「天保の改革」を断行した野心家の謎(最終回)[妖怪と改革の失敗] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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忠邦が寺社奉行兼任となってからは、あとは出世の階段を昇るだけとなります。



三十五歳で西の丸老中となり、四十一歳で本丸老中。



四十六歳のときに老中首座。



天保十二年(1841)に大御所徳川(いえ)(なり)が死去しますと、十二代将軍徳川家慶(いえよし)のもとで天保の改革を本格化します。



享保の改革をおこなった徳川吉宗と江戸の町奉行・大岡越前とがセットで語られるように、忠邦も、“遠山の金さん”のモデルとされる遠山景元(かげもと)を江戸の町奉行に起用します。



しかし、その後、町奉行に抜擢した鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)(通称甲斐守=水野三羽烏(さんばがらす)の一人)は厳しく市中を取り締まり、その名と通称(甲斐守)を文字って、耀甲斐(妖怪)と渾名されます。



うして忠邦の改革は民衆の反発を招いてしまうのです。



とくに上知(あげち)令(大名・旗本に知行の上納を命じ、幕府の直轄領とする政策)は、三羽烏を除いて幕閣の支持も得られませんでした。


忠邦は老中を罷免され、謹慎の上、水野家は羽州山形へ転封されます。



忠邦は晩年、「蒼天天下の饑(飢)」、つまり天下の窮乏を救おうと願ったが、「世人我が軽肥(けいひ)を報」、世間は老中として私腹を肥やしていると批判する――と嘆いています。



理想と現実のギャップに翻弄され続けた生涯といえるでしょう。








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