毛利軍はどのようにして大軍の陶軍を打破ることができたのでしょう。
まず、通説でいう陶軍の数に疑問があります。
『陰徳太平記』は4ヶ国から2万余の大軍を動員したとしています。しかし、陶軍が大潰走したにも関わらず、旧大内家の重臣だった宿老らが戦死したという史料はみあたりません。
総大将の晴賢が戦死するほどの激戦だったわけですから、彼らが出陣していたのなら、当然、討ち死にしていてもおかしくはありません。彼らは合戦に参加していなかったのではないでしょうか。
晴賢は主君の義隆から大内家の実権を奪ったばかり。かつての同僚であった宿老らを動員するだけの影響力を行使できなかったのだと思います。つまり、陶軍は史料でいうほどの大軍ではなかったのです。
それでも軍勢の数は、1万は下らなかったでしょう。まだ毛利とは2倍の兵力差があります。
元就の勝利を決定づけたのは、来島衆(村上水軍)の活躍にあったと考えています。元就は瀬戸内海の来島を本拠とする彼らに加勢を求め、その到着を一日千秋の思いで待ち続けています。そのことを示す書状も残っています。
ここで、毛利軍が塔ノ岡にある陶軍の本陣を襲ったときまで話を遡りたいと思います(前回参照)。暴風雨をついて上陸した毛利軍の勢いに押され、陶軍の兵士らは停泊中の船に駆けこみます。
元就の上陸を知っていたとはいえ、まさか嵐をついて上陸することを予期していなかった陶軍の兵士らは心の準備がつかず、狼狽したようです。本陣へ突っこんできた死に物狂いの毛利兵をみて尻ごみし、本拠の周防へ逃げ帰ろうとしたのでしょう。
ところが、そのとき来島水軍が「船を乗り廻し、(陶軍の船を)追いかけて」(『陰徳太平記』)討とうとします。
つまり、陶軍は前方から勢いに乗る毛利軍に攻められ、逃げようと思っても背後には来島水軍が手ぐすね引いて待っているという状況に追いこまれたのです。こうして陶軍は大混乱をきたし、大潰走に繋がったのだと考えられます。
次回からは、この合戦の主役である毛利元就の事蹟を追ってみたいと思います。