また広島の原爆の日がやってきた。以前スミソニアン博物館の取材で、エノラ・ゲイ関連の展示を用意している人々に話を聞いたことがあったが、今回、エノラ・ゲイの乗組員の談話が記事になっていた。
4日の英BBC放送によると、広島に原爆を投下した米爆撃機エノラ・ゲイの乗組員がこのほど、6日の原爆投下60年を前に、「他に道はなかった。後悔していない」とする声明を出した。(時事通信)
こういうものって、いろんな意味でタイミングであると同時に立場の違いでもあるのだと思う。
そもそも無茶な戦争を起こした国があって、その戦争も次々に負けつつあって、いずれは時間の問題で敗戦を迎えたであろう国にできたばかりの爆弾の威力を試しつつ他国にも見せ付ける、というデモンストレーションの機会を得た国があって、その機会を存分に生かして爆弾を落とした結果が現代の世界だ。
上のような発言は無神経なものだと避難するのは簡単だ。「遺族もいるのに」とか言い分はいろいろとあるだろう。しかし自分があの乗組員だったとして、どう言えばいいのだろう。もう歳も歳、まもなく自分の人生にも締めくくりをつけなければならない人々だろう。国のために戦う軍人となって、自分の任務によって無茶な戦争に終止符を打つことができる、と信じておこなった行為が予想外の結果を生み出した。「あんなもん落とすんじゃなかった。後悔している」と発言するのもある意味容易だが、やはり違うような気がする。自分の人生におけるある意味一番大きな局面を「間違った決断」として割り切るためには、別な大義名分と、おそらく勇気が必要だろう。結果がどうなるか知っていたら落としたかどうか、などという仮定の質問はこの場合無意味なのだ。
彼らの発言に憤るのもまたわれわれにとっては簡単なことだろう。しかしその傍らでは戦犯を祭ってある神社に首相が毎年参拝してそれを当然とする政府がある。それに憤るアジアの国々は間違っているだろうか。
いつまで「戦後」か、そんなことは知らない。しかしこういう問題、本質論とは別にもう一つの大きなファクターがある。「タイミングと逆なで」である。自分の満足のために人の神経を逆なでする行為をとるかどうか。話のポイントが自分の信心ならば、目立たぬようにやればいい。衆人環視の中でこれしかないタイミングでそれを行うのは、自己顕示という側面をぬぐいきれない気がする。
4日の英BBC放送によると、広島に原爆を投下した米爆撃機エノラ・ゲイの乗組員がこのほど、6日の原爆投下60年を前に、「他に道はなかった。後悔していない」とする声明を出した。(時事通信)
こういうものって、いろんな意味でタイミングであると同時に立場の違いでもあるのだと思う。
そもそも無茶な戦争を起こした国があって、その戦争も次々に負けつつあって、いずれは時間の問題で敗戦を迎えたであろう国にできたばかりの爆弾の威力を試しつつ他国にも見せ付ける、というデモンストレーションの機会を得た国があって、その機会を存分に生かして爆弾を落とした結果が現代の世界だ。
上のような発言は無神経なものだと避難するのは簡単だ。「遺族もいるのに」とか言い分はいろいろとあるだろう。しかし自分があの乗組員だったとして、どう言えばいいのだろう。もう歳も歳、まもなく自分の人生にも締めくくりをつけなければならない人々だろう。国のために戦う軍人となって、自分の任務によって無茶な戦争に終止符を打つことができる、と信じておこなった行為が予想外の結果を生み出した。「あんなもん落とすんじゃなかった。後悔している」と発言するのもある意味容易だが、やはり違うような気がする。自分の人生におけるある意味一番大きな局面を「間違った決断」として割り切るためには、別な大義名分と、おそらく勇気が必要だろう。結果がどうなるか知っていたら落としたかどうか、などという仮定の質問はこの場合無意味なのだ。
彼らの発言に憤るのもまたわれわれにとっては簡単なことだろう。しかしその傍らでは戦犯を祭ってある神社に首相が毎年参拝してそれを当然とする政府がある。それに憤るアジアの国々は間違っているだろうか。
いつまで「戦後」か、そんなことは知らない。しかしこういう問題、本質論とは別にもう一つの大きなファクターがある。「タイミングと逆なで」である。自分の満足のために人の神経を逆なでする行為をとるかどうか。話のポイントが自分の信心ならば、目立たぬようにやればいい。衆人環視の中でこれしかないタイミングでそれを行うのは、自己顕示という側面をぬぐいきれない気がする。