さだまさし 小説「風に立つライオン」 | misaのブログ

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みなさんは、さだまさしさん(61)の『風に立つライオン』という26年前の名曲をご存知ですか?

9分に近いほど長い曲なので、なかなかテレビでは流れませんでしたから、知る人ぞ知る隠れた名作かも知れません。

「突然の手紙には驚いたけど嬉しかった」から始まり、「あなたの幸福を心から遠くからいつも祈っています。おめでとう さようなら」で終わるこの歌は、アフリカで巡回医療に携わる青年医師が、日本に残したかつての恋人に宛てた手紙という形をとっています。

自分ではない誰かと結婚する恋人への想い以上に、この歌には壮大なドラマを感じます。

是非聴いて下さい。



この曲をきっかけに、アフリカに行きたいという医師や、青年海外協力隊が多く現れるようになりました。

日本を離れて人々を想う気持ちを表現したこの曲は、JICA(ジャイカ)の青年海外協力隊や海外で活動する医師の心の支えとなっています。

歌の一部です。

『三年の間 あちらこちらを廻り、その感動を 君と分けたいと思ったことが沢山ありました。

ビクトリア湖の朝焼け、100万羽のフラミンゴが一斉に翔び発つ時暗くなる空や、キリマンジャロの白い雪、草原の象のシルエット、何より僕の患者たちの瞳の美しさ。

この偉大な自然の中で病いと向かい合えば、神様についてヒトについて考えるものですね。

やはり僕たちの国は残念だけれど、何か大切な処で道を間違えたようですね。

闇の中ではじける彼等の祈りと激しいリズム。南十字星、満天の星、そして天の川。

診療所に集まる人々は病気だけれど、少なくとも心は僕より健康なのですよ。

僕はやはり来てよかったと思っています。辛くないと言えば嘘になるけどしあわせです。

あなたや日本を捨てた訳ではなく、僕は 「現在」を生きることに 思い上がりたくないのです。

空を切り裂いて落下する滝のように、僕はよどみない生命を生きたい。

キリマンジャロの白い雪、それを支える紺碧の空、僕は風に向かって立つライオンでありたい。』

この「風に立つライオン」が、小説になったのです。

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まさに、ビクトリア湖の朝焼けとフラミンゴの色を表したような表紙です。

そしたら、15日の「モーニングバード」でもさださんの事が取り上げられていて、私は感動しました。

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さださんの言葉は、ひとつひとつが宝石のように輝いていて、いつも私は元気をもらえるのです。

番組からまとめてみました。

さださんは、デビュー40周年の今年、7月17日に日本武道館でソロ通算4000回公演を達成しました。これは日本音楽史上1位の大記録なんです。

さださんが1987年に発表した曲「風に立つライオン」は、実際にケニアで3年間青年海外協力隊として巡回医療にあたった父親の友人の医師・柴田紘一郎さんがモデルになっています。

さださん「青年海外協力隊にどうしても行くって、娘がアフリカに行っちゃいました。どうしてくれますか?っていうお母さんの手紙をもらいました。」

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柴田紘一郎さんの写真

さださん「こういう眼差しですよね。こういう想いはきっと現地の人たちには伝わるんでね。
日本は頑張ってるっていうのは、伝わってますよね。」

今回、さださんが歌を元に書き下ろした小説は、アフリカで医療にあたる日本人医師の治療を受けた元少年兵が、やがて医師になって、今度は東日本大震災の被災地で人々を救うという心と心をつなぐ姿を描いています。

「医師が患者から奪ってはいけない最も大切なものはな、命じゃないんだよ。希望なんだ。」

このセリフには考えさせられました。

さださんは、本当は小説を書くつもりはなかったそうです。なぜなら、歌が完結しているので、もうこれ以上のことを言う必要がなかったのです。

ところが、俳優の大沢たかおさんがこの曲が大好きで、映画化したいと5年前からさださんに小説化を熱望していたのでした。

それでもなかなか書けずにいたのですが、その間に震災が起きたのです。

さださん「僕らにとっての東日本大震災は、人生を揺るがす国難だったんですよね。
それに生きて立ち会ったって事はね、何かをしなきゃいけないって事だと想うんですよ。

震災の後に作った歌は、常に震災の事を考えてるし、震災の後に書くものっていうのは、やはり常に震災の事を思ってますね。

何かの形でこれを書き残しておかなきゃいけない。書き残しておくっていう事は、もしかしたら読んでくれる人にバトンが渡るから、そういう責任を感じますね。」

歌や小説で心のバトンをつなぎたいという思いに至るまでのさださんにも、これまで数々の挫折がありました。

1952年に長崎で生まれたさださんは、3歳からバイオリンを習い、13歳にバイオリン修業のためにひとりで上京しました。

しかし、音楽学校の受験には失敗してしまいます。

さださん「ノイローゼになりました。半年くらい、何にイライラしているのか分からなかった。
そこで、イライラについて箇条書きにしてみたんです、毎日。

2~3週間もそれやるとね、何で悩んでたのかハッキリ分かりますね。

要するに、私は誰?ですよ。何をするために生まれて来たのか?これからどうやって人生を生きていったらいいんだろうか。

ああそうか、これは哲学で言う私は誰?で俺は悩んでるんだと思った瞬間に、パァって明るくなりましたね。

ああ、17歳で分かる訳がないなあ。じゃあ45。45歳まで仮って決めたんですよ。」

そしてさださんは長崎に戻り、高校時代からの友人吉田正美さんと1972年『グレープ』を結成。

「精霊流し」や「無縁坂」は全国的なヒットとなりました。

1976年からはソロ活動を始め、「雨やどり」や「案山子」「関白宣言」などの代表作を生み出しました。

さださん「いやぁ、順風満帆じゃありませんよ。映画で借金もしましたし。」

さださんは29歳の時、映画「長江」の撮影で28億円という多額の負債を抱えてしまったのです。

さださん「28億まで、なぜ貸し続けたのか。なぜ5億で『はい、終わり』って言ってくれなかったのか。貸したあんたはひどいよって思いましたよ。。えっ?」

(ここで何故か、後ろの人形が突然倒れる)

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さださん「大丈夫かあ?あ~のぐらいのショックだったですもん。」

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莫大な借金を返す為にさださんが取った行動は、日本各地を廻るソロコンサートでした。

そこではさださんのトーク力が威力を発揮しました。

ライブにて「携帯電話って無遠慮だねぇ。時々便所の個室で鳴ってるよね。
ンーンーンー。。本人じゃなくて電話が唸ってる。」

さださん「1年間に180回以上コンサートやりました。すると声がダメになるんです。

トークはそういう所でひとつの武器になったのは事実です。

コンサートで、3曲続けて歌いますって言ってギターをかついだら、最前列にいた人がトイレの為に席を立ったんです。

イントロ始まってたけど中断して、呼び止めたんです、その人を。なぜここで行く?と。

すると彼女は、全然悪びれずに振り返って、こう言いました。歌はCDで聴きますから

この人は、俺に会いに来てくれたんだ。だから俺は元気で、明日の元気について語って、ついでに何か歌えばいいんだ。」

私は、さださんのトークだけを集めたCD全集を持っています。

笑いあり、涙ありの素晴らしいトーク集で、私の辛い時期にどれだけこのCDに助けられたか分かりません。

さださんが、28億円もの借金を負ったのは、全て天の計らいだと感じます。

日本全国にさださんの想いを届けるためだったんです。

さださんは、日本語をとても大事にしています。そしてハートがとても暖かく、生きることに真剣に取り組んでいます。

さださんは、日本を元気にできる方だと私はとても尊敬しているのです。


そして、さださんはやがて自分が何者かが分かる45歳になりました。

長くなりますので、いったん区切ります。