先日、学生時代の友人と話をしていて「お前のような傷つきやすくて打たれ弱い人間が、よく人前で講演したり、多くのスタッフを使って仕事できるものだな~」と不思議がっていました。


 そのとき久しぶりに自分の性格について考えてしまいました。


「そうだ俺はとても繊細で傷つきやすい、ネガティブな人間だったんだ」ということを思い出してしまいました。


思い出したというのは、今現在自分の気持ちの中では、自分の性格に関して、「特別に傷つきやすくて、打たれ弱い、ネガティブ」な人間という認識が無くなっていたのです。


人間の性格なんて、そんなに簡単に変わるものではないですから、正確に言えば、今でも「傷つきやすくて、打たれ弱い、ネガティブ」であることには変わりは無いのですが、それを防衛する考え方を身につけたのです。

 

自分の性格を変えようと長年時間を費やしてきましたが、挫折感の連続で 性格を変えることはできませんでした。


しかし考え方を変えていけば、性格が変わったのと同じように行動できることに気づいたのです。


「あの人は変わったね」とか「あの人は成長したね」というのは、その人自身が成長したと考えていたのが、実はその人自身の考え方が変わっただけなんだということに気が付いたのです。


人間を変えることは不可能ですが、考え方を変えることは努力や習慣で誰にでもできることなのです。

電子書籍が出てきて、今後の出版社はどうなっていくのだろうと少し考えてしまいます。


町から本屋がなくなる………



私の中で、どんなことが起きようと、「世の中はすべていい方向に向かっている」と信じようと思うようにしていますが、見えない未来にはどうしても不安も同居しています。



出版に関しては、あまり心配はしていませんが、今の世の中は何が起きても不思議ではありませんので「今後、歯科医院が不要の世の中が来る可能性もあるかもしれない」と考えると少しぞっとしてしまいます。



少なくとも、今の数の歯科医院が必要ないことは間違いありません。


生き残れる歯科医院とは、患者様から必要とされる歯科医院だけです。


「南青山デンタルクリニックがなくなると困る」と思っていただける患者様がどれだけいらっしゃるかで、淘汰される方になるか、生き残れる方になるかが決まってきます。


統計的に、今ある歯科医院の中で何%が必要とされているのかはわかりませんが、謙虚な気持ちで患者様から必要とされる歯科医院であり続けるように頑張らなければいけないなと思う今日この頃です。


「信用を得るのは大変でも、失うのは一瞬」なんだということを忘れないようにしたいと思います。

人は他人から強制されると反発するものです。


人を変えようとすれば必ず反発されます。


当クリニックには22人の社員がいますが、私の中で、こうなって欲しいという願望はあります。


しかし、スタッフを変えようとすれば必ず反発されるでしょう。




私は結婚していますので、妻や子供と生活しています。


家族とはいえ自分以外の他人と生活していれば「あーして欲しい、こうして欲しい」ということは当然あります。


子供でさえ反発するのですから、大人の反発心は子供の比ではないでしょう。


妻とのことなら自分が我慢すれば解決する問題であれば、相手を変えようとするよりは自分が我慢して波風を立てないようにしています。


相手を変えようとすれば反発されるだけなので、意識的に必要最小限しか言わないようにしています。


しかし、子供には将来自立させるために親として言わなければいけないことがあります。


いくら子供とはいえ「人は他人から強制されると反発する」という人間の性質は変えられませんので、できる事なら自分で気づかせたいと思っています。

(現実的にはほとんどの事が強制になってしまいますが……)


社員には患者様と対応してもらわなければならないので、「人は変えようとすれば反発する」とわかっていても成長してもらわなければなりません。


社員にしても、上から目線で命令されれば、素直に受け入れられないことも多くでて来るので、できるだけ自分で気づいてもらいたいという気持ちでミーティングを行っています。




強制されたことは相手のために嫌々してあげている行動になりますが、自分で気づいたことは自分のための行動になります。


勉強も同じです。


強制されてしている勉強は、身に付きませんが、自分の意志でする勉強は将来にわたっての自分のスキルになってきます。



私本人は気付かせようとしているつもりでも、相手には強制されているように受け取られることもあるでしょう。


それは、相手との信頼関係がポイントになってきます。


信頼関係がない人間に何を言っても強制になります。


信頼関係ができていれば、多少の強制的な言い方もいい方に受け止めてくれて、何かに気付いてくれることもあります。


尊敬できる人の言うことなら聞く耳を持てますが、軽蔑している人からどんな立派なことを聞いても受け入れることはできません。


相手に何かを言う時には、相手との信頼関係を考慮して言い方や、言う内容を考えないと「ぬかに釘、馬の耳に念仏」になってしまうでしょう。



理想的には、社員や子供に対に対して、強制ではなく、たくさん気づいてもらうための一番の近道は、尊敬してもらえる関係になることだと思います。




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ドラフトのくじ引きを見ていて、「絶対に当たりを引いてやるぞ~」と気合の入っている人を見るたびに、「絶対にこの人には当たらないな!」と思ってしまいます。


往々にして、残り物に福があることが多いですが、これは偶然ではないと思っています。


普段の生活においても、欲の塊の人間が選び残したものこそ本当は宝の山で、その宝に気付く生き方をしているかどうかで、残り物の中にある目の前の宝物を手にできるかどうかが分かれ目なのではないかと思います。


どの人間にもある「自分が得してやろう」「何が何でも自分が……」という卑しい利己の気持ちは、神様のご機嫌を損ねるのではないかと思います。


くじ引きをする以上、当たりを引き当てたいという気持ちは誰もが持っていて当然ですが、「ここまで来たら後は天命だから、当たっても当らなくても出た結果がベストだ」という悟りの気持ちになっている人ほど当たりくじを引けるのだと思います。


でも、人間にはどうしても「欲」があるから、そういう心境になれる人は、本当に、日々、感謝しながら生きている人なんだと思います。


学生時代によく耳にした「人事を尽くして天命を待つ」は私にとっては死ぬまでのテーマです。


人事を尽くすから天命を待てるのか、天命を信じれるから人事を尽くせるのかはわかりませんが、私の中では後者の「天命を信じれるから人事を尽くせる」の方がしっくりきます。


私の中には天使もいれば悪魔もいる。


できる事ならいつも天使の自分でいたい、


でも……


自分に余裕がなくなってくると、悪魔の自分が顔をもたげてくる。




例えば


自分を否定された時


信じてた人間の信じたくない現実を見た時


忙しすぎて気持ちに余裕が持てなくなった時


気持ちだけが焦って、結果を早く求めてしまう時


時間がないのに子供たちがいうことを聞かない時


未来に不安を感じた時


病気になった時


我慢の限界を超えた時


…………





天使の自分は他人にも思いやりの気持ちが持てるのに、悪魔の自分は自分のことで精いっぱいで、他人を責めたり、他人の足も引っ張りたい衝動に駆られる……


天使の自分は問題を解決しようと頭を使うが、悪魔の自分は、相手の人格を攻撃してより深く傷つけようと頭を使っている……


天使の自分は生きることは楽しいが、悪魔の自分は生きることは苦しいと感じる……





神様はなぜ、人間に天使の部分だけを与えなかったのだろう?




悪魔の自分がいる事を知ることで、どんな状況でも謙虚な気持ちになりなさいという戒めのためだろうか?


悪魔の自分が少なくなったり、顔を出さなくなることを成長と呼ぶのだろうか?


悪魔に自分の誘惑に打ち勝つことを克己心というのだろうか?





「馬鹿とはさみは使いよう」ということわざがあるが、悪魔の存在も使い方で意味と価値のあることなのだろうか?




悪魔の自分を受け入れて共存していくのが正しい生き方なのだろうか?






悪魔の存在にも何かの意味があるのだろうか?