忠邦は幕閣入りという出世のためだけに、藩に大幅減収を強要したのです。
むろん、藩財政は火の車となり、迷惑するのは藩士たち。
家臣の中には必死の諫言を試みた者もいましたが、忠邦の怒りにあい、自害して果てています。
しかも忠邦は浜松藩への国替えの際、一万石分の知行地を幕府に返上するといったといいます。
国替え実現のため、幕府へ一万石分の賄賂を送るようなものです。
実際に国替えの際、唐津藩領のうち、一万七〇〇〇石分が幕府領(天領)となっています。
天保の改革の失敗もあり、この凄まじい権勢欲が災いして、忠邦の人気はいまひとつです。
では、なぜ忠邦はそこまで権勢を欲し、かつ、彼が断行した天保の改革は失敗したのでしょうか。
まず忠邦の生い立ちから追ってみましょう。
彼は寛政六年(1794)、江戸の唐津藩上屋敷で生まれました。
ただし、正室の子ではありません。
母恂は、江戸市中の菓子屋の養女。
藩主水野忠光の側室でした。
当時、水野家には正室の子(嫡男)がいましたが、四歳で亡くなり、庶子の忠邦が跡継ぎになります。
ちなみに、母恂の実家である菓子屋というのは、いまなお残る老舗の「上野風月堂」です。
(つづく)
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