蛤御門の変(禁門の変)の際、二〇〇〇の長州藩兵に対して幕府側は二万。しかも、長州兵は御所に向かって発砲する挙に及んでいます。
通説はこれを「長州の暴発」だったとしています。
本当に長州は汚名挽回を焦り、無謀な「暴発」に出たのでしょうか。
長州藩士・久坂玄瑞の動きを中心にその謎を追ってみたいと思います。
久坂は、長州藩お抱えの医師の家に生まれますが、吉田松陰の松下村塾に入塾後、高杉晋作とともに秀才の名をほしいままにし、やがて長州藩きっての論客となってゆきます。
久坂は高杉や桂小五郎(のちの木戸孝允)らの反対を押し切って「暴発」を仕掛けた張本人の一人とされていますが、決してそうではありません。
元治元年(1864)二月ごろ、長州藩内で京への「進発論」が浮上したとき、京にいた久坂はこれに反対し、暴発を抑えるために国元へ帰国しています。
しかし、久坂は四月になって一転し、進発論者となるのです。
いったい何があったのでしょうか。
(つづく)
※写真は、久坂が京で密議によく使った
島原の料亭・角屋の碑。