私たちは何者なのか1章二つの文明 | 手相と性の園

手相と性の園

福岡のアナスタシア好きな手相講師が手相、吉方位、性について書いています。

 

アナスタシアシリーズを

1巻ごとに1章づつ

振り返る企画、

5巻スタートです。

 

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5巻の始まりは

メグレさんの独白です。

 

我われはみんな、

どこかへ向かって急ぎ、

何かを目指している。

 

一人ひとりが

幸せな人生を送り、

運命の人に出会い、

家庭を築きたいと思う。

 

しかしそんな我われのうち、

望むものを得ることができた人が、

いったい何人いるのだろうか?

 

 

4巻がアナスタシアのセリフから

始まっていたのと

対になっているかのようです。

あなたに創造について
話をするわ、ウラジーミル 

 

 

 

メグレさんのいう

「幸せな人生」について

わたしたちのような

「文明化された資本主義社会」で

生きる人々が、

 

快適な家に住んで

やりがいのある仕事を持ち

愛する人と家庭を築いて

健康的な暮らしをしたい

と願うことに関しては

なんら違和感を感じませんし

 

全ての人がそのような人生を送る

世界をイメージすると

 

身体が緩んで

ぽかぽかする感じさえします。

 

 

 

一方で、タイガの森に暮らし

何もないように見えて

すべてがある、という

アナスタシアが望んでいた

「幸せな人生」は

どんなものだったろうかを

考えてみたとき

 

自分が夢に見るような世界を

一緒に実現させたいと

願ってくれる友人がほしい

とか

 

一緒に未来を創造してくれる

パートナーに出会いたい

というような

 

人との出会いに関する

夢があったとして

 

それはイメージで創造しても

実際に現れるまでには

やっぱり三次元の世界であれば

たとえアナスタシアといえ

タイムラグもあったろうし

 

あるいは

自分の光線で見ている

遠くに暮らす人に

自分の気持ちが

何とか伝わってほしい

 

多くの人に人間本来の

「神なる生き方」を

思い出してほしい

 

各地で廃れて忘れられた

ドルメンを見つけ出し

きれいにしてほしい

というような願いは

いくらでも

あったんじゃないか

 

 

どんなに人間としての能力が

フルに発揮された

「神の似姿」状態だったとしても

 

現時点では叶っていなくて

こうなったらいいな、という

夢や希望は常にあるんじゃないか

 

それは、神にだって

当然あるんじゃないか

 

神だからすべては意のままで

何もこれ以上望むことはない

というわけじゃないんじゃないか

 

 

・・・なんてことは、

アナスタシア全章振り返りを

始めるまで考えたことも

ありませんでした。

 

 

 

 

 

この章で、

メグレさんが語っているのは

 

わたしたちは

追い立てられるように

学校で勉強して

会社で働いて

家や車を買って

結婚してこどもを育てるけど

 

人類全体がどこへ向かっているのか

わたしたちの国が将来どのような

姿になっているのかを誰も知らない

なんておかしなことじゃないか

 

アナスタシアが語った

地域紛争も犯罪も病気もなく

貧困もない国にするために

 

各家族が終身的な利用を目的とする

1ヘクタールの土地を受け取り

 

植物を敷地内に正しく配置し

数年で肥料をやらなくても

肥沃でない土壌ですら

改善されるというアイデアが

頭から離れない

 

ということがまず1つ。

 

 

 

 

 

そして、もう1つが

についてなんです。

 

 

 

ここまでの巻にも

分散して死に関する

アナスタシアの発言が

書いてあるのですが

 

メグレさんがここで

改めてまとめた内容は

わたしにとって非常に

大きな意味があるものでした。

 

 

なぜなら、この1年ほどの間に

わたしの大切な隣人と友人が

2人亡くなったからです。

 

 

アナスタシアの

「死」に関する

発言のおかげで

わたしはこの2人を今も

すぐそばにいるように感じるし

 

それはまったく

悲しいものではなくて

 

楽しかった思い出や

これは○○さんが好きそう

とか

この花が咲いてるの

☆☆さんに教えてあげよう

とか

そういうことばかりです。

 

 

 

その一方で

今、先祖供養だったり

親孝行だったり、

開運行動だったりとして

100%善いことのほうに

振り切られている感のある

「お墓参り」

 

というか

 

「お墓」に関しては

 

わたしたちが故人に望むこと

(安らかに眠ってほしい、とか

天国へ行ってほしい、というような)

 

とは正反対の作用があるように

発言されているため、

 

(親族や友人たちが故人の

死のことを思う意識がある限り、

彼らの魂は物質として具現化できず

死の世界に幽閉される)

 

心理的な反発はかなり

大きいのではないでしょうか。

 

わたしはたまたま?

小さいころから

ほとんどお墓参りをしない

家庭で育ったので

そこまで抵抗なく読めたのかも

しれません。

 

 

と、今書いていて思いましたが

わたしたちがお墓参りをしながら

「安らかに眠って」とか

「わたしがそちらに行くまで

待っていてね」とか

「天国で幸せに暮らして」

いてほしいとか、

 

そういうのは全部

お墓で叶うことであって

別に正反対ではないのかも。

 

 

あまりわたしたちの社会で

亡くなった人がまたすぐに

新しい肉体で同じ魂で

この世界に生まれてくることを

イメージする機会ってないですよね。

 

輪廻転生とか

生まれ変わりといっても

100年以上間が空くイメージを

勝手に持ってます。

 

生まれてすぐ亡くなった赤ちゃん

とかだと、またすぐ次の妊娠で

お腹に来てくれたとかイメージ

しやすいですけど。

 

 

 

 

それこそ、この三次元での人生は

「疲れて」「しんどくて」「修行」

だから、

肉体を脱いで魂の存在になったら

休憩時間でちょっとゆっくりして

 

ある程度時間がたってからまた

「成長のために」

「修行」に行ってくる、みたいな

生まれ変わりのイメージあります。

 

 

でもアナスタシアは

地上こそが天国で

神の意識が物質化した世界に

意識と肉体を持って

生きていけるのは

人間の魂だけだから

 

生きている間が最上級で最高

みたいな考え方なんですよね。

 

そういう

スピリチュアルな考え方って

本当に見たことない。

 

 

だから、本当に人々に愛されて

地上に善いものを生み出した人は

亡くなってもすぐまた肉体を得て

帰ってくる、という発想自体が

もう斬新だし、心地良い。




確かに神がわたしたちを

我が子として創ったなら


地上にすべてを用意して

さらにもっと美しく

素敵なものを一緒に

創造しようよ、という夢は

神にふさわしい。




もしも人間を作ったのが

アヌンナキ?とやらなら

神は地球を創っただけ?


地球は偶然出来た?

 


どれを採用して生きるかは

一人ひとりに委ねられている。




 

 

 

 

 

 

 

 

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1巻1章

 

2巻1章

 

3巻1章

 

4巻1章

 

 

 

 

 

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