
20代前半から就任して、長い期間を渡って熟成された関係だけに、演奏ぶりにも不安がない。また、この曲を聞いて指揮者を志した、というラトルだけに解釈も明確だが、その指揮ぶりからは、現代のマエストロに必要とされる条件が浮かび上がってくる。
まず、高圧的な態度が全く見られない事。楽曲に対する解釈がいくら独自なものがあっても、自分だけが唯一の正解を知っている、という態度は独裁者の時代でもなければ認められるものではない。ラトルの場合、キャリアのスタート時点がほぼ白紙なだけに、オーケストラとともに学んで成長してゆこう、という姿勢がより鮮明だ。本番中の表情でも、決して独走せずに、練習した内容をきっちり出そうとする姿勢が見て取れる。時にやんちゃだったり、時に深刻だったりはしても、それは互いに入念な吟味を経て出るものであり、現場でオーケストラが置いて行かれるような性質のものでは決してない。カルロス・クライバーの場合などは、その表情のあまりの目まぐるしい変化に、オーケストラは常に緊張状態におかれ、どの本番でも付いていくのに必死、という表情が明白である。それがまたクライバーならではの魅力にもなるのだが。あるいは先日触れたテンシュテットのようなブチ切れかたをすれば、それはそれでアンサンブルの乱れすらも気にならない「神様が降りてきた」ような演奏にもなりうる。残念ながらラトルからはそういうオーラはもう一つである。
実はかつて、一度だけ彼からそういうオーラを感じた事があった。それは80年代のプロムスの最終日か何かでブラームスの交響曲2番を演奏した時なのだが、最終楽章でこんなにあおるか、というぐらいにテンポが前のめりで、ティンパニーが大活躍した演奏だった。しかも手兵のバーミンガムではなく、フィルハーモニア・オーケストラだった。他流試合の方が、ぶつかり合い含め、意外性のある演奏になることもある、という例かも知れない。
また、解釈の内容と演奏しやすさの両立、というのも彼の大きな特徴である。元が打楽器出身である事もあり、縦の線を合わせるためのアクションは非常にわかりやすい。第1楽章では、本来ないパウゼで、大げさに入り直すところなどもあり、そういう分かりやすさもオーケストラからは歓迎されるところだと思う。ザ・フーのドラムのキース・ムーンのような見えの切り方をする瞬間があり、ちょっと面白い。
ベルリン・フィルが彼をアッバードの後任に選んだのは、彼の「伸びしろ」を買ったからだと思う。ただ、それが演奏の深まりにつながってゆくのか、クラシック界のPRとしての、社会参加活動のような物につながっていくのかはもう一つわからない。