商品とサービスの関係

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久しぶりに最低のサービスを受ける機会がありました。

もしかすると、その会社はいい商品を扱っているのかもしれないですが、そのサービスぶりがあまりにもひどくて、「このサービスでよくつぶれないなぁ~」と感じてしまいました。

本当にその商品には自信があったのかどうかは、最終的に商品を購入していないからはっきりしないですが、もしも商品は最高のものだとしても……。

 

例えると、「提供する食事には絶対の自信があるから、きめ細かなサービスまでする必要がない」とか「治療技術は日本屈指のレベルなのだからその他のことは我慢してくれ」と言っているのと同じように感じました。

 

商品とサービスの関係っていつも考えさせられます。

商品とサービスのどっちの方が大切かと言われれば、それはケースバイケースだと思います。

例えば、ガンのように命に係わる治療であれば、サービスよりも手術の成功率がすべてだと思います。

商品とサービスは比較するものではなく、どちらも大切だが、商品に自信があるとついついサービスに甘えが生じやすくなってくるし、逆に、サービスが最高なら商品は普通でもいいかという甘えも出やすくなるのだと思います。

 

今の時代は、今現在は最高の商品も、1,2年後には普通の商品になってしまいます。

最高と思われるサービスも、周りが同じことを始めれば普通のサービスに成り下がってしまいます。

商品もサービスも気を抜いた瞬間に普通になってしまうのだと思います。

どちらも大切だが、どちらにより力を入れるかは、最終的にお客さんはどちらをより望んでいるのか、自分の会社が目指す方向性やビジョンは何なのかで、自然と決まっていくものだと思います。

 

もちろんどちらも大切だが、時間も資源も人も限られている以上、限られた条件の中でどこまで目指すかでお客様に選ばれるかどうかが決まってくるような気がします。

最終的に、決めるのはお店でなくてお客さんなんだと思います。

 

 

 

「お客様は神様です」と演歌歌手の三波春夫さんが言いました。

若い時に、外国人の知り合いが「Customer is always right.」と教えてくれました。

スターバックスには Just Say Yes といったポリシーがあるそうです。

 

一方、年々クレーマーが巨大化してきているということが、日々ニュースに取り上げられます。

 

「サービスされる人(お客)とサービスする人の理想の関係って何なんだろう??」と考えることがあります。

 

お金を払う人が上で、お金をいただく人が下なのであろうか?

お金を払うのだから、気持ちよく対応してもらう権利があるのだろうか?

お金をいただくことは、従順になる義務を含んでいるのだろうか?

 

ポイントは「お金」なのだろうか?

お金をいただく以上は、できない我慢をすることが仕事の難しさなのだろうか?

 

「お金」を払う人が威張る権利があって、お金をもらう人が下手に出る義務があるのだとしたら、給料を払う人が威張って、給料をもらう人はへつらうのが普通なのだろうか?

最近の求人難では、決してその原理は当てはまらない公式だ(笑)

 

雇い主と雇われる人との理想的な関係は「働いてくれてありがとう、働かせていただいてありがとう」で、最悪の関係が「雇ってやっているのに、なんだその態度は…、(安い給料で)働いてやっているのに感謝の気持ちのかけらもないのか…」だろう。(笑)

そう考える、お店の人とお客との理想的な関係は「買っていただいてありがとう、売っていただいてありがとう」で、最悪の関係が「お客だと思って偉そうにしやがって……、買ってやったのになんだその態度は…」ではないか……(笑)

頭を下げる下げないとか、どっちが上か下という問題ではなく、お互いに相手をリスペクトする必要があるのではないか?

 

昔の物質優先の価値観では、お店とお客の上下的な関係において「お金」は重要なファクターだった気がするが、最近の価値観では「お金」のために威張ったりへつらう関係になることは、特に若い人には受け入れがたくなってきているような気がします。

今の時代の日本のような恵まれた環境では、お金のために頭を下げるということが昔ほどは受け入れにくい人が多いのではないかと感じます。

 

いろんなお店で接客を受ける時に、どちらがお客さんかわからないような横柄な態度をとる店員さんもたまにいます。

こういう人は仕事に対しての向き合い方が何か違うような気がします。

働く人からすれば、仕事は、生活をしていくための給料をもらうためにします。

しかし、人間的な成長という視点からすると、仕事の時ぐらい他人に奉仕したり、自分を抑えなければ、人は無意識に生きてしまい、傲慢になったり自分勝手な勘違い人間になってしまいます。

人間誰しも大なり小なりプライドがあります。

仕事とはいえ、納得できないことに頭を下げたり、自分の感情を押し殺すことはストレスですし受け入れがたいことです。

 

人は「幸せになる為に生きている」のであれば、幸せになる為には「感謝する気持ち」「相手を尊重する気持ち」「自分への執着を手放す努力」などは欠かせないと思います。

しかし、これらのことを日常のプライベートの生活から学ぶことは難しいのではないかと思います。

自分がお客になって売り手に感謝するよりも、自分が売り手になって相手に感謝する方がより心がこもるし、自分が売り手の時に、お客に嫌な対応をされて自分の感情を押し殺しても相手の満足のために頑張ることで「自分への執着を手放す」修行になってくるように思います。

 

お給料をもらっているから、相手がお金を払っているから、プライベートではできないような我慢をしないといけないと考えるのか?

それとも、仕事の時ぐらい自分を律した言動をしなければ、いつ自分を律することが出来るのか?!と考えるのかで、やらされている感と自主的感が違ってくると思います。

 

自分はお給料のために卑屈になっていると考えるのではなく、自分の成長のために自分から好んで自分を律しているんだと思えれば、「今日も利己的な自分、自分勝手な自分を律することが出来た!!」と成長を実感できるのではないかと思います。

そう考えれば、相手が自分のお客さんになろうとなるまいと、支払われるお金の金額の大小にかかわらず、相手に誠意を尽くしたり気持ちよく対応することが自分事になってくるのではないでしょうか?

 

逆に、お客さんに対して横柄な態度をとっている人を見れば、お客さんに対してさえ自分を律することが出来ないこの人は、今後どんな不幸な人生を歩んでいくのだろうかと思えて、腹が立つのではなくその人に対して同情の気持ちが芽生えてくるのではないだろうか?

嫌々やらされていることは、被害者意識が芽生えて得るものも少ないですが、自分の意志でやっていると思えた時にそこから学ぶことが出来るのだと思います。

 

仕事を頑張る理由の一つが、自分が勘違い人間にならないため、傲慢な人間にならないため、自分への執着を手放すため、等々……

仕事だと思えるから、普段できない我慢もできるし、自分の感情をコントロールできることも可能になってくる気がします。

 

仕事って無意識でやってはいけないのです。

無意識はプライベートで十分です。

「憂鬱でなければ仕事でない」と幻冬舎の社長が言っていましたが、仕事がしんどいのは意識して仕事することで、自分をどこまで律することが出来るのかに挑戦するのが仕事の意味と価値のような気がします。

 

仕事で嫌なことがあっても、そのことを受け入れるのも、お寺で座禅を組んだり滝に打たれるのも、やらされているのではなく、全ては自分を成長させるための手段だと考えれば、前向きに受け止め成長するチャンスになるのではないかと思います。

 

 

判断vs決断

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トップの仕事は「決断」していくことだと言われています。

元プロ野球監督の野村克也さんが「コーチがするのは「判断」で、監督がするのは「決断」だ」と言われていました。

 

「判断と決断」

 

普段は、特に意識してこれらの言葉を使用したりはしませんが、言われてみると「判断」と「決断」には大きな違いがあると気づきます。

判断はまだ変えられるが、決断したらあとは進むしかありません。

 

ある人の言葉に、「上司がする判断は、剣道で例えれば、竹刀や木刀での試合だが、トップのする決断は、死ぬか生きるかの真剣での試合のようなものだ。」と言われていました。

 

それだけトップの人の決断には、大きな責任がかかっているのだと思います。

よく「企業はトップの器以上には大きくならない」と言われますが、トップの決断の連続で企業の未来は決まってくるのです。

 

野村監督のような偉大な監督でも、全ての決断で正しい決断をしていくことはできないでしょう。

安倍首相は自分の決断で、国民の未来がかかってきます。

そのプレッシャーたるや私には想像できないぐらい大きいと思います。

 

どんな決断にも、いろんな可能性が秘められているので、何かを決断した時点では、その決断が正しいかどうかは誰にもわかりません。

それでもトップは、決断をしていかなければ前に進めなくなります。

 

「企業はトップの器以上には大きくならない」と言われる「器」って何なんだろう!?と考えると、正しいか間違っているかわからない決断を下していく際の「胆力」のことではないかと思います。

 

何かを決断する際に、必ず、その決断への反論、批判、攻撃があります。

そうマイナスの言動に対して、どこまで耐えれるか、どこまで信念を貫き通せるかということを、「その人の器」と呼ぶのではないかと思います。

人間は、自分を受け入れられればうれしいですし、自分を否定させれば悲しくなります。

自分を否定された状況で、自分と向き合い、自分の決断が正しかったのかどうかを自分に問い続けていくことで器が大きくなっていくのだと思います。

 

「地位が人を育てる」と言われますが、地位が上になればなるほど、決断を迫られる状況が増えてきます。

他人から批判されたくなければ、決断することから逃げるようになります。

一方、批判も覚悟のうえで決断していくことでその人の器が大きくなっていくのだと思います。

 

芸能人や政治家など、影響力が強くなると同じように風当たりも強くなってきます。

人は「いいとこどり」はできません。()

周りに対して(認めてほしいと)影響力を持ちたいのであれば、風当たりにも耐えれる訓練をしていく準備が必要なんだと思います。

 

 

私は、人間は自分なりの「頑張る理由」がなければ、継続的には頑張れない生き物ではないかと思っています。

意志の力だけで自分をコントとロールすることは、簡単ではないのではないでしょうか。

 

そう思うと一番影響を受けやすいのは周りからの「環境の力」ではないかと思っています。

「今自分は頑張っているんだ!」という思いは、なかなか継続しにくいものです。

一方、「自分は普通のことをしているだけだ!」と思う事は簡単に継続できます。

 

例えば、歯科関係者の多くは、当たり前のようにデンタルフロスを使用しています。

歯科関係者にとって、フロスを使用することは「大変なこと」ではなく「当たり前のこと」だから、頑張っているのではなく、歯ブラシをすることの延長線上にあるレベルのことなのだ。

プロ野球の選手が1日に何万回も素振りをする姿を見て、周りの人は「頑張っているな~」と感心しても、プロ野球の選手を目指す人にとっては、それぐらいの当たり前のことをしている行為を「頑張っている!」と思うような人はプロの選手にはなれないのです。

経営者になれば、24時間仕事のことを考えているのは「当たり前」のことですが、サラリーマンでオンとオフを使い分けている人からすると、24時間仕事のことを考えるなんて「大変だね!」と感じられるみたいです。()

 

自分のしていることを「大変なこと」と思うのか「当たり前のこと」と思うのかで、継続できるかどうかが決まってくるように感じます。

自分がすることを「普通のこと」「大したことではない」と感じる一番簡単な方法は、そういう環境に身を置いていくことだと思います。

 

「類は友を呼ぶ」という諺がありますが、似た者どうしでは、普通や当たり前が多いので、一緒にいて楽なのです。

不平不満が日常の人にとっては、頑張る人と一緒にいると疲れるのです。

逆に、プラス思考の人がマイナス思考の人と話していると普段の何倍も疲れてしまうのです。

 

クリニックを運営していて、仲間、同僚の存在で、頑張ることが「普通」のクリニックなのか、不平不満を言うことが「普通」のクリニックかで、クリニックの社員レベルが決まってきます。

 

「悪貨は良貨を駆逐する」という諺がありますが、人というのはいい影響よりも悪い影響の方が何倍も受けやすいものなのです。

前向きな言葉をかけるよりも、不平不満を述べる人の方が影響力があるものなのです。

無意識で生きれば、誰しも不平不満や言い訳をして楽に生きていきたいのを、意識して前向きに生きているのに、安易にマイナスの言動を目にすれば「自分も楽になりたい!!」と流されるのが人間なんだと思います。

だからこそ、社員の中でネガティブな人や不平不満や言い訳が常の人は排除していかなければいけないと思っています。

そして、周りにプラスの影響を与える人を増やしていかなければなりません。

 

トップの使命は、その環境にとっての「当たり前のレベル」を上げていくことではないかと思います。

 

 

 

 

 

人は自分が一番かわいいように作られている。

どんなに悟った人でも、無意識では自分が一番大切な存在なのだ。

 

「自分よりも他人の方が大事だ」という人は「偽善者」だと思う。

「自分も大事だが、自分と同じように他人も大事に考えたい」というのが、人間の目指す方向性ではないだろうか?

 

だからこそ、子供の時や若い時にはがむしゃらに自分のために頑張るべきだ。

自分のために頑張れない人は、他人のためには頑張れない。

まずは自分の成長のために力をつけて、その力をどう使っていくかは、年齢を重ねていって方向転換していけばいいのだ。

 

少年は、プロ野球の選手を目指して頑張るが、プロ野球の選手になってファンに夢を与えることが出来るのは、一般的には、試合に出れる1軍の選手だ。(中には例外もあるが…)

2軍にいて、「ファンに夢を与えるぞ!」と考える前に、自分が1軍に上がるための努力をするべきだ。

 

自分の持っているパンを困っている他人に分け与えてあげたいのなら、まずは自分がパンを得なければならない。

パンを1個しか持っていない人は、その半分を他人にあげることは至難の業だ。

パンを5個持てば、困っている人がいれば「1個ぐらいは他人にも分けてあげようかな~」という気持ちが出てくるものだ。

そのパンが10個になれば、他人に分け与えていく葛藤も少し楽になってくるものだ(もちろん例外はあるが……)

 

人間の幸せは、他人に認められたり、必要にされたり、喜んでもらうことにあると思う。

幸せは他人とのかかわりなしには存在しないと確信しています。

いつかは他人の力になりたいのであれば、まずは自分のために頑張る時期を経験する必要があるのです。

 

「自分が頑張ることが、他人の力になり、社会の役に立つ」というのが好循環であって、自分が犠牲になって他人に喜ばれることがあったとしても、そういう自己犠牲では継続していくことが出来なくなってしまうので、自分を大切にすることと他人を大切にすることはセットで考えるべきなのではないかと思います。

 

ジェームスアレンの「原因と結果の法則」という長年にわたるベストセラーの本があります。

 

その本では、

「今、目の前に起きていることは、すべて過去に自分が蒔いた種の芽が出てきたものである。

すべての現実は起こるべくして起こっているのである。」

ということを書かれています。

 

人は物事が思うように運んでいかない時に、原因を他人や環境や運命のせいにしようとします。

他人や環境など自分がコントロールできないことに原因を求めれば、自分は一切変わらなくていい、努力しなくていいので楽なのです。

一方、起こることはすべて、これまでの自分の生き方、考え方に起因していると考えれば、少しずつでも自分が変わっていくしかありません。

 

長年、仕事を通じていろんな人と付き合って感じることは、成長する人は素直だということです。

素直とは自分に矢印を向けようとする人のことだと思います。

 

何か注意したり、指摘するとすぐに言い訳をしてくる人は、「自分には責任がない!」「自分は変わるつもりはない!」ということをアピールしていることになります。

言い訳すれば、その場はどうにか逃れることができます。

しかし、自分の中の本来の根本原因を解決していないのですから、また同じような問題に直面することになります。

 

そういう失敗を何回か繰り返したときに「あれ!?同じことが何度も繰り返すのは、もしかしたら自分が変わるしかないのだろうか!?」ということに自分で気づくまで、人は変われません。

他人から指摘されるのではなく、自分の中で「原因は自分の中にある」ということに気づくまで、神様は根気強く同じ問題をその人に投げかけます。

人間界の相手には言い訳をして対処療法で逃げ切ることができても、天の上の神様はその人のことを思って根気強く、本来の原因に気づかせようとします。

 

人の一生は、魂の成長というジグソーパズルを埋めていく作業で、神様は問題という形でジクソーパズルのピースを私たちに渡し続けます。

ピースを渡されても「これは自分のところに合うピースではありません」といって神様にピースを突き返しても、私たちがそのピースの当てはまる個所を見つけるまで、神様は笑顔で同じピースを渡し続けます。

 

また、神様はチャンスを試練というお面をかぶらせて私たちにプレゼントしてくる、とも言われています。

ピースにしろチャンスにしろ、「原因は自分の中にあるかも!?」という謙虚な気持ちを持たなければ、この世は苦労の絶えない地獄に見えてしまいます。

 

全てのことは自己責任。

全てのことには原因があって結果がある。

自分の人生のシナリオはすべて生まれてくる前の自分自身で脚本したものだ。

ということを信じることで、言い訳をせずに自分に矢印を向けるようになってくるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 不幸になるのは簡単だ。自分が持っていないものに目を向ければいいだけだから。

逆に

幸せになるのも簡単だ。自分が持っていることに気づけばいいだけだから。

  

 

私はこのセリフが大好きです。 

人間は無意識で生きていれば、自分が持っていないものを見つけようとして「不幸な生き方」をしてしまいます。

人は『幸せになる為にこの世に生まれている』のだとしたら、人生を通じて自分が持っているものに気づく練習をしていかなければならないのだと思います。

「灯台元暮らし」と言われますが、自分が持っていないものには意識が向きますが、自分が持っているものには、当たり前すぎてなかなか気づかないものです。

 

自分が持っていないものを求め続ければ、「不幸せな一生」になってしまいます。

幸せになりたければ、意識して自分が持っているものの価値に気づくしかありません。

 

鳥は空気の存在に気づかないし、魚は水の存在に気づいていないと思います。

生まれつきあるものには気づきにくく、失ったときにはじめて自分が持っていたことに気づくものです。

健康や髪の毛や張りのある肌などと同じかもしれません(笑)

失って初めて持っていた有り難さに気づくように思います。

 

そうはいっても、失って初めて感謝するのでは、幸せになれないように感じます。

失う前に感謝するには………日々の毎日から「当たり前」の閾値を下げる生き方をしていく生き方や考え方をしていかなければならないと思います。

「当たり前」と思うレベルを下げていくことが、自分がすでに持っていることに気づき、感謝する機会が増えてくるのだと思います。

「当たり前」閾値を下げるには、日々の一瞬一瞬を精一杯生きることが大切だと思います。

 

 

人は必死で生きている時には、余計なことを考えなくなりますが、下手に余裕があるとマイナスのことを考え、ないものを探し始めるような気がします。

日々、必死に生きていくことが、感謝する習慣を身に着ける一番の近道のように感じています。

 

 

 

 「人生の質はコミュニケーションの質と比例する」ということを聞いたことがあります。

人生の質とは、簡単に言うと「幸せ感」だと解釈しています。

コミュニケーションの質が充実している人ほど幸せだということだと思っています。 

コミュニケーションには下記の3種類があると言われています。

  1. 言った人は気持ちがいいが、相手が嫌な気分になる

  2. 言った人が嫌な気持ちになって、相手はいい気持ちになる

  3. 言った人も言われた人も両方がいい気持ちになる

 

  1. の例として、独り言やボヤキ、自慢話、威圧的な部下への注意、命令、等々

  2. の例として、心にもないお世辞、言うべきことを言わないで我慢する、等々

  3. 伝えることがお互いにwin-winの関係になれる。言われた人が、言った人の気持ちを理解できるコミュニケーション等々

 

人は誰しも自分のことが一番かわいいので、常に自分を守ろうという防御反応的な気持ちが働きます。

家族ならまだしも、心を許していない他人なら特に、誰かの言動が、自分を攻撃してくるのではないか?という恐れを抱きながら生活しています。

 

信頼関係が出来ている人の間では、言葉の中の「意味と価値」を省いても誤解が生じない場合もあります。

究極的には、長い夫婦関係で暗黙の了解で「アレ」「コレ」だけで意味が通じることもあります。(笑)

信頼関係が構築されていて、「この人が自分を攻撃してくるはずがない!」という安心感があれば、言葉を省略しても意思疎通ができるのかもしれません。

 

しかし、多くの人間関係では、そこまでの信頼関係が出来ている場合の方が稀なのではないでしょうか?

「信頼関係が築けている」と思うことは大切なことなのかもしれませんが、それを相手に求めると、誤解の原因になってしまします。

自分が相手を信頼することは自分の意志でできます。

しかし、相手が自分を信用していると思うことは過信につながってしまいます。

 

相手も自分のことを信用してくれていると思えば、どうしてもコミュニケーションの手抜きをしてしまいますが、相手の信用を損ねていかないためにも、相手が自分のことを完全には信用していない、と思うぐらいの気持ちでコミュニケーションしていくことが信頼関係の維持には必要なのかもしれません。

夫婦や親友との関係においても、「信頼関係が築けている」と思う過信が少しづつコミュニケーションの省略に結びつき、誤解が生じることもあるのではないかと思います。

 

 

コミュニケーションの質とは、「何をするか?よりも何のためにするか?」「何を言うか?よりもなぜそういうか?」に意識を向けていくことではないかと思います。

 

 

 

 

感謝の種類

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少し前に、「頑張りたいけど何を頑張ればいいのかわからない」、「何のために頑張っているのかしっくりこない」、等仕事に対してマンネリ化的な気持ちが続いていました。

そんな時に、スタッフに感謝すべき大きな出来事がいくつかありました。

 

最近、自分の中で、「幸せとは感謝している時のことを言う」ということを意識しているのですが、スタッフに感謝するべき出来事があって、スタッフのお陰で自分は感謝出来て幸せを感じさせてもらっていると思った時に、そのスタッフのことがすごく大切な存在に思えてきました。

 

スタッフあってのクリニックなので、意識的にスタッフに感謝していこうということは心掛けているつもりなのですが、ついつい意識していない時は、「自分中心な利己的な考え方をしているなぁ~」と反省していく毎日です。

 

学生時代は人間関係が苦痛でした()

若い時には、優越感を競い合うような生き方が中心でしたし、ほぼ100%無意識で本能的に自分中心的に生きていたからだと思っています。

今でも無意識的には、自分中心になりがちですが、自分中心で生きていく向こう側には幸せは存在しないと思い始めたので、意識をして感謝して生きる割合が年々増えてきている気がします。

 

感謝の種類にもHaving Doing Beingの3種類があります。

Havingとして、人から何かをもらえればうれしくて誰でも感謝の気持ちになるでしょう()

次に、Doingとして誰かに何かをしてもらえれば、やはり感謝の気持ちは自然と湧き上がってきます。

しかし、HavingDoingは、即効性があり、感謝の気持ちが湧きやすいですが、いつもこれらを期待していると逆に満たされない気持ちが強くなって不幸になってしまいます。

 

最終的な幸せは、お互いが「あなたがいてくれるだけでありがたい!!」というBeingの存在でありたいと思います。

 

これは相手に対してだけでなく、自分に対して自己肯定感を持つために、お金やブランド品を持っているから(Having)とか、自分は英語が話せるからとか何かで認められたから(Doing)自分に自信がある、という自己肯定感では、自分より持っていない(Having)人や、行っていない(Doing)人がいなければ、自信が保てなくなります。

それでは、自己肯定感という名の優越感をもつことになります。

優越感とは、HavingDoingは誰かと比較した時に持つもので、相手によっては劣等感にひっくり返ってしまいます。

 

本当の自己肯定感というのは、相手に左右されるのではなく、自分に対して自分の負の部分を認めて受け入れたうえで、自分の存在Beingに価値を見出すことだと思います。

 

同様に相手に感謝するレベルの最高峰は、HavingDoingをしてもらったからではなく、「あなたが存在してくれているだけで幸せだ!!」と思える存在になることのような気がします。

 

これって恋愛では特に意識することかもしれませんが、家族やスタッフ、お客様等恋愛以外の場所でもたくさん感じれる人生が幸せな人生と言えるような気がします。

 

恋愛や家族ではそう感じられる人数には限りがありますが、仕事を通じてそういう存在が増えていけばいくほど、幸せで充実した人生だったと思えるのではないかと思います。

(学校の先生をイメージすると分かりやすいかなぁーと思います)

 

人間関係は面倒だし信頼関係を構築するのに時間がかかりますが、人間関係からしか幸せはやってこないとしたら、そこにエネルギーをかけていくしかないように思います。

 

 

感情ファースト

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久しぶりのブログの更新になりました.

申し訳ありません。

 

頭の中では「早く書かなければ!!」と焦っていたのですが、どうしても何も書けませんでした😢

 

日常にあった事実を書くだけなら何か書けたのかもしれませんが、そんなものは誰も読みたくないのではと思うと、自分の心が動かなければ何も書けないことに気づきました。

 

何か出来事があって、「私の心が動いてこう感じました。皆さんはどう思いますか?」

というのが、私がブログを書いたり朝礼をしている理由だと思っています。

私は神様ではないので、毎回正しいことを書いたり話したりすることはできません。

失言をして信用を失う可能性もあります。

それでも、自分の言葉で話すことに意味があると思っています。

 

「そうだな!」と思ってもらえればうれしいですが、「いや違うだろう!」と思われることも勉強になります。

相手に共感してもらえればうれしいですし、相手に違和感を感じてもらっても相手が考えるきっかけになれば、それはそれで反面教師として相手の役に立っているのではないかと思うようにしています。

 

私の言葉に違和感を感じて、その人が私を攻撃してくる恐怖もなくはないですが、その恐怖に向き合っていくことで、少しずつ勇気が養われていくのではないかと思っています。

勇気とは怖がらないことではなく、怖いけどあえて前に踏み出すことだと思っています。

 

今回ブログが更新できなくて、感じることの大切さを痛感しました。

感じることは気づくこと!!

感じたらできるだけ文章にしたり、言葉にして発信していきたいと感じました。