利通が久光へ接近しようと必死に囲碁を学んでいたとされるのは、「桜田門外の変」の少し前だと考えられます。
ところが、その十年以上も前のこと。
嘉永元年(1848)といいますから、まだ黒船が浦賀に来航する以前の話です。
当時十七歳であった大久保青年が知人の来訪を受け、囲碁の三番勝負をおこなったものの、負けてしまった事実があるというのです。
つまり、久光に近づくために囲碁を学んだのではなく、すでに利通は十代のころから囲碁好きな青年だったことになります。
安政六年(1859)十二月、井伊大老による「安政の大獄」の嵐が吹き荒れていたころ、利通は日記に、
「防公(久光のこと)には吉祥院をもって建白」
と記しています。
こうして彼が久光の囲碁の相手である吉祥院を通じて久光に近づいたのは事実です。
ただし、わざわざそのために囲碁を学んだというのは史実に反するのではないでしょうか。
それではいったい彼はどうやって利通にとりいったのでしょうか。もちろん、吉祥院と利通との関係もあったでしょう。
しかし、ほかにも大きな理由がありました。
(つづく)