太平洋戦争末期の1945年3月、はるか南方にあったのどかな波照間島に、ひとりの青年が小学校の代用教員として派遣されてきた。
山下虎雄というその男の名は偽名だった。
この男が来たことが、波照間島の悲劇の始まりになろうとは、当時誰も分からなかった。
島民は何の疑いもなくこの青年を歓迎し受け入れた。
軍事スパイを養成する為の極秘機関「陸軍中野学校」出身の軍人とは知らずに。。
「陸軍中野学校」出身者がこの時期、米軍の上陸が予想される沖縄の島に次々派遣されていたのだ。
山下虎雄と名乗る男は、赴任当初は物腰が柔らかく、子供達にも親切に接していた。
沖縄戦が本格的に始まった1945年3月下旬のある日、男はついに本性を現した。
突如、軍服を着て現れた山下は、全島民を集めると「日本軍の命令だ!」と言い、波照間島から西表島への疎開を指示する。
疎開と称した強制移住だった。
当時の西表島は未開の地であり、マラリアの発生地域として恐れられていた。
島民は猛反対をするが、山下は容赦無く軍刀を振りかざした。
さらに山下は、「米軍の食糧になってはいけないから」と、島にいる家畜を全て殺処分し、畑は全て焼くように命じる。
処分された家畜は、その後石垣島に送られ、日本兵の食糧になったと言う。
西表島に渡った島民を待ち受けていたのは、地獄のような環境だった。
山下による恐怖統治、食料は底を尽き、川の水を飲む生活…
マラリアの感染者が出るのにそう時間はかからず、間もなくして死者が続出する。
この緊急事態に、当時の国民学校の識名信升校長が、意を決して石垣島に渡り、八重山諸島守備隊の宮崎旅団長に惨状を必死に説明し、ついに帰島の許可を得る。
西表島の南風見に戻った識名校長は、反対する山下を振り払い、生き残った島民と共に波照間島に帰島した。
しかし時遅く、帰島後、マラリアが蔓延する。
そこに食糧不足による栄養失調が追い打ちをかけ、島民は田畑を耕作する氣力も出せない為、やむなく琉球王朝が飢饉の際の非常食用にと栽培を奨励していたソテツを食べて飢えを凌いでいた。
しかし、ソテツには毒があり、さらに多くの人が亡くなっていた。
結局、マラリアとの戦いは、帰島後の方が凄惨さを極めた。
1946年に入り、マラリアの蔓延はようやく沈静化し、1955年のDDT散布により、沖縄県からマラリアは完全に撲滅されることになった。
この悲劇で、波照間島全島民1590人のうち、ほぼ全員の1587人がマラリアに感染し477人が死亡した。
島民の約3分の1が死亡した事になる。
当時の国民学校の学童も、全323人のうち66人が死亡した。
西表島での過酷な生活の中でも、識名校長は岩場で子供たちに授業を行なっていたが、死者が続出した為、中止を余儀なくされる。
帰島直前、識名校長は、学童が勉強していた岩盤に、「この悲劇を決して忘れないで欲しい」という願いを込めて、ある文字を彫り込んだ。
「忘勿石 ハテルマ シキナ」
現在は、この岩盤のレプリカと、識名校長の胸像が大海原に向かって建てられている。
識名校長が見つめるその先には、故郷の波照間島が。。
そして波照間島にも同じく、西表島の方角に向けて、学童慰霊碑が建っている。
そして、当時の国民学校は、現在も波照間小学校として存在しており、その外壁にはある〝哀しい唄〟が刻み込まれている。
波照間小学校の全児童と職員の並々ならぬ想いのこもった『卒業制作』。
「星になった子どもたち」
1 南十字星 波照間恋しいと
星になった みたまたち
ガタガタふるえる マラリアで
一人二人と 星になる
くるしいよ さむいよ お母さん
帰りたい 帰りたい 波照間へ
2 南風見の海岸に きざまれている
忘れな石という ことば
戦争がなければ こどもたち
楽しくみんな あそんでた
さびしいよ いたいよ お父さん
帰りたい 帰りたい 波照間へ
3 みんなでたましいを なぐさめようよ
みんなでなかよく くらそうよ
66名知らない世界へ
逝ってしまったこと わすれない
しずかに やすらかに ねてください
平和な 平和な 波照間に
しずかに やすらかに ねてください
平和な 平和な 波照間に
山下虎雄軍曹(偽名)は、人知れず島を脱出し、戦後、3回にわたり波照間島を訪れている。
3回目の来島となった1981年には、全島民による来島への抗議書が出された。
山下氏がなぜ、3回も波照間島を訪れたのかは今も謎に包まれたまま。山下氏は晩年、滋賀県に住み、機械メーカーの会長を務め、1997年2月に死去している。。