に「Judgement day」(最後の審判)が記述されている。

 

ウイルスそのものは、地球が生命体を育む時期から存在しRNAだけを持つカプセル体として

宿主たる多彩な生命体に入り込み増殖する。一方でその宿主が死亡する等してしまうとウイルス自体も増殖が出来なくなる。

いったい何のために存在しているのか、実に謎につつまれた、そして変化・変装が得意な存在でもある。

 

新型コロナウイルスは、これまでのSARSやMARS, エボラ出血熱などと異なり「感染後に時間が経過しても症状が発現せず

単なるウイルスの媒介キャリアとしての罹患者が多い」という、まるで神出鬼没でトレースが出来ない事が特徴だ。

 

高齢者をはじめ持病を持っている罹患者は、重症化し死に至るウイルスであり、現時点での割合としては少ないものの

子供や健康な若者にとっても、ウイルスの変性によって致死率や毒性及び感染力が異なってくる場合もあるだろう。

 

人類の歴史に於いて、まさに「最後の審判」たる世界的なパンデミックは歴史上なんども発生している。

典型的なのは、(前回のブログで触れたが)中世のペストであり、第一次大戦時のスペイン風邪、

そしてSARSであり、MARS、エボラ出血熱、新型コロナウイルスへと続く。

 

神が存在し何らかの理論的且つ合理的な原理原則で、生命を育んだり命を召されたりするとは思えないが

これだけ人類の歴史で反復して様々な感染症が出現し、命を淘汰していくのは非常に割り切れないが

それはそれで自然の摂理なのだろうか。つまり命を淘汰し生き残った生命体を地上に残し、そこからまた

福音書で描かれる復活が始まるという繰り返しである。

 

それは大局的にみれば生命の進化の一旦であり、人類の歴史の1ページという事になるのだろう。

何人が感染した、何人が死亡したという問題でなく、その一人一人の人生であり営みの延長であり

かけがえのないたった一つの命である事を思い、中国だから危ない、アジア人は感染しているとか

短絡的な人種や地域排斥論にならない事を心から願う。

 

逆にこのパンデミックに近い危機的状況を乗り越えた先に、そうした偏見や排斥をも乗り越え

人類が目指すべき、注力すべき本来の道が鮮明に見えてくるのではないか。

 

それが出来ない人類には、まさに「Judgement day」が訪れるであろう。

 

武漢病毒研究所がコロナウイルスの感染源?

米紙「生物兵器を漏らした」可能性を指摘

アメリカのワシントン・タイムズは26日、コロナウイルスによる新型肺炎の感染源として

中国科学院武漢病毒研究所」での秘密の研究開発に関連しているかもしれない」と報じました。

信じがたい話ですが、ツイッターではこの「中国科学院武漢病毒研究所から漏れた説」が徐々に拡散。

ヨーロッパ等では、

1、武漢海鮮市場からほど近い中国科学院武漢病毒研究所」で開発中の高い感染力をもったウイルス兵器の漏洩説

2、中国と5G覇権も含めた貿易戦争をしているアメリカが春節を狙ったバイオテロ説 等

憶測が飛び交っている状況。

いずれにしても自然界から由来したものでなく人為的に操作されたウイルスならば

今後、高い致死力の毒性と強力な感染力を併せ持ったものを生み出す可能性すらあり、

中世のヨーロッパにおけるペスト(黒死病)蔓延やレマルクの「西部戦線異常なし」で知られる

長期膠着に陥った第一次大戦を事実上終結せざるを得ないようにしたスペイン風邪同様に

世界的なパンデミックリスクが露呈した形となろう。

もし自然界由来のウイルスの変異であって、もともと人間以外の蝙蝠や蛇などの生物を宿主とするウイルスが人に接触

または捕食され感染源となった、とすれば、これもまた人間が本来の生活圏から逸脱し野生動物や自然界の生物に接するほどに

自然環境を破壊している、という事に帰結する。

人間が自然界を汚染や破壊すると逆に自然界から人類の健康が汚染され脅かされ、猛省を促されるのだ。

それは、ペストplague=疫病神、苦しみ)によってヨーロッパの人口が激減し人々が信仰に頼らざるを得なくなり

「福音」(EBANNGERI)の到来を待ち望む姿と何世紀を経ても変わらない。

「当然」か「不要」か 会社が社員に課す「ノルマ」の功罪

■社員にノルマを課すのは逆効果 その理由とはそもそも、従業員にノルマを課す企業の思惑とはどのようなものか。
そこには当然ながら業績の向上があり、従業員を管理したいという思惑もある。 >ただ、従業員をノルマで縛りつけることで、業績は上がるのだろうか?

>会社として従業員にノルマを負わせることにはメリットもある。

課せられた数値目標を達成するためにはどうすればいいのかを考えさせ、

実行させることによって、営業であれば売るためのスキルは身についていくだろう。

ただ、こうした働き方は決して「主体的」とは言えない。

ノルマとは、本人の意志とは別のところで課された義務だからだ。

義務を果たすための行動を主体的とは呼ばない。そして、こうした働き方を長く続けることはむずかしい。

社員はノルマをこなすために入社するわけではない。

その人なりにその会社でやりたいことがあって入社してくる。

そうした人材にノルマだけを与え続けると、次第に疲弊し、モチベーションは失われる。

人材それぞれへの影響だけではない。本書では、ノルマを課すことの組織への悪影響についても指摘している。

ノルマを追うことによって、それ以外のことへの関心度は下がる。

最終的に行きつくのは「ノルマさえこなしておけばOK」という思考だ。

そうなると、組織全体の改善のアイデアや、新しいビジネスのアイデア、自社が提供しつつある新しい価値についてのアイデアは生まれない。

こうなった会社はジリ貧だ。未来についての新しいアイデアを生む時間を削って、目先の利益を作っている状態だからである。

ノルマという短期目標を追わせた結果、会社の将来が損なわれてしまうことが往々にして起こりうるのだ。

経営陣がそのことに気づいた時にはもう遅い。方向転換には大変なコストと時間がかかる。

「あと何件で売り上げ達成?」

「売り上げを達成してから言いたいことを言え」

長くこんな言葉が飛び交ってきた日本の企業だが、ノルマがなければ社員は働かないというのは経営側の思い込みにすぎない。

■ 残業は文化である

2019年も残すところ、あとわずかとなった。来年4月から大企業のみならず、中小企業もすべて残業上限規制の新ルールが適用(原則として月45時間・年360時間)される。そんなご時世なのに、今年1年も「終わらない残業」に苦しんだビジネスパーソンは多かったのではないか。

<私は残業を、野球でいうところの「延長戦」だと捉えている。したがって毎日残業している人は、毎日「延長戦」をやっているようなものと受け止めてほしい。労働条件の悪い「ブラック企業」とレッテルを貼られる前に、不毛な残業は一掃したい。>それにしても、なぜ残業はなくならないのか?

私は企業の現場に入って目標を絶対達成させるコンサルタントだ。「絶対達成」がスローガンだから、現場に入ったら本気で残業を減らしてもらう。だが実際のところ、簡単に残業は減らない。なぜなら、残業は「組織の文化」だからだ。

>■ 残業しても許される「空気」<残業は、組織の文化だ。・残業したほうが頑張っていると評価される「空気」

残業するのが「あたりまえ」だと信じて疑わない「空気」<このような空気が組織にある限り、「終わらない残業」は減らない。残業ゼロにしたい、休日出勤を減らしたいとは口にしていても、実際にはその空気が許さないからだ。

>「同調圧力」である。どんなに業務の棚卸をして「ムリ・ムダ・ムラ」分析をし、個人個人に働きかけても、残業がなくならないのはそのせいだ。

■ 不人気なレストラン >「終わらない残業」を社員にさせている企業は、組織文化そのものを変えない限り、未来はないだろう。そのような組織文化の企業に、優秀な人財が入社するとは思えないからだ。いっぽうで、いつも「終わらない残業」をさせられている人は、自覚したほうがいい。知らぬ間にマーケットバリューが落ちていることを。先述したように、「終わらない残業」をさせるような企業に優秀な人財は来ないそのような組織にいて、「終わらない残業」をさせられつづけたら「思考停止」になってしまう。この会社を変えようという改善意欲も出てこないし、転職するために自己研鑽する気にもならない。>ずっと「不人気なレストラン」へ通い続ける客と同じ状態になっているのだ。他にもたくさん、良心的な値段で、美味しい料理を出す、しかも笑顔のステキな店員がいるレストランがあるというのに。だから、あまりに思考停止だと、転職という選択肢も思い浮かばないことが多いのだ。 >企業の再生支援をしている際、なぜこのような、優秀な社員がこの会社にいるのか」<と驚くときがある。本人に聞いても、ハッキリした理由はない。会社に恩義があるわけでもないし、世話になっているお客様がいるわけでもないと言うのだから。 ■ 考える力を養え=>それでは、なぜ思考停止になってしまうのか? 理由は単純だ。脳に空白がないからだ。毎日余裕がないから、脳に空白を作る暇がない。そして空白がないから、その空白を埋めようと思わなくなる。>では、空白を作るにはどうすればいいか? 

>簡単だ。切り口の鋭い質問をすればいい。一度立ち止まり、冷静になれる時間を見つけて、自分に対し、質問してみるのだ。たとえば、以下のように。・実際に、「終わらない残業」って何だろう?

・誰が、「終わらない残業」を自分にさせているのだろう?

・「終わらない残業」って、本当に終わらないのだろうか?

・本当はもっと早く終わるのに、自分自身で「終わらない残業」にしていないだろうか?

・「終わらない残業」を終わらせるのに、自分は何をすればいいのだろうか?

・「終わらない残業」をやらないと、どうなるのだろうか?

・「終わらない残業」をやりつづけると、どうなるのだろうか?

このように、いろいろな質問を自分にぶつけてみよう。あらゆる角度で自問自答してみるのだ。それだけでいい。

答えがわからなくても、一つでなくても、かまわない。質問をすることで脳に空白ができる。その空白を頭に残しながら日々過ごすのだ。そうすることで、少しずつ頭がまわりはじめる。思考停止状態から抜け出せるのだ。「終わらない残業」を終わらせるために、まず考える力を養うことをめざそう。

decoration: none; text-indent: 0px; text-transform: none; -webkit-text-stroke-width: 0px; white-space: normal; word-spacing: 0px;">長くサラリーマンをやってきて、ノルマとか実施計画の進捗報告という「管理側」の都合で右往左往させられてきた。

一方でISO審査員・プロの経営監査人としては、KPIがある事は運用の仕方次第で人的資源の力量成長に資するとも思う。

但し、多くの日本の企業が設定しているノルマや実施計画の内容は、実施する社員を評価するのに適していないし、仮に社員が成果を出しても、適切に納得感がある形で評価され本人自身も己の成長に喜びを感じるというレベルに無い。

私は長年、会社の実施計画と共にそれによって得られる自分自身の為のMy実施計画を自ら作りモニタリングし、自分自身にどう反映され自分の人生にプラスになっているか、を意識してきた。

つまり組織としてのノルマや実施計画と個人としての力量やキャリアプランとのシンクロが必須だと思う。

例えば、あるノルマやミッションが所属する組織から課せられた場合(または自分で設定する事もあるが)、その結果得られた実績やノウハウに基づいて公的資格の条件を満たす等の「仕掛け」を作っておくのである。

そうしないと単に組織都合で、他人に押し付けられた目標遂行だけで心身ともに損耗するだけである。

結果、どのような成果評価をされ賞与などに反映されても反感や脱力感を積み上げるだけとなる。

更に言えば、その組織だけでしか使いものにならない労働力にされるだけとなる。それは凄まじいリスクだ。

ノルマや実施計画を管理する側からすると、およそTVドラマみたいな「凄いね!君!」なんて事は皆無だし、その気も無い。

というか、もしノルマや実施計画を達成しても、「やって当たり前っしょ」ぐらいであり、「じゃあ、来年はもっと出来るね」となるだけなので、酷い蟻地獄なのだ。むしろ目標より成果を出しても「いや、相対評価だからね」とはぐらかすだけだ。

ノルマや実施計画ありきの組織は、どんどん「お役所的」になり社員のオリジナリティやクリエイティビティは無くなる。

前の人がやっていた通りにコピーすればクリアぐらいの感覚となる。それは「バカの循環」となっていく。

20代~40代の方々は、PCで綺麗にコピペするのは得意だが、本当に自分の頭で考え自分で行動し自分で稼ぐという力は日々削がれて他の組織でも通用するプロフェッショナルから遠ざかる事を改めて考えるべきだろう。

定年後も“好き”を仕事にできる人が50代でやるべきこと

11/30(土) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

 メットライフ生命が今月26日に「老後」に関する調査結果を発表。対象者の男女1万4100人の8割以上が不安を感じていると回答した。20~50代の不安要因の1位は「お金」……大きくうなずく読者も多いのではないか。

 フツーのサラリーマンが不安を解消できる唯一と言っていい方法は「定年後も働き続ける」。しかし、雇う側としては「どうせなら若い人を」。さて、どうする? NPO法人「シニアわーくすRyoma21」理事長で「定年後も働きたい。」の著者・松本すみ子氏(シニアライフアドバイザー)に詳しく聞いた。

「それでも人材不足に悩む中小企業では、60歳以上も需要がある。当然ながら誰でもいいわけではない。定年後も生き生きと働き続けられるかどうかは、『何ができるか』『何をやりたいか』をしっかり考えているか、にかかっています」

 よくあるダメパターンがこれ。「元部長」など現役時代の肩書を振りかざし、「巨額の金を動かしてきた」「海外で大きな商談をまとめてきた」など、とうとうと述べる。雇う側としては「で、何ができるの?」。

「求めているのは即戦力です。商談をまとめるために相手先をどう探し、接触したか。スキルをどう生かせるかをアピールする必要があります」(松本すみ子氏)

「再雇用制度」も考えものらしい。期待されない人材として無為に年数を重ねてしまいかねないからだ。

 成功例として松本氏が挙げてくれたのが、プリンターの製造大手で現役時代を過ごした齋藤昭男さん。齋藤さんは日本初の民生用インクジェットプリンター開発者で、定年後は再雇用を選択。役割はアドバイザーだったが、指示命令を出すことはできず、ミッションもなく、3カ月でやることが尽きてしまった。普通ならここで腐ってしまうだろう。しかし、齋藤さんは違った。

「再雇用期間を利用し、自主的にCADやエクセルを使ったデータ整理の勉強を始めたのです。結果、再雇用期間後の就活で、『もっと若いのがいい』と厳しく言われながらも、CADやエクセルの技術をアピールし、採用されました。新しい仕事はインプラントの設計開発で、希望に近い内容に満足しています」(松本すみ子氏)

 齋藤さんの例から学ぶべきことはもうひとつある。“日本初の民生用インクジェットプリンター開発者”であっても、「何ができるか」をしっかりアピールできなければ、再就職は困難だっただろう、ということだ。

「定年後に考えるのでは遅い。遅くても50代から考え始め、動くべき」(松本すみ子氏)

 これを読んだ“今”がそのタイミングだ。

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職場には、偉ぶった「評論家」は、わんさか居る。自らは価値を生みだす能力は皆無だが肩書だけで口煩い老害管理職が跋扈している。

彼らは、60歳になれば定年、その後は年金受給出来る65歳まで再雇用というベタなパターンしか描けない。

それは、肩書も失い且つ「寿命までの”自由な時間”」を失い、且つ仕事へのモチベーションや自分自身の可能性まで失う。

そもそも定年再雇用で安心それから年金もらえて安心、という発想自体が貧困そのもの。自らの「心」がみるみる腐っていく。

身体は機能低下し、疲労からの回復力も低下する。病気のリスクは増大する。判断力も低下し後輩、若輩者から邪魔者扱いされる。

退職金で多少懐は温まるかも知れないが、その後は定年再雇用で得られる大幅に少なくなった給料での節約生活であり、

全く期待されない雑用に近いモチベーションが低い業務の日々であり自らの成長機会や現場最前線での活躍も期待されない

狭い職場の人間関係の中で縛られた「実に面白くない5年=1825日」と「その後の年金頼み」の寿命となる。

中には我慢を重ねた定年や定年再雇用直後にバッタリと急逝する人もいるだろう。それは満足し満ち足りた人生だろうか?

 

マルクスが、「貨幣価値は、使用価値」と喝破したように、老齢化した労働力とて突き詰めれば「使用価値」だ。

単なる酒のみタバコ好きな「排泄物製造生物」になるか、それとも何か「使用価値」がある高齢者になるか。

年金受給される年齢ならば、一部を除いてかなり介護が必要な「排泄物製造生物」となってしまうが

若い時から、世に必要とされるスキルやノウハウ、突出したものがあれば「使用価値」を発揮出来る。

つまり、高齢化を迎える前に「自分自身を分析し、自らのライフワークなり人生設計」を積み重ねてこないと

定年を迎える頃には、「自由な”命を開放し、堪能できる”時間」を浪費する人生しか選択出来なくなるのだ。

それは、今の貴方の生き方次第。昨日まで、そして今日の積み重ねの上にしか明日は来ない。

「定年まで待つな!」 座して死を待つ事勿れ。

 

財産は使い切らず、「死ぬまでお金持ち」の方がいい <資産を寿命にあわせてキッチリ使うのは「貧乏な状態で人生を終える」こととなり、お勧めできません。

 

では、築いた資産はどのように活かすべきなのでしょうか? 人生100年時代の資産形成に役立つ、堅実で科学的な株式投資術をわかりやすく解説します。

「死ぬまで安心」の理想の老後を達成するには?

ここでは思い切って「理想の老後」というのを描いてみましょう。 

『70代は「来ない」かも…会計学教授が語る「老後対策の原点」』 で、

老後に必要なのは「少なくとも金融資産が3,000万円と築20年以内でローンのない自宅」ということを書きましたが、

ここでは理想をもっと追求してみます。

ローンのない自宅はもちろんとして、金融資産が「1億円か2億円ある」というのが理想です。

そして、そこから資産所得が生まれます。

株式配当か家賃収入です。

それは税引き後の利回りで3%以上あるのが理想です(ここでは利回りは3%として話を進めます)。

そうすると、資産所得が300万円以上か600万円以上はあるということになります。

この資産所得に加えて、一応いくらかの年金も入ります。

遠い将来は、年金財政はあてになりませんが、

当面は(向こう10年か15年くらいの間は)少なくとも年額で200万円くらいはもらえそうです

(受け取れる金額は、掛け金の多寡や各人の事情によってもちろん異なりますが)。

なお、年金収入が将来減額された場合には、その分は資産の食いつぶしでカバーします。

そうすると、老後の家計所得は税引き後で500万円か800万円になります。

そして、老後の支出は、この家計所得の範囲内になるように調整します。

老後の家計所得が税引き後で500万円か800万円あれば、よほど贅沢な生活をしなければ、家計収支は黒字になります。

これで死ぬまで安心です。

さて、いざ夫婦がともに死んだ後はどうなるのでしょうか。

1億円か2億円ある資産は、「子孫に遺す田畑」のようなものとして、子供に遺すことになります。

ちなみに、私は若い頃から「児孫の代に美田は遺さず」ということを肝に銘じて生きてきました。

ですから、少し前までは「きれいに使い切って死にたい」と考えていたのです。

しかし、人間はいつ死ぬかわからない生き物ですから、ちょうどうまい具合に「きれいに使い切って死ぬ」のは至難の業です。

一方、最近気づいたことがあります。

それは、財産を「きれいに使い切って死ぬ」というのは「貧乏マインド」だということです。

すなわち、たとえば1億円とか2億円とかをもったまま死んだほうが「お金持ちのまま死ねる」

「死ぬまでお金持ちだった」ということなので、やはりそのほうがいいということに気づきました。

ですから、財産の元本部分まですべて使い切ることはあまり考えずに

、家計所得の範囲で優雅に老後生活をエンジョイしたほうがいいでしょう。

なお、年金収入が減額されたり、医療費などがかさんで支出が想定外に増えたりした場合には、

これは仕方ないので1億円か2億円ある資産(=元本)を少しずつ取り崩していけばいいのです。

毎年200万円くらいを取り崩していっても、50年~ 100年はもつわけですから。

また、もしも遺したい子孫がいない場合には、夫婦がともに死んだ後には、

残っている元本部分はどこかに寄付することにすればいいでしょう。

資産の「氷山」を作り、受け継いでいく

要するに、「1億円か2億円ある資産」は「氷山」のようなものです。

氷山は、ほんの一部分しか水面上にその姿を現していないのです。

それが3%の配当と家賃収入です。

水面下に潜む大きな部分が元本部分であり、そういった氷山のような構造を創り上げておくことによって、老後の生活が未来永劫にわたって盤石なものになるのです。

それが理想形なので、きれいに使い切って死ぬなどということは考えないほうがいいと思います。

ざっくりですが、たとえば夫婦のうちどちらか長生きしたほうが82歳で死ぬとします。

そして、一番年上の子供との年齢差が30歳とすると、親が両方死んだときの(一番年上の)子供の年齢は52歳ということになります。

そうすると、時期的な意味では、子供が老後対策のたけなわの歳になったときに、

親の「氷山」を受け継ぐことによって、子供の老後対策がとても有利になるわけです。

親の「氷山」は相続財産ですから、もちろん相続税も課されますし、子供が何人かいれば、その人数で分割して相続されるので、受け取る子供の側としては、「氷山」は充分な金額にはならないかもしれませんが、かなり大きなサポートとして次世代にも「氷山」の機能を発揮してくれることになるでしょう。

ただし、この世を去る前に、子供には「受け継ぐ大金を散財するのではなく、きちんと老後対策の一部として(「氷山」の土台として)大切に受け継いでいくように」といった「帝王学」を授けておく必要があります。

榊原 正幸

青山学院大学大学院 国際マネジメント研究科教授

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この記事は、まさに実践中・継続努力中の内容だったので腹落ちした。

 

つまりプロジェクトマネジメント(PM)で、コンティンジェンシーバジェットの考え方があるが

まさにPMBOK(プロジェクトマネジメントノウハウ)そのものと言える。

 

雇用者のままで得られる給与所得、すなわち自らの労働力だけで生涯コストを得ようとしても

余程の固有・特殊技能なりを持っていてオファーが次々に入ってくるような才能に恵まれた人でなければならない。

殆どの人間は、死ぬまで労働力を提供するというのは実質的に無理があるだろう。

少なくとも日本人は、「寄らば大樹の陰」で、自分で狩猟に行く(行ける)人は少数だ。

欧米人は、若い時からリタイヤ後の不労所得を意識しており、ファイナンシャルリテラシーも習得する。

全て労働力に依存して現金で預貯金に励むだけでは、長寿命社会と減りゆく年金に耐えられない。

つまり、労働力依存所得から不労所得でのキャッシュフローを得る戦略転換が欠かせないのだ。

年金は、その補助という位置づけとなる。つまり不労収益を得ているなら税金も発生するので主にそこに充当される。

不労収益自体も複業というか、多数化、多元化を図って「二の矢、三の矢」というレイヤー構造でリスクに備えるべし。

65歳だか70歳だか、定年再雇用となっても結局そこからは勤め先からは離れていく方が大半だろう。

自営業なら、まさに死ぬまで社長なり会長という事も可能だろうが、その場合は給与収入を得るというよりも

自分でやっているビジネスが趣味のように大好きで離れられない、それ以外に身の置き場所が無い方に絞られる。

既に国なり年金に依存して老後を生きるという選択肢の時代は終わった。

高齢化すれば、体調もどこか不調が多くなり健康食品や医療費に掛かる費用も増える傾向となる。

どうしたら日々老朽化していく身を削らずに、そうした費用負担増加を含めて粛々と老後を迎えれるか、各自の人生戦略は必須となる。

「変化のない平坦な道」が長く続くことは「会社依存体質」からの脱却の妨げに 

定年後・自走人生のススメ

11/16(土) 16:56配信

夕刊フジ

「変化のない平坦な道」が長く続くことは「会社依存体質」からの脱却の妨げに 定年後・自走人生のススメ

 【定年後・自走人生のススメ】

 定年後研究所では、40~64歳の現役会社員を対象に「70歳定年に関する調査」を実施した。

その結果、約7割もの中高年社員が、「65歳以降の理想の働き方は、現在と同じ会社で働くこと」と考えていることがわかった。新しいことにチャレンジする“リスク”よりも、安定した収入が得られる「今の生活を変えたくない」からというのが理由だ。多くの人が「安定志向派」であり、「チャレンジ派」は少数である。

 では、その理想の「実現可能性」はどうだろうか。65歳以降の理想の働き方が「実現する可能性あり」と答えた人が、全体の50・4%で、「可能性なし」との回答は16・1%となった=図参照。

 65歳以降も「現在と同じ会社で働く」ことを理想とする“安定志向派”の人たちもほぼ同様の傾向で、「実現可能性あり」が51・4%、「可能性なし」が16・4%であった。

 「多くを求めなければ、今の会社で働き続けられるのでは?」という意識でいる中高年社員が、約半数ということになる。逆に、「今の会社で…と希望しているが、そううまく行かないのでは?」と懐疑的に考える人は、6分の1しかいない。

 これらの結果をみると、現在の中高年会社員が考える「65歳以降の働き方」は、変化のない平坦(へいたん)な道の選択であり、その実現の可能性について、とても楽観的に考えているような気がしてならない。これでは、会社という「頼るもの」の存在から脱却できないままに、その時(=定年)を迎えることになってしまうのではなかろうか。

 定年後研究所で提唱している定年後の「自走人生」を考えた時、将来に「自立して、自走する」ための訓練や準備が、現役のうちからできるのだろうか。

 これらの懸念が、杞憂(きゆう)であったり、取り越し苦労であればいいが、「変化のない平坦な道」が長く続くことは、往々にして「会社依存体質からの脱却」の妨げになってしまいがちであることに注意が必要だ。

 今回の調査では、40代男性の意識が少々残念な結果であった。「65歳以降の理想の働き方」を「現在と同じ会社」とする割合は、40代男性が一番高く、50代男性を7ポイント近く上回っている。そして、その「実現可能性あり」という回答も、40代男性は58・5%と50代男性(56・3%)よりも高い。40代にとっての「65歳以降」は、ずいぶん先の話であるにもかかわらず、今から「現状を維持し、安定を志向する」という意識でいいのだろうか?

 ■得丸英司(とくまる・えいじ) 「一般社団法人定年後研究所」所長。(株)星和ビジネスリンク取締役専務執行役員。1957年生まれ。日本生命保険で25年にわたり、法人・個人分野のFPコンサルティング部門に従事。日本FP協会常務理事、慶應義塾大学大学院講師などを歴任。日本FP協会特別顧問。

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非常に的を得た記事である。

2019年の年末、世界は明らかに変化点に来ている。飽和状態から沸点に達すると一気に変化が加速するような時期だ。

それにも関わらず周りの人間は、現状打破とかチャレンジを嫌う。昨日と同じ今日、そしてずっと同じ事を望む。

毎日同じような日が経過し、毎月同じような給料が振り込まれ同じように出費が続く事を望む。

でも、現実にはそうはいかない。そもそも人間は日々老化しており今日より明日の方が死に近いからだ。

歳をとって自分の人生を回想しながら死を迎える人もいれば、急にその時が来てしまう人それぞれだ。

だからこそ、本来であれば人はその瞬間を自分に納得できるように精いっぱい悔いなく生きるべきだろう。

我慢を重ね現状維持だけでは、まさに「座して死を待つのみ」であろう。または定年を迎えてから後悔するだけだ。

少なくとも60歳定年なり65歳まで定年再雇用であれ、要は属する会社・企業なり組織と個人の契約である。

会社行事とか上司指示は、ネオナチよろしく延々と「ハイル、ヒットラー」だけやってるのは、この変化点で生き残れるのか?

大企業に属する場合は、言わば「地引網、はえ縄漁」的なイメージでそれぞれの食い扶持を確保する。

個人事業なら「一本釣り」的なイメージだろう。大事な事は、如何に食い扶持を必要な時に必要なだけ確保できるかだ。

如何に大企業でも、獲物のいない猟場に大規模な網を投じ続ければ疲弊し組織としての体を短期間で失うだろう。

自分でも獲物の居る場所を察知し、自力で食い扶持を得られれば何もルールだらけ忖度だらけの組織にいなくても良いのだ。

大事なのは、大物の魚を与えてもらう事ではなく、自分自身で魚を釣り上げれるスキルに尽きる。

そして、そのスキルは個人に保有され他に移転されたり奪われたりしない真の財産になるだろう。

しかし、往々にしてそのスキルを身に着けるのは時間がかかる。簡単に得られるものは、簡単に失う。

自分なりに自分の生き様、人生を熟慮し長年かかってもスキルを磨く、組織に依存しない生き方を創造するのも自分次第だ。

竹中平蔵「現代人は90歳まで働くことになる

10/20(日) 15:15配信

プレジデントオンライン

竹中平蔵「現代人は90歳まで働くことになる」

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SARINYAPINNGAM 

 Q. 専門性が身に付かない

■学歴よりもコンパスを持つ

 意外と意識している人はまだ多くないのですが、私たちはこれからすごく長寿の時代を生きることになります。たとえば100歳まで生きるとすると、90歳くらいまでは働くことになるでしょう。でも、約70年間1つの会社で働くなんてありえないですから、どこかで転職をすることになる。そうしたときに、専門性が身に付いていない人は生き残れないわけですね。

 MITのメディアラボの標語に、“Compasses over Maps”という言葉があります。昔だったら、偏差値の高い大学を出て、大企業に就職して、そこで管理職になればそこそこ生きていけた。それが人生の「地図」だったわけですね。でも今の時代、地図はどんどん変わっていく。昨日までそこにあった橋が急になくなったりするわけですよ。コンパス、つまり進むべき方向を見定めて前に進む力が必要になってくる。それが専門性です。

 しかし、日本はみんなジェネラリストになるための教育を受けるので、ものすごく専門家が少ない社会です。ただ、ジェネラリストにも二通りのパターンがある。何でもできるジェネラリストと、何にもできないジェネラリストです。

竹中平蔵「現代人は90歳まで働くことになる」

竹中平蔵 著●竹中平蔵が語る、グローバルな基準で生涯挑戦しつづけるための、12の革新的ヒント。自分をプロデュースする力を身に付けよ。(幻冬舎) 

■専門性を身に付けるにはどうすればいいか

 変化の激しいこれからの時代、前者が生き残り後者は淘汰されていくのは言うまでもありません。では、何でもできるジェネラリストになる、つまり、専門性を身に付けるにはどうすればいいか。私はこの本の中で、次のようなことを書いています。

 “いちばん重要なのはまず「自分をプロデュースする」ことではないでしょうか。

 それはつまり、自分自身が何をしたいかをまず明確にすることです。それをあえて「プロデュース力」という言葉に言い換えたいと思います。このようなプロデュース力を持てば、あなたの人生にあなた自身がもっと関心と目的意識を持ち、真剣に取り組めるのではないですか”

 その具体的な方法として、私は自分の10年後、20年後の履歴書を書くことを勧めています。具体的に未来の夢を形にし、実現するには今何をすべきかを逆算するのです。

 この逆算方式は人生を充実させる重要なツールです。私も大学を卒業して日本開発銀行に就職した頃、「自分の本を出す」という夢を逆算方式で叶えたことがあります。

 一冊の本を出すには、400字詰めの原稿用紙で300枚ほど書けば達成します。そうすると、1日3枚書けば100日で本が書けると逆算した。それからは、毎日家に帰ってから1日3枚とにかく書き、当初の予定通り100日で自著を完成させました。

 昔は上司に付き合って意味のない残業をしたり、付き合いで飲みに行って上司の自慢話を聞かされたりする時代だった。でも、今は働き方改革でそういったことから解放され、恵まれた環境になりつつありますね。ただ逆に言うと、会社が今までのように100%面倒見てくれないから、自分で専門性を身に付けていかないとサバイブできないという苦しい時代でもある。だから、早いうちから自分の「コンパス」を持つことが必須となってくるのです。

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竹中 平蔵(たけなか・へいぞう)
経済学者/東洋大学国際学部教授

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本当に大事な事をおっしゃっている記事だと思う。

 

もう「サラリーマンは気楽な稼業」ではない。

名門大学卒業も超優良企業への就職もあなたを生涯保証してくれない。

というか、逆にそうしたキャリアさえあなたが自在に将来を決める妨げになるかもしれない。

 

世間でいう良い会社、一流企業で働く事や出世自体が自分自身をプロデュースする

という行為と真逆の全自動システムに組み込まれる事だからだ。それは絶滅する恐竜。

或いは将来、歴史データにのみ残されるレガシーシステムになる可能性高い。

人事異動も出世も肩書も転勤も全て他人の意向次第という巨大歯車のパーツ人生。

 

進化の歴史、特に生物の進化を辿れば「絶対的な安泰」など無い事は明白。

常に変化に柔軟に対応できる「専門性」や「進化力」あるものだけに明日は訪れる。

そしてどんな時代であれ昨日の延長戦上に今日は存在し、その今日があってこその明日だ。

 

大局的には今までの10年なり100年があってこその、これからの10年であり

これからのあなたの将来なのだ。

 

最初に海から陸にあがった生物はどんなに不安で心細かっただろうか、

必死だっただろうか、それでも前に向かって進んだはずだ。

その古代の弱々しい生き物と私達の生き方には、然程大きな差は無い。

 

変化に柔軟に対応した専門性と貫く勇気、意思こそ進化の王道なのだ。