斉彬が藩主になって、ようやく利通の父は許されて鹿児島へ帰国します。
利通も復職しましたが、いまだ下級役人であることに変わりはありませんでした。
皮肉なことに、利通が出世の階段を昇る契機となったのは、父が一派に加担した斉彬の急死にありました。
その斉彬の遺命にしたがい、新たに藩主の座に就いたのは、弟・久光の長男茂久(明治後、忠義)でした。
しばらくは、茂久の祖父・斉興が藩政の実権を握りますが、斉興の死後、久光が実子の茂久を後見し、事実上の藩主として君臨することになりました。
利通はその久光に接近するのです。
かつて父が久光を藩主に推す一派によって島流しの難に遭っていますが、敢えて過去の遺恨には目を瞑った形です。
しかも、通説はそこから、ある有名な逸話を語りはじめます。
利通は誠忠組(後述)の同志である税所篤の兄(吉祥院住職、以下・吉祥院)がしばし久光の囲碁の相手を務めていたことから、自身も囲碁を学び、吉祥院を通じて久光に近づいたという逸話です。
のちの大政治家としての利通の事蹟を知る後世の者には、いかにも利通らしい遠謀深慮の秘策のように思えますが、果たして史実なのでしょうか。
元士族で鹿児島出身の戦前の歴史家・勝田孫弥氏も、その著『甲東逸話』に、その時の詳細な話を書き留めています。
(つづく)