モジラの「シーモンキー」襲名を祝って、というわけでもないのだが、久しぶりに懐かしくなって通販でシーモンキーのセットを購入してしまった。今日は荷物が届いて、水を入れて最初の「1」と書いてある袋の中身をあけただけ。このまま24時間待たなければならないのは昔と変わらない。日本ではトイザらスでも見た事があったが、「シーモンキー・ジャパン」という会社がちゃんとあった。

説明書には「ミネラルウォーターか、煮沸してから冷ましたお湯」と書いてあったのだが、そこは子供の心で、水道の水を直接どぼどぼ。明日の今ごろは卵の袋を開けているはずだが、はたしてちゃんと孵ってくれるだろうか。
このサイトにはミラーサイトがあって、そこでは、何人ぐらいが見ているか、というのとは別に、どういうサイトから飛んできているか、どういうキーワード検索で来ているか、ということもある程度の数が来ると分かって、ちょっと面白い。

「チェリビダッケ」「海賊盤」で来る人が多いのは本望なのだけど、ときどき変な検索をかけてここに来た人がいて、申し訳ないやら、困ったような気持ちになるやら、である。

たとえば、「クロマティ」と「売名行為」で検索してくるのはかなり順当なところだろうと思うが「谷亮子」と「バカ」でくるのは止めていただきたい。このサイトに「谷亮子がバカだ」などとは一回も書いていないから。いや、いま書いたけど。「結跏趺坐」でわざわざ検索して「SINGER SONGER」の記事を読んだ方にはご苦労様と言いたい。

いつのまにやら1000ヒットが近いので、なんとなく改まった気分で。

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不思議なサングラスを拾った男の冒険、と言ってしまうにはバカすぎる。街をゆくすべての人がセクシーギャルに見える、といううれしいんだかうれしくないんだかわからない不思議なサングラスをかけて、あちこちをうろつくだけである。時間に余裕のある人はこのビデオを見る前に、ジョン・カーペンターの「ゼイリブ They Live」をぜひ見て欲しい。もう理屈も何もありゃしない。

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変な表情をするのが好きな人だなぁと思って前から注目していたのだけど、たまたま2曲続けて見る機会があったので。

「Peaty」の方は、女子高生をこういう形で使うのか、という意味での驚きと新鮮さがあった。編集によるマスゲーム的処理や背景の雲の形の変化、という意味でのメリハリの付け方が非常にうまくできている。振り付けを高校生活での日常に合わせて行っているのが非常に効果を上げていて、特に教室での鉛筆を曲げようとするところやほおづえをついて居眠りするシーンなど、いままで誰もやろうとしなかった「コロンブスの卵」的な発想のキレがあると思った。終盤にただ女子高生と戯れているだけのようなアドリブっぽいカットが幾つが混じってくるのだが、作品としては、この辺はもう少し作り込んで欲しかったかも知れない。

「彗星」は、これに比べるとちょっと出来がよくないと思った。縦軸が「彗星を見たい」と言う社員と「そんなことより仕事だ」と言う頭の固い部長、という構図で、部長が童心を取り戻す(子供に変身する)までを描いているのだが、それほど部長への思い入れを持てない、というのも弱点になっている。

ロケーションが幾つにも飛んでいるのもちょっと目移りしてしまう原因になっているかも知れない。巨大なレーダーの構図は面白いが、住宅展示場はどうだろうか。会社の室内も、デザイン性はもう一つで、「Peaty」の校舎に比べるとだいぶ見劣りする。振り付けも曲の雰囲気に比べるとどうだろうか。

一番個人的に気に入ったのはトレーラーの上で伸びをしているカットだった。
世の中には「間違っている」と人から知らされても自分の中でどうにも解決がつかない事柄というのがある。特に言葉に対する思い込みというのは面倒くさい。

「慌ただしい」…忙しいことを意味するならば、「泡が立つほど忙しい」という意味で「あわだたしい」の方がそれっぽくないだろうか。

「腹立たしい」…ずっと「はらただしい」だと思ってきたが、確かに「腹が立つ」ならこっちなんだよなぁ。

みなさんにもこんなことないだろうか。
知人がディズニー関係の仕事をしているので、今日のお題は「ディズニー」。

ディズニーランドやディズニーシーができ、ビデオのセールスなども伸びてきて、ずいぶんキャラクター商法では一人勝ちの様相を呈してきたが、1970年代ごろは、それほどでもなかったように思う。いやむしろ、その後国内で開発されたキティちゃんや、スヌーピーなどのピーナッツ関係のキャラクターの方が人気があったような印象がある。

そもそもは、手塚治虫がかつてのディズニーのアニメーションを見て、モーレツにあこがれ、ライバル視した、というのがディズニーに対する日本人の姿勢を決定づけたかも知れない。それ以降、日本には手塚治虫と虫プロのアニメがあったから、ディズニーに対する渇望はあまりなかった、というのが正確かも知れない。それよりなにより、本家ディズニーのアニメそのものが当時は不作だったのだ。

また、日本の市場に対してディズニーのキャラクターイメージを売り込むスポークスマンが不在だったのかも知れない。それこそマクドナルドや、ケンタッキー・フライドチキンがピエロのロナルドやカーネル・サンダースを投入して企業イメージを広めていた時期に、ディズニーは手をこまねいていただけのように思える。

その中で、わずかにディズニーのキャラクターと接する機会を作っていたのは、テレビ東京系で放映されていた購入枠のアニメであった。10分程度の短編がいくつか放送されるだけの枠だったが、バグスバニーなどと並んで面白かったと思う。

で、何が言いたいのか。不満なのである。あの、ネズミがディズニーの主役であるかのように振る舞っている現状が。確かに、本家ディズニーのキャラクターの中ではあのミッキーマウスはメインキャラクターである。だが、謙虚に自分の胸に聞いてみよう。あのミッキーのどこが魅力的なのだろうか。

正解とも言えない正解を先に言ってしまおう。

自分の記憶の中では、キャラクターとして圧倒的に面白かったのは、ドナルド・ダックなのである。ミッキーは、単なる優等生というか、イイコちゃんキャラで、特に個性も特技もなく、当たり障りのない日常を繰り返すだけのキャラクターで、そこに欲張りで、声が変で、トラブルメーカーのドナルドが入る事で圧倒的におもしろくなった、というのが僕のキャラクター観なのだ。言ってみればミッキーは「モーレツあ太郎」のあ太郎ぐらいの位置づけではないだろうか。このタイトルを聞いてもピンと来ない人でも、赤塚不二夫のあの「ニャロメ」がデビューしたマンガだ、と聞けば納得がいかないだろうか。要するにドナルドはニャロメ並みにブレークしたのである。

その他にもディズニーには名作キャラクターが幾つもある。子鹿のバンビ、耳で空を飛ぶダンボ、CGアニメでハリウッドに返り咲いてからの「美女と野獣」「リトルマーメイド」「アラディン」、枚挙にいとまがない。

ミッキーには、主演したといえる映画すら、ほとんどないではないか。わずかにあるといえば「ファンタジア」ぐらいだが、あの場合主役は音楽であって、ミッキーは狂言回しにすぎない。

だから不満なのである。日本全国の大多数の人々が疑いもなしに唯々諾々とあのネズミをディズニー世界の主役として受け入れていることに。ミッキーの自慢できるものといえば、ミニーというかわいい彼女がいる事ぐらいか…。あ、だから余計気に入らない。

だから、ディズニー好きの皆さん、もう一度胸に手を当てて考えてみませんか。本当に魅力的なのは誰か?

…いや、別にグーフィーでもいいですけど。あれ、犬ですよ。ただの。
先日の「女性アーティスト」の記事の中で、遊佐未森さんの「事務所が移籍」と書きましたが、これは「レコード会社移籍」の勘違いでした。ご迷惑をかけたとしたら申し訳ない気持ちで一杯です。
ときどき自席に帰ると自分のものではない荷物が机の上に置いてある事がある。今日もそんな一日だった。

一番目立つのは、なんかブランド物っぽいバッグ。これは同僚の女性のものと一見してわかった。
だが、その奥に置いてある書店のビニール袋みたいなものはなんだろう…?

中をのぞいてみると、なんか布っぽくて、紺色をしていて、一番これに似ているものって言ったら、たとえばスクール水着かなぁ…。って、おい、水着かよ!

この時点で、その袋の持ち主はその場にいなかったので事無きを得たが、周りにいた他の女性陣に言わせるとこれは「セクハラだ」なんだと。

しかしちょっと待て。ここはオレの机だぞ。たとえ自分の物でないとしても、中を見ないと誰のものだか確認できないじゃないか。鍵をかけた鞄を開けたわけでも、財布を開けたわけでも、携帯のアドレス帳を見たわけでもなく、口の開いた袋を上からのぞいたぐらいで「セクハラ」か…。

確かに、先日サクランボ何個かと引き換えに、オレが席にいない時には荷物置いていい、とは言ったが、机の上にあるすべての荷物が彼女のものとは限らんだろ…。

陪審制度ならば圧倒的多数で有罪にされるところだった今日の出来事だった。

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前にも何回か放送したものだが、クラシカ・ジャパンで放送したサイモン・ラトルの指揮するマーラーの交響曲第2番「復活」を見た。彼が長らく常任指揮者を務めたバーミンガム市交響楽団を去る直前の演奏会から。

20代前半から就任して、長い期間を渡って熟成された関係だけに、演奏ぶりにも不安がない。また、この曲を聞いて指揮者を志した、というラトルだけに解釈も明確だが、その指揮ぶりからは、現代のマエストロに必要とされる条件が浮かび上がってくる。

まず、高圧的な態度が全く見られない事。楽曲に対する解釈がいくら独自なものがあっても、自分だけが唯一の正解を知っている、という態度は独裁者の時代でもなければ認められるものではない。ラトルの場合、キャリアのスタート時点がほぼ白紙なだけに、オーケストラとともに学んで成長してゆこう、という姿勢がより鮮明だ。本番中の表情でも、決して独走せずに、練習した内容をきっちり出そうとする姿勢が見て取れる。時にやんちゃだったり、時に深刻だったりはしても、それは互いに入念な吟味を経て出るものであり、現場でオーケストラが置いて行かれるような性質のものでは決してない。カルロス・クライバーの場合などは、その表情のあまりの目まぐるしい変化に、オーケストラは常に緊張状態におかれ、どの本番でも付いていくのに必死、という表情が明白である。それがまたクライバーならではの魅力にもなるのだが。あるいは先日触れたテンシュテットのようなブチ切れかたをすれば、それはそれでアンサンブルの乱れすらも気にならない「神様が降りてきた」ような演奏にもなりうる。残念ながらラトルからはそういうオーラはもう一つである。

実はかつて、一度だけ彼からそういうオーラを感じた事があった。それは80年代のプロムスの最終日か何かでブラームスの交響曲2番を演奏した時なのだが、最終楽章でこんなにあおるか、というぐらいにテンポが前のめりで、ティンパニーが大活躍した演奏だった。しかも手兵のバーミンガムではなく、フィルハーモニア・オーケストラだった。他流試合の方が、ぶつかり合い含め、意外性のある演奏になることもある、という例かも知れない。

また、解釈の内容と演奏しやすさの両立、というのも彼の大きな特徴である。元が打楽器出身である事もあり、縦の線を合わせるためのアクションは非常にわかりやすい。第1楽章では、本来ないパウゼで、大げさに入り直すところなどもあり、そういう分かりやすさもオーケストラからは歓迎されるところだと思う。ザ・フーのドラムのキース・ムーンのような見えの切り方をする瞬間があり、ちょっと面白い。

ベルリン・フィルが彼をアッバードの後任に選んだのは、彼の「伸びしろ」を買ったからだと思う。ただ、それが演奏の深まりにつながってゆくのか、クラシック界のPRとしての、社会参加活動のような物につながっていくのかはもう一つわからない。
このところずっとトラブル続きだったソネットのブログのメンテナンスが一段落したようだ。混雑時にログインしようとするとちょっとだけ待たされるが、それ以外の動作はかなり改善された、と思う。ハードディスクを丸ごと入れ替えていたみたいで、結局ハード部分がイカれていたということか。

ただ、プロバイダとしてどうだろうと思うのは、メンテナンスに入った後、状況のフォローがほとんどされず、ユーザーは後から知らされてばかりだ、ということだ。ソネットのホームページだろうと、マイソネットだろうと、ブログの状況を知らせる代替的なアナウンス用のスペースがないわけではなかろうに。身内の恥は広めたくない、という後ろ向きな姿勢なのかも。