「天保の改革」を断行した野心家の謎③[定信と忠邦] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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忠邦の母の実家は、いまなお残る老舗の「上野風月堂」。



初代が上方の大坂から上京してきたことから、元の屋号は「大坂屋」でした。



しかし、「大坂屋」の菓子が大名の間で評判となり、とくに初代の誠実な人柄に触れた白河藩主松平定信が、自身の雅号(風月)に因み、「風月堂清白」の五文字を授け、以来、屋号になったと伝わっています。



その定信と忠邦とは、母の実家の屋号を通じた関係だけではありません。



忠邦が生まれる前年、すでに定信は老中を退いていましたが、彼がおこなった寛政の改革(江戸時代の三大改革のひとつ)によって、全国的に改革気運が盛り上がっていた時代だったのです。



そういう時代に幼少年期をすごした忠邦が、権勢の座についた暁にはどうあっても改革を断行したいという望みを抱いたとしても不思議ではありません。



のちに彼がおこなう天保の改革は事実、定信の寛政の改革を理想としました。



しかも、忠邦は権勢の座に近い家柄に生まれています。



江戸時代を通じて、延べ一七三名が老中に就いていますが、忠邦の水野家からは五人の老中(忠邦の再任を含む)を輩出しているのです(数字は、北島正元著『水野忠邦』による)


(つづく)




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