ろくじょうのおとしあな -147ページ目

排気ガスのにおい

コンクリートの地面と私の足までのちょうど十センチの高さを私は浮遊している。ヒールの音は私の耳にやさしい。通りすがるサラリーマンのワイシャツの色の水色を次の瞬間にはもう忘れてしまっている。遠くで山の手線の発車の合図がすると同時に私の肩に雨粒が落ちる。雨は夕暮れに降り出す。傘を持たない人々が足早に過ぎてゆくのを私はぼんやりと見守りながらやって来たオレンジのタクシーを止める。タクシーでどこまでも行けるということ。


携帯電話がけたたましく鳴り響きタクシーの運転手は少し怪訝そうな顔をする。電話は噂話とマクドナルドのポテトがだいすきなあの子から。これから遊ばない?電話越しに聞こえるあの街の喧騒。せわしなく動き続けるワイパー。私は運転手に行き先の変更を告げる。運転手は面倒そうに返事をする。あの場所にあったあの大きな看板はとうに別のものに変わってしまった。知らないうちに夜はどんどん大きくなる。


その重い、銀色に光るドアは夜を分断している。私は地下に続く階段を降りてゆっくりとそのドアを開く。ひさしぶりーげんきだったー?彼女の金色の髪。彼の黒光りする革靴。音楽は常に身体を流れる。電子音は誰にでも寛容。私は身体を揺らす女たちを通り越してバーテンに声をかける。ジントニックをひとつ。バーテンは無表情でシェイカーを振る。ライムを切るフルーツナイフの鋭さ。トイレのドアの前でキスをする女の背伸びしている足。ポテトのあの子が私に気がついてダンスホールから手を振る。まったくあの子は泣くように笑う。隣でひとりで飲む男の頬をミラーボールの光がくるくると照らしているのがとてもきれい。私に気づいた彼は密やかに笑む。私は気づかない振りをして音楽に酔う。渦のような音の波。熱。閃き。笑うひとびと。軽くて甘い嘘と冗談。手に持ったグラスから炭酸の抜ける音が。一瞬。


ドアの向こうの夜は闇。私がふらふらと階段を上りながら空を眺めるとそこにはぽっかりと開いた穴のような月があるばかり。まだ熱を持った身体に冷たい空気はどんどんと沁み込む。私はまたやって来たタクシーを止める。タクシーではどこまでも行けないということ。


誰かがヒステリックに歌う声で目が覚めたとおもったらそれは単に排水溝に水の吸い込まれる音だった。今朝も雨。私は気がついたらベッドの上にいる。生ぬるい地下鉄の空気をどうしてか一瞬おもいだす。

眠っている間に見ていた水族館の夢のあのうつくしい水色を反芻しながら私は目を閉じた。

むだい

私は液体になってしまいたい。

思考も感情も哲学も倫理も背徳も真実も虚構もぜんぶぜんぶぜんぶそしてそれは私から発生したものだけではなくあなたの、或いはあなたのあの子の彼女の彼の彼らの、全部から発生した世界のすべて、それだけで世界のすべて、といったような液体。そんなものの中にいたい。願わくば。それはおそらく血液である。真っ赤な体温を持った、そして過去も未来も思想も持った。あなたの血液が私の身体の中に流れて、私は今私だけではない。というような妄想、空想、あなたには虚言癖があるのだね。と眼鏡をかけた男の人は言いすこしため息をつきました。眼鏡の淵は滑らかな銀で私はただひたすらそれを見ることに夢中でしたが、そうしている間にも私の身体にはあなたの血液が回り回り回り私の中になじんでゆくじゃない。私は皮膚を破いて血液を見たいくらいそういえばあなたには久しくお会いしていませんね。


ゆめのそと

冷凍された肉の断片

つめたく透きとおる血の匂い

指先に隠された赤

スカートの裾の、うそ




おんなのこは、くちびるは体温を伝えるものだと知っている





まつ毛が頬に影をつくる

カラスの飛び立つ黒

夜は光を殺し

呑まれるような大きな手のひら







おんなのこの身体の空洞はからからと音を立てる

そうして待っている、おんなのこは

細胞のひとつひとつまでもを満たす

そのひとを待っている







おんなのこはまだ知らない

くちびるがことばを伝えるものだということを、まだ知らない