第5話 ボロボロなカラダ | 第6話 カラダが教えてくれたこと |第7話 出会い |
第8話 劣等生 (この記事)
■一目惚れ
2003年、ティップネスで「マットピラティス」というクラスがスタートした頃、
おそらくそれは“知る人ぞ知る”エクササイズで、アスリートやダンサー、モデルなど、
日本での実践者はごくごく一握りの情報通なカラダのエリートのみであったかと。
実際、いまや世界中に認定指導者をたくさん輩出しているSTOTT PILATES
であっても、
日本で活動されていた日本人の認定指導者は、当時まだ2人しかいないと言われていて。
(もちろん海外で活躍されていたり、他団体の認定指導者はいらっしゃったと思います)
そんな時代でしたから、当然のごとく私もピラティス未経験者でした。
ピラティスのトレーニングを受けたのは「マットピラティス」の社内研修のときだけ、
あとは自主トレーニングのみ、という状態でしたので、あまりにも“経験不足”なまま、
STOTT
PILATESの資格認定コースを迎えなければなりませんでした。
私たちはまず、本格的なトレーニングがスタートするその前に、当時アドバイザーでらした、
認定指導者日本人2人のうちのお一人から事前トレーニングを受けることになりました。
そして、そのとき出会ったこの子に、私は一目惚れしてしまったのです
←これは自由が丘のスタジオPYPのリフォーマー
リフォーマー。ピラティス専用イクイップメント(マシン)。
そう、以前に本で見たあのマシンでした。
その体感は私がそれまでに知っていたトレーニングマシンとは全く違いました。
とにかく楽しい!気持ちいい!!
すっかりピラティスのとりこになった私は、俄然コースへのモチベーションも上がり
期待感でいっぱいなワクワクした気持ちでコース初日を迎えました。
ところがのっけから自分の甘さを思い知らされることに・・・
■学びのスタート
2003年6月、いよいよSTOTT PILATES
IMPコース(Intensive Mat-Plus)がスタートしました。
私たちが教えていただいたのは、サンフランシスコ在住の日本人の先生でした。
当時インストラクタートレーナーの先生は日本にはいらっしゃらなかったんですよね。
だから、ピラティスを学ぼうと思ったら、海外へ出向かなければならなかった・・・
つまり、英語ができなくてはピラティスを学ぶことができなかったんです。
そんな時代に日本語で学ぶことができた私たちはほんとラッキーだったと思います。
(東京開催のコースはアメリカ人ITから通訳を介して、でしたから)
コースの初日は、まず解剖学のリビュー(再確認)から始まりました。
それはピラティス指導を学ぶ上では、ごくごく当たり前に知っておかなければならない情報。
先生からの質問にスラスラと答える同期たちに、いきなり置いてきぼり食らった気分の私。
そうなんです・・・ 恥ずかしながら私、ほとんど答えられなくて。
そのときすでにフィットネスインストラクターとして12年も活動していたにも関わらず、
私が知っていたのってアウター(表層)の大きな筋肉だけだったんですよね。
なんとなく「これ好きかも♪」「面白そう!」、そんな軽い気持ちで受講していた私と違って、
パーソナルトレーナーを目指すという明確なビジョンを持って参加していた同期の5人の仲間たち。
彼らはピラティスを学ぶにふさわしいベースがちゃんと整っていました。
そんな同期の中で私は明らかに劣等生でした。
つづく・・・