電話にまつわる話はいろいろある。

相手が見えなくてもお辞儀をする、というのは定番だが、電話のコードが必ずよじれる人がいる。受話器をとってから置くまでの動きになにか秘密があるに違いない。

しかし何がおかしいって、「電話があったことを伝えてください」という伝言ほどおかしなものはあるまい。電話があったということを伝えてもらって、何を期待するのだろう。とくに最近は「折り返しましょうか?」と聞くと「電話があったことだけ…」という類の伝言も多い。要するに折り返し電話をかけられると困る事情でもあるのだろうか。

折り返し電話をもらうのが失礼だと思っている、という説もあるがそれでは仕事にならないだろう。電話をかけるなんているのはお互いさまなのだから。

しかし、いつの間にか料金の高い携帯電話に折り返させるのは当たり前のやりとりになったよなあ。昔は自分の会社のほうで呼び出してから折り返させたものだが。
それはそれで当たり前かとも思う事件である。

歌舞伎役者が覚せい剤で逮捕されたそうだ。まあ、大御所というよりは勘三郎の門弟、というから純粋のいいとこのぼんぼんでもなさそうだ。歌舞伎役者といえども現代に生きている。その現代に生きている若者がやるのだから、多少なりとも現代の風俗を反映して当たり前である。

だが一方、と考えた。

世襲制のほうがこういう伝統を重んじる世界になじむ、というのは、世間を知らない、ということが重要な要素でもある。さまざまな誘惑があるとしても塀の中に囲ってしまえばそこに誘惑のあることも見えまい。一族みんな似たもの同士で固めてしまえば、ときどきそれに違和感を覚えるはねっかえりの因子さえ我慢すれば純粋さは維持できる、そんな守り方をされてきた世界も多いのではないか。

逆に今のテレビばっかり見て、その要素を歌舞伎に生かせ、というのもなかなか難しい話に違いない。こういうものは能力第一主義、と割り切れるほど能力そのものが問われるわけではないだろう。むしろ普通の現代人であれば欠かせない知識や技術を最初から持たないこと、も重要な素質かもしれないのだ。

もちろん歌舞伎だってその誕生の瞬間においては相当いかがわしいものでもあっただろう。当時の麻薬に相当するようなものだって相当蔓延していたかも知れない。起こったばかりの芸術、というものに常に求められているような猥雑なエネルギー、それなくして歌舞伎の普及、発達というものはありえなかっただろう。

しかしそれが一度確立して、同時代とは別の時間の価値を封印したものとして保存され始めるとき、そこには普遍を求められると同時に現代性との絶縁をも求めなければならない。伝統とはそういうものなのだと思っている。
われながら丈夫だと思った。

例の賞味期限7月13日のオレンジジュースを1リットル飲んだあと、体調がすこぶるいい。むしろ風邪が治ったぐらいだ。

これは賞味期限というものがいかに最悪の事態を想定して設定されているか、という観点と、市販のジュースが100パーセント果汁といいながらもいかにいろんな添加物によって腐敗を免れているか、の両面から見るべきものなのかも知れない。本当に新鮮なもの、というのはすぐに腐るはずなんだよね。
東京でオリンピックをやりたい?

2016年の夏季オリンピックに立候補するのだとか。最近は地震の心配やらでそれどころではない気もするのだが。

あと、心配な点もいくつかある。日本は台風が来る国だ。ちょっとしたあたりはずれでえらいことにもなりうると思うのだが、現代のオリンピックは他の大会とかもあるから早々順延もしていられないだろう。また、1964年の東京オリンピックがそうだったように、夏は暑すぎるので10月に入ってからでないと実質的に選手の体調が維持できないだろう。プロスポーツでは秋のリーグも開幕している時期である。ベストの選手が選べるだろうか。都内のトラフィックは最悪である。通常のラッシュに加えて、観戦客のトラフィックを裁ききれるのだろうか?かつての首都長野説が再燃しそうな話になるのではないか?

もしもやるのならば、相当な規模の工事が行われそうだ。バビロンプロジェクトでもはじめるか。
また広島の原爆の日がやってきた。以前スミソニアン博物館の取材で、エノラ・ゲイ関連の展示を用意している人々に話を聞いたことがあったが、今回、エノラ・ゲイの乗組員の談話が記事になっていた。

4日の英BBC放送によると、広島に原爆を投下した米爆撃機エノラ・ゲイの乗組員がこのほど、6日の原爆投下60年を前に、「他に道はなかった。後悔していない」とする声明を出した。(時事通信) 

こういうものって、いろんな意味でタイミングであると同時に立場の違いでもあるのだと思う。

そもそも無茶な戦争を起こした国があって、その戦争も次々に負けつつあって、いずれは時間の問題で敗戦を迎えたであろう国にできたばかりの爆弾の威力を試しつつ他国にも見せ付ける、というデモンストレーションの機会を得た国があって、その機会を存分に生かして爆弾を落とした結果が現代の世界だ。

上のような発言は無神経なものだと避難するのは簡単だ。「遺族もいるのに」とか言い分はいろいろとあるだろう。しかし自分があの乗組員だったとして、どう言えばいいのだろう。もう歳も歳、まもなく自分の人生にも締めくくりをつけなければならない人々だろう。国のために戦う軍人となって、自分の任務によって無茶な戦争に終止符を打つことができる、と信じておこなった行為が予想外の結果を生み出した。「あんなもん落とすんじゃなかった。後悔している」と発言するのもある意味容易だが、やはり違うような気がする。自分の人生におけるある意味一番大きな局面を「間違った決断」として割り切るためには、別な大義名分と、おそらく勇気が必要だろう。結果がどうなるか知っていたら落としたかどうか、などという仮定の質問はこの場合無意味なのだ。

彼らの発言に憤るのもまたわれわれにとっては簡単なことだろう。しかしその傍らでは戦犯を祭ってある神社に首相が毎年参拝してそれを当然とする政府がある。それに憤るアジアの国々は間違っているだろうか。

いつまで「戦後」か、そんなことは知らない。しかしこういう問題、本質論とは別にもう一つの大きなファクターがある。「タイミングと逆なで」である。自分の満足のために人の神経を逆なでする行為をとるかどうか。話のポイントが自分の信心ならば、目立たぬようにやればいい。衆人環視の中でこれしかないタイミングでそれを行うのは、自己顕示という側面をぬぐいきれない気がする。
給食を食べるのが遅いと、素手で食べさせ続けていた先生がいたらしい。ご苦労なことである。

これが、国際的な食事の習慣を身につけて国際人を育てるための英才教育だった、などというオチがあればいっそういいのだが。残念ながら、早く給食を食べ終わらせたい、あるいは食べるのが遅い子へのいやがらせの側面しかなさそうである。

教師というのは確かに大変な仕事だというのは認める。いまどきの子供は特に親の教育もさまざまで、平気で平日に学校を休んで家族旅行に行ったりする子もいれば、先生よりもお小遣いをもらっている子供もいるだろう。まったく授業に関心がなく暴れているだけの子もいるはずだ。それでも授業が遅れてはならない。一生懸命やっても「そこ塾でやった」と言われる。指導要領も細かく決まってくるから教師の裁量で教えることを変えるわけにも行かないのだろう。

しかし、それとこれとは別問題。しかも50代の教師だというからこの道のベテランだろう。最近の世相とはあまり関係のないところに原因があるような気がする。どうせなら自分も手で食べる、ぐらいの信念があってのことならばちょっとは納得がいくのだが。
こんなブログの中で改めて言うことでもないのかもしれないが、インターネット社会で「匿名性」を認めたことは、人類の歴史の大きな分かれ目だったのかも知れない。

かつて貨幣が生まれ、信用経済が生まれたことで物々交換に過ぎなかった経済交流は飛躍的に拡大したわけだが、それに似たパラダイムのずれが起こりつつあるように思えて仕方がない。あるいはパンドラの箱とでも言うべきか。

人間同士のコミュニケーションにおいて、得体の知れないものを相手にする勇気、というのは元来なかったもののはずである。目の前に現れた生物が、男か女か、年上か年下か、まったく見当もつかなかったらお話しよう、という気分になっただろうか。

この匿名性、というのは双方向的になりたっている、とぼくらが信じるときに何か安心感をもたらすようなのだ。しかし、同時にこれは犯罪やら、ネット詐欺の可能性をも無限に広げた。

ある程度はプロバイダがそれを促進したことも否定できないだろう。無料のアカウント取得、使い捨てのフリーアドレスの配布、身元確認の不確かさ。今でも思うのだが、本当に金銭をやり取りしたりするサイトへの出入りは、すべての匿名性を排除するのが、本来のあり方なのかも知れない。
最近はアメリカのインチキ科学ドキュメンタリーもCSで見れるようになったりして、怪しげな科学・SF暴露番組が一種の様式美となっている感がある。

その中でも極めつけは「アポロ月着陸は嘘だった!」というものだ。

確かに、当時宇宙競争は熾烈なものだったし、嘘で済ませられるようなものならば済ませたかった、というのが関係者の本音だったかもしれない。

ぼくは中間説を採る。つまり、実際に月着陸は行われたが、実はテレビを通じて全世界に放映されたのは、別スタジオで撮影されていたVTRだ、というものだ。

なぜわざわざそんな説を立てるか、というと、月に着陸する技術の不確かさよりも、それをリアルタイムで地上に中継する、というテレビ技術の不確かさのほうがよっぽどありそうなことだからだ。ちょっとしたアンテナの方向の違いでもBSが映らなくなる現代の技術レベル、当時の最先端でも到達できたとはとても思えないのだが。
お誘いをいただいたので、げんしじんライブに行こうと思っていた。
5日(金)の19時30分なかの演芸場という中野駅からわずか5分のところにある演芸場でのライブである。

アホの坂田が命名したという伝説の芸人げんしじんは、知る人ぞ知る、ハイパーリアルなギャグを連発するカリスマ芸人だが、今回はぜんじろうと組んでの二人会、さらにゲストになすびを招いて、というおまけつきである。かなり実験的で意欲的なステージだろうと、楽しみにしていたのだが、残念ながら、仕事の打ち合わせが渋谷で19時である。間に合わない。
ついにあれが日本でもできるようになるらしい。iTMSいわゆるiTunes Music Storeである。iPodを持っていてもiTunesでCDを聞いていても、日本にいる限り何らかの疎外感を感じ続けていた、その最大の障壁がなくなろうとしていることには、ある種の達成感はあるが、音楽の所有・購入に関する根本的な思想の転換点となる可能性も十分にある。

しかしながら、正直な話、今のところ、これが日本でCDに取って代わる予感はあまりしないのである。

なぜだろう。一つにはアートワーク、ジャケット、歌詞カードなどの不在だろうか。日本人は世界的に見てもコレクター的気質の購入層が厚く、買ったものは大事にしまっているケースが多い。オークションなどで出品される中古品を見ても、ここまで神経質に物を保管し、中古品の傷をチェックする国民は他にないだろう。そういう国民だから、おそらくデータの形で曲がありさえすればいい、という実質主義的な音楽の保有の概念にはあまりなじめないと思うのだ。

もう一つは音質に対するこだわり。aiffなどの大きいデータならともかく、mp3のような圧縮された軽いデータに対しては、CDからの1次コピーの音質としては満足しても、わざわざお金を払って購入した曲の音質としては納得できないのではないだろうか。元データが手元にある、という実感をもてない可能性がずいぶんある。

最後に価格である。例えば1曲あたり150円でダウンロードできると、シングル曲などでは、相当お得感があるだろうが、アルバムとしてはどうだろうか?

多分シングルのヒット曲は飛ぶように売れるが、薄利すぎて利益らしい利益は上がらず、アルバムはCDとして購入、というスタイルのほうが定着しやすいような気がする。

まあ、それでもいい、という時代がしばらく続くかも知れない。その鍵は、扱うツールの手軽さや操作性のよさなど、音楽とは別のファッション的要素になると思う。