明治の元勲「出世」の秘密③[囲碁の政治利用] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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利通は誠忠組の同志である税所(さいしょ)篤の兄(吉祥院)が久光の囲碁の相手を務めていたことから、自身も囲碁を学び、吉祥院を通じて久光に近づいたといわれていますが、本当でしょうか。

元士族で鹿児島出身の戦前の歴史家・勝田孫(かつだまご)()氏は、その著『甲東逸話』に、その時の詳細な話を次のように書き留めています

 

 下級藩士の利通が事実上の藩主である久光に面謁するのは至難の業。そこで利通は、


「世捨人のなすべきことで壮年有為(ゆうい)(有望な)の士が楽しむべき業ではない」


 と卑下していた囲碁を学びはじめたというのです。


しかし、いったんやるとなったら、初志貫徹するのが利通の性格。


「日夜囲碁を友として精励(せいれい)刻苦(こっく)倦むことを知らなかった」


とあります。


ところが、そうして苦労して学んだ囲碁も維新後、


「今や転じて、甲東が国務に忙殺せらるるの間に、寸暇を楽しむ慰藉(いしゃ)(なぐさめること)の具となった」


遠望深慮が高じて大の囲碁好きになったというのです。

 

 それはともかく、利通が久光へ接近しようと必死に囲碁を学んでいたのは、万延元年(1860)三月三日に幕府の大老井伊直弼(彦根藩主)が水戸浪士らに刺殺される「桜田門外の変」事件の少し前だと考えられます。

 

 ところが、その十年以上も前に、利通がすでに囲碁をたしなんでいたという説があります。

(つづく)