「関ヶ原の合戦」と「黒田父子」の謎①[毛利封じ込め作戦] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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いよいよNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』も佳境を迎えます。


時代が、天下分け目の関ヶ原へ向けて動き出すからです。


その関ヶ原の合戦で、黒田官兵衛(如水)の嫡男・長政は功名を二つあげます。


まず一つは、西軍の小早川秀秋を東軍方に寝返らせたこと。


もう一つが、吉川(きっかわ)広家(ひろいえ)(毛利一族)を通じて西軍の主力である毛利の封じ込めに成功したことです。


合戦後、東軍の総大将徳川家康もこの長政の功名を讃え、


「御粉骨御手柄ともに比類なく候。いま天下平均の儀、誠に御忠節ゆえと存じ候」

 

 という感状を送っています。

 

 なかでも、毛利勢を封じ込めたことは大きな功名でした。


毛利勢が布陣した南宮山(なんぐうざん)は、東軍陣地の側面をつく位置にあり、もしも、毛利勢が山を駆け下り、東軍陣地へ攻め入っていたら、おそらく東軍は瓦解していたでしょう。


ところが、『黒田家譜』によりますと、決戦前夜、南宮山を脱け出した広家の家臣が長政の陣所を訪ね、東軍に内応したい旨を申し出ます。


結果、吉川家の家臣らが人質として東軍の本陣に送られ、広家のもとには、家康の重臣・本多忠勝と井伊直政の血判状が届けられました。


合戦で徳川方への忠節をみせてくれたら、本領はすべて安堵しようという内容でした



 このため、広家は主将の毛利秀元から先陣を預かり、合戦がはじまっても、一兵たりとも動かさなかったのです。


ただ、これだけのことを長政と広家の考えだけでおこなったとは思えません。


(つづく)




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