亀之丞の出奔から一〇年後、小野和泉守が死去します。
亀之丞を窮地へ陥れた奸物はいなくなりました。
そこで翌年、井伊直盛は今川義元へ嘆願し、亀之丞を養子に迎えることを認められたのです。
亀之丞は直盛の養子となって直親と名乗り、一族の奥山朝利の娘と結婚します。
あそこまで両親に出家を反対されながら、ここでは完全に直虎は無視されています。
許嫁である亀之丞との縁組もご破算になった形です。
なぜなのでしょうか。
つまり、直虎の両親が娘を出家させたくなかったのは、亀之丞の養子縁組を義元に認められなかった場合の“保険”だったのではないでしょうか。
それゆえ、万が一の場合に備え、直虎に惣領という立場を残しておきたかったのでしょう。
さて、これで親子ともども希望がかない、ハッピーエンドになるところでした。
ところが、永禄三年(1560)五月、直盛は討ち死にしていまいます。
同じ遠州勢の掛川城主・朝比奈泰朝とともに敵方の鷲津砦を攻め落としたはものの、大将の義元が討ち取られ、直盛は踏みとどまって奮戦したのち討ち死します。
織田信長の事実上のデビュー戦となった桶狭間の合戦です。
その後、松平元康(のちの徳川家康)が今川から自立して三河を今川家の手から奪い返し(三河錯乱と呼ぶ)、さらに遠州にも争乱が広がろうとしていました。
これを「遠州忩劇(えんしゅう・そうげき)」と呼んでいます。
こうして悪夢は繰り返されることになったのです。
(つづく)
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