ブログラジオ ♯180 It ain’t Over till It’s Over | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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では今回は
レニー・クラヴィッツの登場である。

ママ・セッド/レニー・クラヴィッツ

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いや、ようやくこの方くらいの
時代にまで降りてくると

やっと自分の得意分野に
戻ってきた気もして

少なからず肩の力が
抜けてくれていたりする。

レイ・チャールズ(♯178)とか本当
何をどう書けばいいのか
相当頭を悩ませたんですよ。

それでも楽しんでいただけたのか、
いいねを置いていって下さる方が

複数いらっしゃってくれると
ちょっとどころではなく
ほっとしたりもしております。


さて、このレニー・クラヴィッツの
シーンへの登場は89年のことになる。

それでも僕が
きちんと認知したのは、

たぶん90年代に
入ってしまってからだったと思う。


マドンナとのコラボレーションと、
今回のピックアップであるこの
It ain’t Over till It’s Overのヒットと

さてまず最初に名前を見かけたのは
一体どっちが先だったっけかなあ。

いやでもたぶん、初めて
ラジオからこぼれて来たこの
It ain’t Over till It’s Overを
耳にした時、

へえ、この人ってこんなことまで
できるんだと思ったような記憶も
なんとなくなくはないでもないから、

たぶんその時にはもう
お名前だけは存じ上げては
いたのだろうとは思う。


本当この
It ain’t Over till It’s Overには、
初回に耳にした時から、

もうなんというか
すっかり打ちのめされてしまった。

魅了されたと
いった方が正確だろうか。

とにかく、ああ、
今自分の一番欲しかった音は
これだったんだよなあ、みたいな

そんな手応えさえ
感じていたようにも覚えている。

まあ詳しくは
後述するつもりであるけれど。


さて、この人の音楽もまた、
極めてユニークであるといっていい。

こんな感じでいわば
ハード・ロックの香りを

巧妙に、しかも
奔放自在にまとった
黒人ギタリストの登場は、

それこそジミ・ヘン以来だった
くらいにまでいって
大丈夫なのではないかとも思う。


たとえば代表曲の一つである
Are You Gonna Go My Wayの
あの強烈なギターは、

今でも時折コマーシャルなどに
思いがけずに使われていたりして、

しかもなお、
耳に入ってくるたび
その都度はっとさせられる。

リッチー・ブラックモア(♯98)にも
勝るとも劣らない
圧倒的なセンスを感じさせてくる。

しかもこのトラックに
限ったことではない。


本当にこの
レニー・クラヴィッツの曲は

どれをとっても
ギターリフが強力で
しかも独創的なのである。

こういうのこそをやはり
ロックンロールと呼びたくなる。

そのレニーにだから
Rock and Roll is Deadなどと
歌われてしまえば、

それはもう真理と呼んでも
決して重くはないような、
説得力を持って響いてきてしまう。

こちらは95年の楽曲だが、
どうだろう。

まさに預言みたいに
機能しているといっても
過言ではないのではなかろうか。


しかし改めて、本当あの時代に
よくこんな人が
出てきたなあと思う。

個人的にはやはり
プリンス(♯138)が一つの
道をつけていればこそのこと
だったとも思いたいのだけれど、

この二人に共通しているのは
ソウル/ファンクと
ロックンロールの融合というか、


弁証法的な昇華だったろうなと
今になってみれば
やはりそう思われてくるのである。

殿下がそれでもなお、
どちらかといえばファンクの側に
やや針が振れていたとすると、

それを同じくらいの匙加減で、
グルーヴの全体を
ロックの側へと呼び戻したのが

このレニー・クラヴィッツでは
なかったろうかと
まあそんなふうに把握している。

レニーの楽曲群は
ダンサブルではないとは
決していわないが、


それでもなんとなく
ダンスフロアみたいなものを

ギリギリのところで
拒んでくるような手触りがある。

硬派というのとも
ちょっと違っているのだけれど、

それこそストーンズのように
いい意味でところどころ泥臭く、
時にサイケデリックに響くのである。

集団で踊るといった、こう
全体性を指向するベクトルと
真逆の向きの、

孤高としか形容しようのない
何かを感じさせてくる。

そしていわばこの人、
80年代というディケイドを
まるまるすっ飛ばし、

それ以前のロックを巧妙に継承し
90年代というあの時代に

甦らせてしまったとでもいうような、
そういう存在では
なかったのかなと思うのである。


まあ基本はそんな感じの音楽なので、
だから実は今回のチョイスである


このIt ain’t Over till It’s Overが、
真っ向から
レニー・クラヴィッツっぽいかというと

まるでそんなことはなく、
むしろ真逆かもしれなくて、

この方を紹介するのに
この曲を切り口にするのは
ちょっとだけ気が引けなくもない。

この曲はさらに不思議なのである。

むしろカウンシル(♯12)とか
あるいは

ブロウ・モンキーズ(♯8)辺りから
出てきていたとしても
不思議はないような感じがする。


もっとも、だからこそ、
当時の僕のアンテナに
強力に引っかかってきたことも
また同時に間違いはないのだが。

ロックのスタイルを
きっちりと守りつつ、

ソウルのエッセンスみたいなものを
巧妙に取り込んで、
一体化してしまっている。

だいたいあの頃は
たぶんその辺りの要素が
自分にとっての最大のキモだった。

たぶんこの曲をバラードとは
誰も呼ばないのではないかと思う。

おそらくこの語から
大概の場合に連想されてくる、

いわば純正のソウルに由来するような
湿っぽさというか

ある種の暑苦しさからは
完全に解放されている。

なのに、というか
だからこそなのか、

迫ってくるものはどこか、
上質のソウル・ミュージックに
通じているように思えてくる。


自分でも何をいっているのか
ちょっとわからなく
なってきている気もするけれど、

とにかくこのある種の
捕らえどころのなさこそが

同じことを何度もいうが、
たぶん当時の僕の一番の
ツボだったのである。

まあ中には御存知の方も
いらっしゃってくれるかもしれないが、

この曲はあまりにも好きすぎて
自作の中にも
しれっと登場させているくらいである。


そこでの記述と大体のところは、
似たような内容に
なってしまういもするのだが、

タイトルからしてもうたまらない。

――It ain’t Over till It’s Overである。

終わりになるまでは
終わりじゃないんだよって、

回りくどいけれど、
こんなふうにいいたくなる場面は
本当に多々ある。

座右の銘とまではいわないが、
時々この一節を思い出すことは
正直今なおままあるといっていい。

これだけですでに
心を鷲づかみにされていたと
いってもいいくらいなのに、

全体のサウンドもまた、
極めて心地好かったりするのである。

なんだろうな、この
ストリングスと
ギターの巧妙な絡み具合。

しかもそこにさらに、
微妙にひずんだ、


安っぽさぎりぎりの
オルガンみたいな鍵盤の音と、

それから後半にふと導入されてくる
シタールみたいな音色が

なんともいえない不思議な彩りを
トラックに添えてくる。

たぶんこんなタッチを
サイケデリックというのだろうと
思わないでもないのだが、

いわゆるサイケな音に関しては、
僕自身がまだあまり


自分の中に比較対象を
持たないままで来ているので、

断言するのはやや憚られる。

それでもたぶん
そんなに間違っては
いないと思う。

まあそんな感じで僕は
この曲にいわば一聴き惚れして

いそいそとこの時のアルバム
MAMA SAIDを
たぶん渋谷のタワー辺りで
買い求めてきたのだけれど、

アルバム全編を聴いて
さらに打ちのめされた記憶がある。

本当に多才なのである。

まあ収録の他のトラックについては
詳しくは機会を改めてに
しようかとは思っているのだけれど、

これもまた本当に
捨て曲の一切ない一枚だった。

何よりも頭から最後まで
続けて聴くことが心地好いという
そういう希有な作品だったのである。


どの曲もどの曲もいわば立っていて、

どれがシングルになっても
おかしくないよなくらいに
思っていたものである。

その証拠という訳でもないが、
このMAMA SAIDからは

実に計七枚ものシングルが
切られていた模様でもある。

また、これもついでにいっておくと
このアルバムの当時は、
アメリカのメインストリームよりも


どちらかといえば
我が国の反応の方が
早かったりもしたようである。

まあなんかここから先は、
年寄りの愚痴みたいにもなるけれど、

90年代直前くらいまでは、それこそ
ボン・ジョヴィ(♯137)や
あるいはワム!(♯32)のように、

全米が反応するよりも先に
日本のマーケットが

いち早く反応するなんて出来事が
結構あったものである。

そんな時代の最後の一例とも
あるいはこの方なんかは

ひょっとしていえるのかも
しれないよなあ、と、

まあ今回はテキストを起こしながら
つらつらとそんなことまで
つい考えてしまった次第。


さて、では恒例の小ネタ。

01年発表のこのレニーの
7thアルバムLENNYには、


Bank Rubber Manという
少々物騒なタイトルの曲が
収録されていたりもする。

この曲は、主人公=話者が、
散歩か何かの途中に、
路上で警官に呼び止められ、

そのまま銀行強盗の犯人として
逮捕されてしまうという
そういう内容なのだが、

これ実は、レニー自身が体験した
まさにそのままの
出来事だったりするのだそうである。

ただ回ってきた人相と
似ているからという理由だけで
拘束されてしまったらしい。


01年といえばレニーはすでに、
押しも押されぬ
ビッグ・スターだったはずである。

それでもこんな目に
遭ってしまうのだから、

改めてアメリカという国は
こと人種の問題に関しては

どうにも根深いものを
持っているのだろうなと

まあそんなふうに
思わざるを得なかった。

しかしながらこれもすでに
もう十五年以上も前の
出来事ではあるのだが。

それからまあ、
見つけてしまったので
これもついでに書いてしまうけれど、

今回一応レニー・クラヴィッツで
ググろうとしてみたら、

候補に「ぽろり」という言葉が
一緒に出てきて
何だろうと思って覗いてみたら

なんだかとんでもない
ニュースが出てきた。


いや、大体これだけの情報から
想像できるであろう
その通りの出来事である。

どうやらステージの上で
やってしまったらしい。

かがみ込んで立ち上がった時に
顔を出してしまっていたそうで。

レザーパンツと一緒に
下着まで破けちゃったのかな、
でもそんなことあるのかなと
小一時間首を捻ってしまいました。

あるいは、と一瞬
思わないでもなかったのですが、


どうもジム・モリスンみたいな
ああいうことでは決してなく、
こちらは純粋に事故だった模様。

もちろんですからこの時は
どうやら逮捕なども
されてはいないようですというオチは
やや不謹慎かもしれないですね。

いいながらでも書いちゃってるし。

まあとにかくこの一件、
一昨年15年は
スウェーデンでの出来事だそうで、

そういう訳でこの
レニー・クラヴィッツ、

現在も勢力的に内外を
ツアーで回られているのみならず、

ロッカーらしく
舞台の上を所狭しと
なお激しく
動き回られているようである。

最後に念のためですが、
レニーには下着を着ける
習慣がなかったために、

この時はそんな事態にまで
至ってしまったのだと
いうことでありました。