NHK大河ドラマ『八重の桜』は、会津藩主松平容保の「京都守護職」拝命により、いよいよ、本格的な動乱の季節を迎えます。
尊王攘夷派や勤皇佐幕派・公武合体派が入り乱れ、京が動乱の都と化す時代です。その中心となるのが倒幕派の領袖ともいうべき長州藩です。
同藩は、「勤皇佐幕」の旗頭に押したてられた会津藩の強敵となります。
このシリーズでは、幕末の動乱期における長州藩の動きとそれにまつわる謎を解き明かしていきたいと思います。
元治元年(1864)七月十八日、京近郊の山崎(天王山)・嵯峨(天竜寺)・伏見に駐留していた長州藩兵およそ二〇〇〇は、御所へ向かいました。
長州藩の目的は、藩主(毛利敬親)の冤罪を晴らすべく、世子の定広が孝明天皇へ直訴することにありました。
というのも、前年(文久三年)の夏、会津藩が薩摩藩や皇族の中川宮と手を組んでクーデターを断行し、急進的な攘夷を掲げる長州藩と三条実美ら長州系公卿の追い落としに成功していたからです(「八月十八日の政変」)。
そのとき長州藩は朝廷から、
①藩主父子の上京停止
②藩士の御所内への出入禁止
③長州藩邸の留守居役らを除き藩士に帰国を命じる
――という処分が下されました。
長州にとっては、すべて「奸賊(会津と薩摩)」の陰謀であり、その冤罪を晴らし、いまいちど国論を攘夷、さらには倒幕へ転回させるべく、武力による示威行動に出たのです。
一方、会津藩を中心とする幕府軍は御所の各御門(禁門)を守り、翌十九日の未明から、長州藩兵と軍事衝突します。
とくに激戦となったのは御所西側の蛤御門。そのため、この軍事衝突を「禁門の変」もしくは「蛤御門の変」といいいます。
一時、蛤御門は、来島又兵衛率いる長州の遊撃隊などに破られて幕府軍側は混乱しますが、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が藩邸から急を知って救援に駆けつけたため、又兵衛の討ち死後、長州藩は敗走するのです。
発砲したのは幕府側だったといわれますが、長州藩が御所に対して攻撃を仕掛けたのは事実です。
しかも、二〇〇〇の長州藩兵に対して幕府側は二万。通説はこれを「長州の暴発」だったとしています。本当にそうなのでしょうか。
(つづく)