We usually think of narcissism as a personal flaw — a grandiose ego, a craving for attention, a lack of empathy. But what if narcissism is not just a diagnosis, but a lens? A way of understanding how individuals — and even entire nations — cope with wounds too painful to face directly?
(Dr.Gary E Myers, Professor of psychiatry)
(訳)私たちは通常、ナルシシズムを個人的な欠点、つまり誇大な自尊心、注目を浴びたい欲求、共感力の欠如として捉えがちです。しかし、ナルシシズムが単なる診断ではなく、レンズだとしたらどうでしょうか?個人、さらには国家全体が、直接向き合うにはあまりにも辛い傷にどのように対処するかを理解する手段だとしたら?
(ゲイリー・E・マイヤーズ博士、精神医学教授)
※ マイヤーズ博士は南イリノイ大学メディカル・スクール教授、論説はヨーロピアン・プラウダから。
ネットの匿名性と度を超えた誹謗中傷は、このメディアが始まった当初から問題視されていたものだけれども、彼らの言い分のおかしさや、躾のなっていない子供のような無礼な態度については、「教養が低いから(学がないから)」、「頭が悪いから(IQが低いのだ)」、あるいはもっと直截に「キチガイだから(精神を病んでいる)」で片付けられることが多かったと思うし、実は私もそう思っていた。
「奴らと我々は違うのだ」
私も面と向かった言動で殺意まで感じることはあまりないが、ことネットの中傷については、より強い殺意を感じる方は多かったのではないだろうか。それはたぶん、心理学者がメカニズムを解明していないだけで、おそらく正しい心的反応なのだろう。現に殺人事件もあり、たいがいは手口は執拗で残忍だ。
ここで上記の引用をヒントに考えると、これは例によってSVO(特別軍事作戦)について述べた文章だけども、これを読んだ私は、上に述べたようなことととは別に、自分がメガネを購入した時の光景を思い出した。
私はこういうもの(メガネ)には結構慎重で、何度も測定させ、時には複数の店で検討し、いつも店員が推奨する度数より一つ小さい度数で購入する。もちろん少し見にくいが、おかげで視力が落ちず、メガネが必要になった大学受験の時から視力がほとんど落ちていないことがある。実は運転免許も「眼鏡なし」で通っている。しかし、メガネを外すのは試験場だけだ。やはり運転に支障が出るので。
普通の人は眼鏡店の自動測定機の結果のまま、店員が勧めるメガネをそのまま調製する方が多いと思う。そしてたぶん、2~3年後にはもっと強い眼鏡が必要になる。メガネ屋も商売なので、一概には非難できない。
ここで先の引用を敷衍すると、最近はとみに目立つ排外主義や極論を吐く輩とこの私の違いは、実は受けた教育や教養知性の違いではなく、掛けているメガネが違うだけという見方も考えられる。
いわゆる識者では、リベラルの政治学者である中島岳志と、ほぼ同じ歳の参政党の神谷宗平を考えてみよう。本当は山口二郎が良かったが、彼の年齢の極右アクティビストはいないので、より若い中島にした。
一般的な理解では、この二人はまるきり別の人種である。が、ここでの見方では、この二人は同じ日本語を話すし、政治に関心があり、現状を憂いているので、これはベクトルは正反対だが、全般的な傾向は全く同じと考えることができる。今のところはおとなしい中島より、神谷の方にやや分があるようだ。
この二人の違いは単に掛けているメガネが違うだけである。メガネの商品価値のほとんどがレンズなので、「レンズが違うだけ」と言い換えても良い。
Narcissism, whether personal or collective, doesn’t begin in arrogance. It begins in pain. A wound that feels too dangerous to name — too humiliating to acknowledge — gets buried. And what grows over it is a mask: invincibility, righteousness, exceptionalism.
(Myers, above)
(訳)ナルシシズムは、個人であれ集団であれ、傲慢さから始まるのではない。痛みから始まるのだ。名付けるにはあまりにも危険で、認めるにはあまりにも屈辱的な傷は、埋もれてしまう。そして、その上に覆いかぶさるようにして育つのが、無敵、正義、例外主義といった仮面だ。
(マイヤーズ、前掲)
これが「レンズ」の正体である。中島のレンズには、たぶん「痛み」はないが、多くの聴衆を惹きつける神谷のレンズにはそれがある。そして、結ぶ像の輪郭もだいぶ異なる。
But the pain doesn’t disappear. It distorts. And it demands constant maintenance.
(Myers, above)
(訳)しかし、痛みは消えません。むしろ歪み、継続的なメンテナンスが必要になります。
(マイヤーズ、前掲)
先に私自身のメガネ選びの例を挙げたが、私はメガネには「慎重な人」である。中島もたぶんそうだろう。しかし神谷は「普通の人」であるので、普通の選び方をしているようだ。そして、世の中にはメガネに限らず、神谷のような選択が圧倒的に多い。ナルシシズムには定期的なメンテナンスが必要で、それが彼らが容易に集団化し、同じ負の感情を舐め合う同志で連帯する理由である。
※ このあたりは維新よりもずっと前からアニヲタやネトウヨの行動原理を見てきた私には何となく分かる。特に人のサイトに電凸するような輩の心情風景には間違いなく「負の感情」がある。
いや、そんな有害メガネ、普通は売らないでしょという意見はひとまず措く。彼らは「否認」を核に置き、ネガティブな感情を積極的に肯定して持論を展開する。議論は噛み合わず、たいがいは感情的な対立に陥る。
治療法は、実はないこともない。博士はウクライナの例を挙げている。
In Ukraine, I’ve seen a kind of cultural resilience that doesn’t rely on fantasy. People write poetry about loss, gather in liturgies that name sorrow, and rebuild even in the midst of grief. Their strength doesn’t come from pretending not to be hurt. It comes from facing pain head-on and refusing to let it define the future.
In the Christian tradition, there’s a word for this: transformation.
(訳)ウクライナでは、空想に頼らない、ある種の文化的レジリエンス(回復力)を目にしました。人々は喪失について詩を書き、悲しみを象徴する典礼に集い、深い悲しみの中でも再建に取り組みます。彼らの強さは、傷ついていないふりをすることから生まれるのではなく、痛みに真正面から向き合い、痛みに未来を左右させないことから生まれるのです。
キリスト教の伝統には、これを表す言葉があります。「変容(トランスフォーメーション)」です。
私も三年間観察してきたが、この戦争を見ていて感心するのは、当の被侵略国のウクライナ、迫害された歴史を持ち、今もロシアの侵略を受けている、の国民に悲壮感がまるきりないことである。毎日前線では百数十人、都市でも数十人が死亡しているのに、地下壕では詩や歌を楽しむ余裕があり、爆撃でも被災した動物(主にペット)を消防隊員や空挺隊員が率先して救助し、参謀本部が「文明の尺度は動物をどのように扱うかによって測られる(ガンジー)」などと公然と言っている国は他にない。ウクライナ軍の戦果報告は戦争全期間を通じ、他のどの国の機関よりも精確である。これは二倍三倍水増し当たり前のロシアとは好対照をなしている。
※ 上のガンジーの言葉はウクライナ軍の参謀報告でたびたび引用されている。
戦術や兵器の選択も実践的だ。例えばウクライナ大統領が散々懇請し、やっと少数が支給されたM1戦車、湾岸戦争で活躍した世界最強の戦車である、も、被弾して戦況不利と見るやアッサリと乗り捨て、もっと軽快なブラッドレー装甲車やマックスプロ軍用車に乗り換えてドローンで反撃するさまは、彼ら一人一人が個々の戦闘ではなく、戦争全体を考えて行動していることを示している。
※ 戦車より熟練した搭乗員が大事という考えは一貫している。
なので陣地に近接されれば、装甲は薄いがより軽快で射撃の正確なレオパルド1型戦車で踊り込んで零距離戦闘を挑む。この変幻自在の柔軟性はロシア軍も、おそらくはアメリカ軍も遠く及ばない所である。これが兵器の質と量では圧倒的な差があるにも関わらず、ウクライナが三年間戦い続けられた理由であり、その基底には確かに「痛みに真正面から向き合い、痛みに未来を左右させない」意思を見ることができる。ウクライナの強さは参謀本部や軍隊ではなく、一人一人の国民の強さにある。
Collective narcissism tempts us to craft identities out of denial. It thrives on stories of victimhood that never admit weakness. But genuine healing — national or personal — requires something much harder: the courage to feel pain, the humility to learn from it, and the imagination to build something new from its ashes.
(Myers, above)
集団ナルシシズムは、否認からアイデンティティを作り上げるよう私たちを誘惑する。それは決して弱さを認めない被害者意識の物語を糧に育つ。しかし、真の癒し――国家的なものであれ個人的なものであれ――には、はるかに困難なものが必要だ。痛みを感じる勇気、そこから学ぶ謙虚さ、そして灰の中から何か新しいものを築き上げる想像力だ。
(マイヤーズ、前掲)
誤ったメガネを掛けてしまったなら、掛け直すことを勧めなくてはならない。しかし、他人が指摘できることはここまでで、それがメガネを選んだ本人の人格とか、勤める会社の勤務評定とか、とっくの昔に卒業した中学校の卒業アルバムなどに及ぶようであっては五十歩百歩の泥沼の争いに陥りかねない。連中との議論では、平穏に話し合いができるはずの内容が、簡単に人格否定と罵倒の飛ばし合いに陥る。
住所や電話番号を調べ上げるなどは、連中は良くやることである。実は私も何人か手づから始末したことはある。が、それは意味のないことであって、本質とは全く関係のないことで、正当化できてもせいぜい自衛のためでしかなく、他には何の寄与もない、ムダな行為であることも指摘できることである。それが戦争であっても、相手を破壊することは問題解決の道ではない。ウクライナの場合も、ウクライナ国民の真の勝利はロシア国民の見方を変えることである。
同じように、リベラル勢力がMAGAの豊富な資金をバックに勢力を伸ばしている参政党や同じ極右の維新に対抗するには、今は手の打ちようがないように見える支持者を「トランスフォーメーション」させるしか方法はない。
まず、相手(参政党、維新、ネトウヨ、その他大勢)を対等な人間として認めることから始めよう。それから掛けているメガネを外してもらい、別のメガネを試してもらうことを考える。メガネ選びの過誤はその人間の罪ではない。不幸にして毒メガネを掛けてしまった側がそうした働き掛けをすることは皆無に等しいので、これは普通のメガネを掛けている者が率先してしなければならないことである。
多少は公的で、多少は政治的影響力のある場で発言するなら、彼らの議論の矛盾や非倫理性を攻撃するのではなく、彼らを支持する人々の核にある「痛み」についての議論を議題の中心に据えるべきである。
(補記)
実を言うと、個々の演説では、上記のようなことに触れている政治家は決して少ない数ではない。が、党など政治集団の方針として採用している例は皆無であり、有権者には政治家はおだめごかしは選挙の時だけで、普段はもっと違うもののために働いていると思われているのである。このことは活動資金や支持者、選挙割など複雑な事情が絡むが、そんな解像度の低い論説でも、当人が思いもしないのに「風が吹く」ことがあることは、個々の政治家には身に覚えのあることであるはずである。こと我が国では、政治家個々の出自は様々だが、彼らを束ねる政党の(憲法上の)政治的地位があいまいで、政党は野卑な権力闘争ばかりしているように見え、行動に科学性と予測可能性がないことも有権者の不満に拍車を掛けている原因の一つである。