将来、お前のおかけでいい人生だった、と言ってみたい -2ページ目

「正義は勝つ」

織田裕二、鶴田真由主演の平成7年のドラマ。

今日、貸し出し中だった3、4話を除いて、それ以外すべてレンタルしてきた。

ドラマは、織田裕二演じる若手エースの弁護士と、鶴田真由演じる新米弁護士の話。

平成7年といえば、私が大学生のときか。

ドラマの中では、ときどき公衆電話が出てくる。

確か当時は、織田裕二はドコモのCMに起用されていたっけか?

それと、井上晴美が出演している。


いまから見ると、少々安っぽいドラマに見えるのは、気のせいだろう。

まだ途中までしか見ていないのだが、なんとなく思うに、鶴田真由はいらない気がする。

役者としていらないってことではなくて、ストーリー展開上いらないような気がする。

いなくておストーリーは成立するし、すっきりするような気がする。


どうでもいいか。










宮と社

昔から、神宮と神社の違いを、特に調べもせずに、自分なりに答えをみつけようと考えていたのですが、今読んでいる本のなかにそのことが書いてありました。


神宮、つまり、神の宮。

宮とは、もともと「御屋」(みや)のことで、つまり「住まい」ということ。

神宮は、神様のお住まいという意味になる。


神社、つまり、神の社。

社とは、もともと「屋代」(やしろ)のことで、つまり「代わりの住まい」「宿るところ」ということ。

神社は、神様が宿ることろといった意味になる。

だから、社については、大木や巨石もその対象になったりする。


伊勢神宮、明治神宮、宇佐八幡宮、鶴岡八幡宮、日光東照宮

出雲大社、諏訪大社、氷川神社、箱根神社


でも、もうちょっと深遠な意味があるような気がする。


テーマ曲

高田馬場、「鉄腕アトム」

恵比寿、「第三の男」

そして、新橋、「ウイスキーがお好きでしょ。」


日本は、なんだかんだいって、経済的に豊かな分だけ、心に余裕のあるいい国なんだと思う。


善と悪 つづき

人間は性悪である、それが私の今のところの結論だった。

映画「告白」を見て、登場人物の一人ひとりが、自分の悪意を満たすために、他人を出し抜き、悪知恵をめぐらせ、陥れる様を「さもありなん」と、ある種の感心をもってみている自分に気づいたからだ。

十数年前に流行った「利己的な遺伝子」論のように、人間、いや、生物は己の欲望を最優先に考え、その充足のためにこそ知恵と知識を使う。


だが・・・


今朝のラジオで武田鉄也がある書物の紹介をしていた。

チンパンジーによる実験の話。

檻の中には2匹のチンパンジーが飼育されている。

食事のとき、片方のチンパンジーに箱の中からチップを取り出させる。

チップが赤だと、えさは1匹分しかもらえない。

つまり、自分しか空腹を満たすことができない。

でも、黄色のチップだと、2匹分のえさがもらえる。

2匹ともに空腹を満たすことができるわけだ。

すると、チンパンジーは黄色のチップを取り出すことに固執し始めるという。


類人猿のような知能レベルの高い動物は、幸せを集団の中で共有する、いわば、共感する本能を持ち合わせているようだ。

決して動物は、本質的に利己的ではなく、性悪でもない。

共感する性向は、本能として脳が持つ本質的な機能なのだ


とすると・・・


「告白」で表現されたような人間模様は、人という動物の本能の退化なのか、あるいは、共感本能の行き着く先の絶望的な成れの果てなのだろうか・・・・

いや、現状を悲観的に表現したアンチテーゼに過ぎないのではないだろうか。

そう思いたくなってきた。


奇蹟の音色

生まれつき右腕のない少女が、義手をしてバイオリンを弾く。

文字にすれば、この一文で終わってしまうことだが、実際に弾いている彼女のこれまでの努力と頑張りは、その小さい体からは想像もできないくらい大きいものだったに違いない。


彼女は不幸を体現するために生まれきたわけではないはずだ。

彼女は幸せになるために生まれてきたはずだ。

障害を抱えるからこそ、彼女はその分だけ、人よりも幸せにある可能性を秘めている。


ある人からこんなことを聞いた。

人は、この世に生をうけるとき、自分で両親を決めている。

生まれる前から、自分に障害があること、あるいは、生活環境に恵まれていないこと、そんなことを全部承知の上で、自分で自分の両親を選択し、生まれてくる、と。


両親は、彼女の将来を心配し、彼女が人並みに幸せを享受できる人生を歩めるように、彼女が物心つかない、幼いころから、あえてつらい現実を教えてきた。

彼女「どうして私には腕がないの?大きくなれば生えてくるの?」

母親「・・・・」

母親「生えてこないよ。ずっとこのままだよ。」


自分の障害のために、幸せになることを諦めない人間になって欲しい。

障害を克服し、自分のやりたいことを、自分の力でできるまで頑張れる人になって欲しい。

そんな思いを抱きながら、両親は全力で彼女を育て上げた。

バイオリンを弾くことは、物心ついた彼女の夢であった。

なぜなら、そのバイオリンは、大好きなおばあちゃんが、1歳の誕生日にくれたものだからだ。

だが、バイオリンを義手で弾くのは、とても難しい。

それは、特殊な義手で、鉄棒にぶら下がって15Kgの自分の体重を支えることができるまでになっていた彼女にしてみても、難しすぎる目標だった。

幼い彼女は、いつのまにか、バイオリンを手にすることすらしなくなった。

父親はそんな彼女を目の当たりにして、彼女の将来を危惧した。

このままでは彼女は、自分の障害に負けて、なんでも諦める人間になってしまう・・・・

父親は、自分もバイオリンを弾くことを決心した。

自分がバイオリンの練習をすれば、彼女もきっと一緒に練習を始めるはずだ。


6年の月日が経った。

今彼女は、テレビカメラの前で、そのすばらしいバイオリンの音色を披露しいる。

一番つらいのは傷害を抱える彼女自身だろう。

でも、それにも増してつらいのは、両親だろう。

両親は、自分たちの不運に真っ向から立ち向かった。

立ち向かう情熱と、まじめさを、両親は落ち続けた。


きっと彼女は、生まれる前、神様に言ったはずだ。

「私、この人たちの子供になる。たとえ、片腕がなくても。」

両親は、彼女が自分たちの子供として生まれてきてくれたことを、心の底から感謝しているはずだ。


装置

私の身の回りで、休日、近隣のお寺を散策しているひとがいる。

なんでも、スタンプラリーよろしく、御朱印をあつめているらしい。


私も信心深い人間なので、神社仏閣のお参りには良くいきます。

御朱印は集めてはいませんが、そんな趣味をお持ちの女性と一緒に巡ることには、まったくもってやぶさかではありません。


で、本題です。

テレビ番組である学者さんが言っていました。

神社や仏閣を巡ると、気分が落ちついて、リフレッシュできるでしょ。

つまり、昔の人にとって、神社仏閣は、ヒーリングスポット、癒しの装置だったんですよ。

なるほど。

ものすごく納得。


私も、癒して頂きに行こう。



おめでた

大学時代の後輩の女の子、といっても、俺の2歳年下で、かつ既婚者でもあり、しかも6年生になる子供もいるのだが、に、少々下心があって(笑)、昨日メールしたら、すかさず返信があった。

曰く「実は、今、妊娠してまして・・・」


おめでたい!

実に、おめでたい!

両親ともに一人っ子なので、自分たちの子供も一人でいい、といっていた彼らだったが、二人姉弟の私からいわせれば、子供は多ければ多いほど、家族の幸せは倍増する。

めでたい。

実に、めでたい。


という表面的な思いとは裏腹に、「その一方で俺は・・・」と、まったくもって進展しない自分のコンカツに、なんとも苦笑いしかできない心境になってしまった。


自分の努力とかがんばりとか、まさに「理性に裏づけされた現実的な処置」を何一つせず、ただ、目に見えない、虚構的なもにばかりすがっている、愚かな俺。

縁とか運命とか・・・

心のそこから否定できないけど、いやむしろ、信じているけれど、やっぱりそれは、あとからついてくるものであって、まずは、現実を切り開く自分自身の物理的な努力とがんばりが必要だよな。


笑おう!

笑うことは、体内にエネルギーを充満させ、ストレスを解消し、運を切り開くために、軽視できない行為だそうだ。

笑おう!

どんなことがあっても、死ぬわけではない。たとえ、結婚できなくても、幸せな人生は送れるはずだ。

笑おう!

なんだかんだいって、日本の社会保障は充実している。ホームレスになったら、案外今より生きやすくなるかもしれない。

笑おう!

死ぬ気になれば、なんでもできる。それに、俺は努力することが嫌いな人間ではない。ストイックな生活は、かえって望むところだ。

笑おう!

もしこの俺がうまく結婚できて、子供が生まれたら、お嫁さんになってくれた人と子供といっしょに、毎朝毎晩、大笑いしよう!








いろいろ

茂木健一郎曰く

「涙は、脳が自分で処理できるもの以上の大きなものを受け取ったときに、あふれ出す」

年齢を重ねると、涙もろくなるというのも、単なる老化現象の一つにすぎないのか。

あるいは、私みたいに脳力の低い人は、やはり、涙もろいのか。

歳をとると、忘れっぽくなる(たとえば人の名前がでてこないとか、今自分が何をしようとしていたのかを忘れるとか)というのは、一説では、根拠がない俗説だそうだ。

たとえ若い人、幼い子供でも、そういう現象は頻繁に起こっている。

ただ、若いとき、幼い子供は、そういう場面で出くわしたとしても、あまり気にしない、すぐにそのこと自体を忘れるので、結果として、自分が「忘れっぽくなっている」とは思わないのだそうだ。

歳をとると、自分の能力の将来性を悲観する。現実にも、なんらかの能力が成長することはい。

だから、「忘れてしまった」という生活の一場面が、精神的なショックとして記憶に残りやすくなり、能力の将来性に対する悲観的な思いを助長する。


とはいえ、加齢とともに脳力が低下する、例えば、何かを覚えるという意味での記憶力は低下する。

でも、「年の功」ではないけれど、(いや、「年の功」か)、優秀な実年は、若輩者に勝る言動をする。

なぜなら、経験で培った知識と知恵によって、目の前の真新しい出来事であったとしても、その本質を理解し、処理できるからである。

確かに、例えば、「不毛地帯」のモデルになった瀬島龍三さんには、決して私は脳力ではかなわないような気がする。

善と悪 つづき

自分がそうだから、というのが核心だと思うのですが、やはり人間は性悪だと思う。

他人を恨み、妬み、蔑み、あわよくば出し抜いて、自分だけ、自分のみ幸せになろうとする。

端的に言えば、そんなマグマを人間はその中心に抱いて生きているような気がする。

(でもそれは、「利己的な遺伝子」というわけではないだろうけど。)

問題は、そのマグマを覆い隠す「善意」という贅肉をどこまで肉厚にできるか、というこではないだろうか。

贅肉がまったくなければ、限りなく悪意のマグマはむき出となって露出する。

おそらく、それは犯罪者になるのがオチだろう。

余りにも贅肉がつきすぎて、自分の身動きさえも制御できなくなるくらいになれば、それはまさに、偽善者として疎んじられ、あるいは、浮世離れした空気が読めない人として無視されるだろう。

薄くもなく、厚くもなく、でも、どちらかというと厚めな人、いわば、ぽっちゃりした感じが、万人に受け入れられ、尊敬され、敬愛されるのだろう。

青島俊作のように。


ここでいう「善意」とはなにか。

それは、人間の核心が性悪であることを理解し、共感し、そして、他人のそれを許すことだと思う。

許すくらいの器量がなければ、性悪のマグマは、互いに衝突するだけで、決してエネルギーを弱めない。

衝突によって生じる新たなエネルギーによって、際限なくエネルギーが増幅していくだけだと思う。


青島俊作は、本店のマグマ、室井さんのマグマを、結局とのところ、その大きな器量で寛容している。

青島は偉大だ。





善と悪

松たかこは、好きな役者の1人です。

顔は決して好みではないのですが、「有頂天ホテル」でみせてくれた演技に感心して以来、好きな役者になりました。

その彼女が主演ということになっている映画「告白」を見てきました。

人から聞いた話では、湊かなえの原作と映画は少々ストーリーが違うということだったのですが、私の記憶によれば、映画と原作の違いはなかったように思います。


さて・・・


この映画を見て、思ったのは、やはり人は性悪なのではないかということです。

性善と性悪。

頭の中で、イメージを並べてみました。

性善、性悪の順に書くと、感情と論理、曖昧と明快、赤と黒、躁と欝、ホットとクール、褒めると貶す、明と暗、そんなところでしょうか。

この映画では、登場人物それぞれの性悪が余すところなく描かれていて、それらを貫くテイストは「論理的な思考」といった感じした。

当然、全体として話は暗い。

そして、主人公の少年、松たかこ演じる女教師の台詞には、「バカ」「愚か者」といった言葉が良く出て来ました。


私は、もともと理系的な人間ですので、かなり論理的な世界が好きですし、あこがれています。

本当のところは、感情的であいまいな人間なのですが、意識として常に論理的な人間になろうとしています。

なりきれていませんが。

そもそも、職業としてコンピュータの世界に居るのは、そのためです。

感情的であいまいな世界は、なんとも居ずらい感じなのです。照れくさいという感覚もあります。

でも、上のように、性善と性悪を別な言葉でイメージしてみると、論理的な世界というのは、性悪な世界なのだということがわかりました。

確かに、私も若いころはよく人を見下して「バカ」という表現をよくしていました。

そして今も、私を取り巻く人の中に、そのような感覚の言葉をベースにして、他人との関係を構成する人々を多く散見します。


昨日も含めてここ最近「踊る大走査線」付いているので、織田裕二演じる青島のようなキャラを、私の理想として頭に描いていたのですが、やはり、その一方で、青島は、非現実的なキャラだと思わずにはいられない自分がいました。

なにか歯がゆい。そして、あくまでも理想でしかなく、現実ではない。

そんな信念、確信のようなものを拭い去ることができずにいます。


現実を悲観する。

悲観するからこそ、現実的な手段をとり、最悪の事態を避け、平穏な人生を送る。

物事はすべて論理的に辻褄が合い、辻褄さえ合わせれば、上手く回っていく。

辻褄は考えさえすれば、理解し、予想できる。

だから、不確定要素でる感情、感傷、気分、他人の性善への期待はしない。

他人は信用せず、お互いがお互いのだまし合いをいかに見抜き、自分の有利にものごとを展開させるか。

出し抜きあい。だまし合い。

それを、「礼儀」で隠蔽し、「仕事だから」と言い訳し、正当化する。


う~ん、俺はなにが言いたいのだ???


俺は人を信じられるのか??

もし信じることができないのなら、俺は人を愛することができるのか?

人から愛されることができるか??

他人を受け入れられるか?

他人を受け入れてくれる人を信じられるか?


いかん、いかん。

また、なんとも暗い思考の世界に陥ってしまっている。


やはり、暗い話より、明るい話の映画を見るべきだった。