私の好きな作家に曽野綾子さん、佐藤愛子さんがいます。

彼女たちの小説は読んだことがありませんが(失礼!)、彼女らのエッセイを読んで、彼女らの考え方にすごく共感できます。

二入りとも、社会や周りに期待しない、全てのことは自己責任、人間生きてるだけで丸儲けのような考え方に勇気づけられます。

日本のように恵まれた国で生活していますと、色んな事に「もっと、もっと!!」という欲求が芽生えてきます。

幸せというのはどれだけ喜べるか、どれだけ感謝できるか、ということのように思います。

喜んだり感謝するためには、比較対象が何になるかで違ってくると思います。

 

以前、体操の内村選手が、全日本個人総合選手権で11連覇が途絶えた後の試合で勝った時に、「勝つことが当たり前になっていたので、久しぶりに勝てて勝つ喜びを忘れていて、今すごくうれしい!!」というようなコメントをされていました。

日々大変な努力をされていても、勝つことが当たり前になってしまうと喜びよりも、当たり前のノルマのような感覚になってしまうんだと「大変だなぁ~」と思ったことがあります。

 

美味しい食べ物を初めて食べた時の感動はその時だけで、2回目3回目を食べるにしたがって感動は薄まってきて、最終的にその味が標準になり、おいしくない料理が増えていくのだと思います。

恵まれない時代には「もっと、もっと!!」という要求が「頑張る源泉」になっていたのだと思いますが、今のような恵まれた時代では、自分の平均レベル(普通)を下げることで幸せ感や感謝する気持ちを芽生えやすくしていくしかないような気がします。

それはある意味、上を目指すことよりも難しいことかもしれません。

ボランティア活動や他人のために役に立つということが注目されているのは、今の時代には必然のことのような気がします。

 

曽野綾子さんや佐藤愛子さんらが歯に衣着せないで、誤解を恐れず人間の本質をビシッと言ってくれていることはすごく気持ちがいいものですが、本音を言うとたたかれやすい日本ではすごく勇気がいることだと思います。

彼女らの本がベストセラーになるということは、多くの人が心で思っていても口に出せないことを彼女が代弁してくれているという共感の気持ちがあるからなのかと思います。

 

自分も彼女らのような人生観を持てるように生きていきたいと思います。

 

彼女らのお勧め対談です。

https://www.youtube.com/watch?v=bC4wR6w6Z6E&t=2454s  

https://www.youtube.com/watch?v=unS0CdqqltU  

 

 

人が成長していくためには「自分と向き合う」時間が必要だと思います。

 

「自分と向き合う」という言葉はよく耳にしますが、どうすれば自分と向き合えるのか、そもそも「自分と向き合う」とはどういうことなのかを自分の中で定義しなければ、「自分と向き合う」ということが言葉の遊びになってしまいます。

 

私の中で「自分と向き合う」というのは、自分の中の弱い部分、ズルい部分、汚い部分など普段目を背けているところをじっくり見ていくことではないかと思います。

 

殆どの人間は、自分は善人でもないけど悪人でもない普通の人間であって、「どちらかというといい人だ!」ぐらいに思っています(笑)

 

しかし、何か自分の身に不幸が起こったり、予期せぬことが起きてしまうと、人間の本能の弱い「エゴ」の部分が露呈されてしまいます。

そんな時に、「人間ってそういうものだ!」と簡単にスルーしてしまうのか、自分の弱い「エゴ」部分を見つめて深く受け入れていくのかで、その人の人間力に差がついてくるのだと思います。

 

人間には性善説と性悪説がありますが、「人は生まれつき弱い生き物だ」という性弱説が正しいような気もします(笑)

弱いからダメなのではなく、弱い部分を認めながら一生懸命生きていくのが正しい生き方なのではないかと思います。

 

自分のことを好きになるというのは、着飾った自分のかっこいい部分だけを好きになるのではなく、自分の弱い「エゴ」の部分を認めながら、そこを改善しようとしている自分を含めて好きになることで本当の自分を受け入れることが出来るのだと思います。

 

 

 

 

 

私はクリニックのトップなので、開業してからこれまでに、真面目に仕事している社員から「○×さんにビシッと注意して変わるように言ってください!!」というリクエストを受けることが多々ありました。

 

クリニックの院長といっても、クリニック内の全てのことを把握しているわけではないので、仕事のできる真面目な社員から問題がある社員の改善点を指摘されると、すべての社員にできる人になって欲しいから、出来ない人にビシッと注意してきました。(笑)

「やっぱり院長がビシッと注意してから○×さんは変わりました!」というようなことを言われて、勘違いしていい気になっていた時期がありました。(笑)

 

しかし、院長を26年やってきたり、子育てをした経験から、私が「ピシッ!」と言ったくらいで相手が変わることはない、と思うようになってきました。

変わったように見えるとしたら、また怒られると怖いから変わったふりをしているだけではないかと思うようになってきました。

 

院長だからとか父親だからとか、力で相手を抑えても決して相手は変わらない、と信じるようになってきました。

人は誰かによって変わるのではなく、自分で変わりたい、変わるしかない、と自分で気づいた時にしか変われないと思っています。

 

かといって、歯科医院のトップとして、注意するべき状況を見てみないふりをすることはできませんので、そんな時に、注意するのは、相手を変えようと思って注意しているわけではなく、周りのスタッフとの信頼関係を損なわないために、注意するべき状況では注意している気かがします。

 

力づくで相手を変えることはできないが、相手が変わりたくなるきっかけやヒントを伝えていくことは、トップとしてやっていかなければならないと思います。

例えきっかけやヒントを提示しても、それを受け入れるか受け入れないかは本人が決めることです。

水飲み場に連れていくことはできても、水を飲むかどうかを決めるのは本人の意志であって、他人が無理やり水を飲ませることはできないのと一緒です。

 

人は自分で気づくまでは、同じ失敗を繰り返し続けるのだと思います。

教育とは、相手が気づくまでヒントを出し続ける気の遠くなるような行為のことなのかもしれません。

 

 

 

気づく

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自分の価値観や先入観を変えていく第一のステップは「気づく」事だと思っています。

 

社員と面談をしていて、入社して3年以上の社員に「貴方はマンネリ化していますか?」と質問するとほとんどすべての社員が「マンネリ化していません」と答えます。

確かに、上司から「マンネリ化していますか?」と聞かれて「ハイ!今マンネリ化しています!」と答えたらクビになるかもしれませんから(笑)そんなことを答える社員はいないと思います。

でもここで、自分の中で「マンネリ化してる」と感じる人と「マンネリ化していない」と感じる人ではどちらが成長するのかな~?と考えることがあります。

「マンネリ化していない」と思っている方は、今の現状を変えなくてもいいですが、「マンネリ化している」と感じている人の中には、どうすれば今のマンネリ化から脱却できるかということを真剣に考える人もいるのではないでしょうか?

その方法として、職場を変えるのか、自分の仕事の内容をレベルアップさせるのか、仕事のやり方を工夫するのかなど、何らかの行動に出る人も出てきます。

まずは、自分がマンネリ化していることに気づいたら、日々同じようなことをしていないかを反省するきっかけになります。

 

ソクラテスの言葉に「無知の知」という言葉があります。

その言葉の意味は

『無知であるということを知っているという時点で、相手より優れていると考えること。また同時に真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まるということ』

 

自分は「できている!」と思った時点で努力しなくなります。

自分は「いい人間だ」と思った瞬間にそれ以上良い人間になろうとは努力しなくなるような気がします。

 

自分の目指す場所によって、現状に満足するのか、足らない部分に気づくのかが違ってくるような気がします。

 

「無知の知」

「知らないこと」を恥ずかしいと思うのではなく、「知っている」と満足していることを恥ずかしいと思う生き方をしたいものです。

 

 

 

クレームはチャンス!!

テーマ:

当クリニックでは、「クレームから逃げない!」「クレームを次に活かす!」ということをテーマに話し合うことがあります。

 

 人ならだれでも、クレームをもらえばへこみますし逃げたくなります。

しかし、クレームほどその人を成長させてくれるチャンスはないと思っています。

クレームはピンチではなくチャンスなのです。

もちろん、クレームにつながるような言動は行わないように細心の注意を払う必要はありますが、それでもクレームになってしまった場合には、全力でクレームと向き合うべきだと思っています。

 

人はなかなか変わることが出来ない生き物です。

痛い目に合わないと現状維持で満足してしまいます。

だからこそクレームをもらった時には、自分を変えるチャンスなのです。

 

知識では人は変わりません。

気づけば人は変わります。

気づきが知恵になります。

知識は感情が動かなくても記憶できますが、気づくためには心が動かなければなりません。

感情が動くことで深く気づけるのです。

 

嫌なこと、望まないことが起これば嫌でも感情が発動します。

その感情を後ろ向きなエネルギーにするのか、前向きなエネルギーにするのかで未来が違ってきます。

 怖いから逃げる。

 嫌な現実から目を背ける。

 これは人間の本能です。

 無意識で生きればそういう行動になります。

 

 しかし、未来を明るくしたいのであれば、感情に流されて無意識で行動してはいけません。

怖いからこそ向かっていく。

嫌なことこそ向き合う。

 この繰り返しで少しずつ、勇気と知恵が身につくのだと思います。

マザーテレサが言うように、人生を変えたければ、習慣や考え方を変えるしかありません。

 

当クリニックの社員の意識が高いのは、クレームと前向きに向き合える社員が多いからではないかと思っています。

 

 

 

 学校の勉強には正解がありました。

 

社会に出てからは、何が正解かわからないことがたくさんあります。

自分が正しいと思っていても折れないといけないこともあります。

正しさを追求すれば、最終的には衝突して大きなひずみが生じます。

人間は正しいから納得するわけではありません。

その人が感情的になっていれば、事実を捻じ曲げてでも自分を正当化してきます。

また、何が正しいかは、それぞれの立場や、フォーカスの当て方によっても違ってきます。

 

世の中には理不尽なことがいっぱいあります。

 

もしかしたら、私が理不尽なことを言ったとしても、耐えてくれているスタッフがいるかもしれません。(笑)

たとえそうだとしても、決して私が理不尽なことを言うたびにスタッフが辞めていくわけではありません。

きっと我慢してくれているのだと思います!!(笑)

 

理不尽とは「道理に合わないこと」という意味で、自分の道理に合わなければ自分が理不尽と感じ、相手の道理に合わなくても相手が理不尽と感じています。

 

世の中には、案外、お互いが納得することの方が少ないのかもしれません。

お互いが理不尽に感じている時に、お互いの正しさを議論しあっても決して解決はしないし、溝が深くなるだけだと思います。

 

理不尽の対処方法として、妥協したり、折り合いをつけることがあります。

そういう際にも、お互いが5分5分で妥協できれば理想ですが、現実には7:3とか8:2とか、妥協というよりはどちらかが我慢していることが多いのが世の常のように感じます。

 

 理不尽なことがあった時には、相手に妥協するのではなく、自分自身の感情とどう折り合いをつけて納得するかということが、最終的な着地点のような気がします。

 

 自分にとって譲れないことは何なのか、大切にすべきことは何なのか、そういうことを考えながら折り合いをつけていくことで自分の「軸」が形成されてくるような気がします。

 

 世の中から理不尽をなくすことが出来ない以上、理不尽に対する自分の受け止め方を持っておくことは生きていくうえで、不可欠なことのような気がします。

 

 

西日本豪雨に際して

テーマ:

西日本の集中豪雨で多くの地域が被害を受けています。

 

私の地元広島の呉でも連日のように被害が報道されています。

 

 数日前に、私が想像していた以上に被害は大きいように感じます。

 

当たり前の見慣れた風景が、全然別の風景に変わってしまっていました。

 

「広島は山も海も身近にあって恵まれているなぁ」と思っていましたが、こういう状況になると海や山などが凶器に変わるんだと思い知らされました。

 

日常の何気ない毎日に刺激が欲しくなる時がありますが、今回の様な事があると、何も起きない平凡な日常のありがたさが身にしみます。

 

色んな事が当たり前ではないことに気づかされますが、こういう状況ではとにかく祈ることしかできない無力さを感じます。

 

私の身近な人々もいろんな不便を強いられて乗り切ろうと頑張られています。

 

被害にあっていない私などからは、軽々しい言葉はかけられませんが、精神的にも物理的にも、一日も早い回復を祈るばかりです。

 

合掌

 

決断と後悔

テーマ:

広島の大雨の影響で、広島から東京に移動できなくて、患者さまや東京のスタッフに多大なご迷惑をおかけしたことをこの場を借りてお詫びさせていただきます。

 

 

新幹線や飛行機が止まってしまうのかどうかは結果論になってしまいます。

「止まってしまうのだったら、もっと早く帰ったのに……」

「できればぎりぎりまで、予定通りのことをしていたい」etc

 

決断するということはリスクを伴います。

動いても動かなくてもリスクはあります。

そしてどうしても結果から「あーしておけばよかった」、「こーしといた方が正解だった」と後悔してしまいます。

 

結果は誰にもコントロールできません。

自分でコントロールできるのは、その決断に至るまでのプロセスの考え方と、起こってしまったことに対する誠心誠意の後始末だけだと思います。

 

「プロセスの考え方」として自分の決断には、私利私欲がなかったか!?損か得かよりも正しいか正しくないかと考えたか?!たとえ結果が思う方向に行かなくても、そういう決断までの考え方で、自分の中での後悔を最小限に抑えられるか?等十分に考えつくしたうえで決断したのか?ということが大切なんだと思います。

どんな結果が出ても必ず後悔はあると思います。

プロセスとして決断の考え方が変えられないものであれば、あとは起こってしまったことに対して全力で後始末をしていくしかありません。

 

人間関係において、「あの人がしたことなら仕方がないか」「あの人の為なら協力しよう」と思ってもらえる「信頼貯金」を蓄えていくことは、どうにもできない出来事に対する自責の念を和らげてくれる助けになります。

平時の際に「信頼貯金」をしておかなければ、有事の際に一挙に信頼関係は崩壊してしまいます。

 

しかし、お金においても人間関係においても貯金をしていくことは心に油断ができるので難しいものです。

「人は追い込まれないと頑張れない!!」というのが私の心情なので、貯金をするよりも借金を返していく方が結果的には簡単です。()

貯金はしなくても怒られませんが、借金は返さないとひどいめにあいます。()

貯金と借金返済では必死さが10倍以上違います()

 

人間関係において、「自分はこの人に借りはない」と思って貯金をしていくことは難しいですが、「自分はこの人にお世話になっている、借りがある」と思って接すれば、借りを残したまま生きていくのは生きづらいので、少しずつ借金を返していこうという言動につながってくるのだと思います。

 

親鸞聖人が「善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる。」ということを言われていますが、自分のことを善人だと思ってしまうと、「自分は他人に対して無借金だ」というスタンスで生活しますが、自分のことを悪人だと思っている人は、「自分は、周りの人や社会に対して借金がある」というスタンスで生活していけばどちらの方がより幸せになれるかということなのではないかと思います。

 

どんな決断にも後悔はつきものですが、後悔を伴う結果に感情的に流されないで、決断までの考え方と結果に対する後始末の覚悟が、決断に勇気を与えてくれることを今回の出来事から学ばさせていただきました。

 

 

 

仕事をする一番の目的は「お金」「給料」であることは否定できないでしょう。

「何のために仕事をするのですか?」と聞かれれば、「生きていくため」「生活するため」と答える人が大半だと思います。

働かなくても生活できるのであれば、無理に働かない、という人がいても不思議ではないでしょう。

 

次に「何のために学校に行くの?」と子供に聞かれたら「義務教育だから」「勉強を学ぶため」「お友達を作る為」などいくつかの理由が出てくると思います。

 

クラブ活動で、例えばバスケット部の生徒に「何のために練習しているの?」と質問すると「バスケットボールがうまくなりたいから」「レギュラーになりたいから」といった答えが多いと思います。

 

仕事において「お金」「給料」を意識しても自分でコントロールできない要素が大半です。

自分でコントロールできないことに意識を向けていると、自分でコントロールできることがおろそかになってきます。

ビジネスの世界で「仕事の報酬は仕事」という言葉があります。

ある仕事で結果を出した人には、次にもっと責任のある仕事が任せられるということです。

目の前の仕事で相手の期待以上の結果を出していけば、仕事の難易度が上がってきて結果的に「給料」上がってくるという流れです。

「自分の仕事の報酬は何か?」ということを意識していくことで仕事へのモチベーションも違ってきます。

 

学校へ行く目的も、「義務教育だから」「勉強を学ぶため」などの無意識でも頭に浮かぶ以外の、社会に出てからどう役に立つのかを伝えていくことが親や先生の役目のような気がします。

「何のために勉強するの?」にしても子供の心に響く答えを伝えていくことが大人の役目のような気がします。

 

クラブ活動にしても、最近の企業ではレギュラーで活躍していた学生よりも、控えの選手であっても前向きに向き合っていた学生の方が評価される時代みたいです。

才能に恵まれてレギュラーになった人も立派ですが、頑張ってもレギュラーになれなくても気持ちを切らさないで頑張った学生は、仕事においても思い通りにいかない状況でも根気強く頑張れる人が多いという論理らしいです。

会社としては、バスケットのうまい人を採用したいのではありません。

バスケットとどう向き合ってきたかということを見たいのだと思います。

 

仕事も学校もクラブ活動も生き方を学ぶ場所なのだと思います。

人間にとって一番大切なことは「どう生きていくか?」ということだと思います。

 

仕事も学校もクラブ活動も「目に見える報酬」と「目に見えない報酬」があります。

「目に見える報酬」にばかり目を向けていると生きるのがつらくなりがちです。

本当の宝物は「目に見えない報酬」の中にあるのだと思います。

 

サンテグジュペリの「星の王子様」の「本当に大切なものは目では見えない」という言葉を、こんなところでも思い出してしまいます。

 

 

 

 

生きがいについて

テーマ:

YouTubeで無期懲役の受刑者の特集をしていました。

一生服役する人にとっての「生きがい」について考えさせられました。

 

私の中で夢や希望や目標などがなければ、生きるのはしんどいと思っています。

「こうなりたい」「これを手にしたい」「誰かに認められたい」etc等々

 

今の平和な時代において、人にとって一番しんどいことは「生きるために生きる」ことだと思っています。

戦時中や生きることが奇跡的であったり大変な時代においては、「生き抜くために生きる」ことが目標になる時もあったと思います。

そんな時代でも夢や目標等のある人とない人とでは、生き方に大きな違いがあったことと思います。

 

ナチスのユダヤ迫害についてのベストセラー本の「夜と霧」の中で、未来に夢や希望を持てなかった人から死んでいったと書かれていました。

あの過酷な状況下においても、作者のフランクルは自分の体験を本にするという「希望」が生き抜く原動力だったと書かれていました。

 

今の日本では、「何としても生き抜いてやる!!」ということが目標にはなりにくいです。

物質的にはほぼ満たされていて、幸せへのヒントは精神的なものの中にしかないような気がします。

 

先ほどの無期懲役の受刑者たちの心の支えが「宗教」になっている人が多いと言われていました。

目に見えるものに幸せを見出しにくい時代には、精神的なものに幸せを求める時代になってくるように思います。

人は苦しい時に宗教に救いを求めていきます。

今の時代は、満たされすぎて、ある意味逆に生きることが苦しい時代なのかもしれません。

 

物では幸せを感じにくい時代において、人から認めてもらうこと、人の役に立つこと、自分の行いを自分で評価できることなどが、自分の存在意義を実感できる幸せな瞬間なのではないかと思います。

 

あるビジネス雑誌に、これからの企業は「何のために働くのか?」を社員に伝えていけない企業は淘汰されていく!ということが書かれていました。

社員に「人が働く理由」を納得させれない企業は、「同じ給料ならできるだけ楽をしたい」という社員が増え、社員レベルが低い会社になり、お客様からも評価されなくなってくるという論理らしいです。

 

人が頑張るには「頑張る理由」が必要なように、人が生きていくためには「生きていく理由」を持っている人間は強いのだと思います。

「人が生きていく理由」それを「使命」とか「ミッション」と言い換えるのだと思います。

自分の使命に気づいた人が「幸せ」という目に見えないものを手にすることができるのだと思います。