昨日、家のエレベーターを待っていた時の出来事です。



6歳ぐらいの男の子が「ママ、疲れたー!」と言うと、

ママは「あなた何言ってるの!子供に疲れたという言葉はないの!疲れたというのは、大人が、もうどうしようもない時に限って使う言葉でしょ!」



私は思わず、「ママ偉い!」と握手をしたくなりました(笑)



この一言で、この方の30数年間?(あくまで推測です)の生き方が分かるようで、とても共感できました。


たった一言でも、人を感動させることってできるんですね。

こんなお母さんに育てられれば、この子は立派な大人になれるだろうなと想像しました。

こんな教育をしているママがいるのを知って、すごくすがすがしい瞬間でした。



私の中でも、子供は疲れてナンボ。

疲れるから体力も知力も向上していくと思っています。

個人的にも、「疲れた」という言葉は使わないようにしています。



時代の流れで仕方ないのかもしれませんが、家庭でも、学校でも、今の教育は、過保護すぎるのではないかと思います。

以前娘の小学校の校長先生が「日本は世界一過保護な国です」と言われていましたが、「やっぱし!」という感じでした。



スポーツにしても、勉強にしても、仕事も、なんでも自分の限界に挑戦するということが、真の頑張る目的なのではないでしょうか?

ましてや、子供の時こそ無理をして、大変だったけど「自分はあんなこともできた!」「こんな無理なこともやり遂げた!」という自信の積み重ねが大人になって困難にぶつかったときの心の支えになる様な気がします。



私を含め、ほとんどの人間にとっての、一番のボトルネックは自分で自分の限界を低く設定していることなのではないかと思います。

「俺は(私は)やろうと思えば何でもできる」というぐらいの自信をもって物事に当たることが理想なのに、すぐに「これは自分には無理!」と出来ない理由を考え始めます。

「人間は出来ない理由を考える天才である」と言った人がいますが、「俺は(私は)何でもできる」と思えるかどうかは、心の限界を超えた小さな自信を積み重ねて養っていくしかないと思います。



「飯の食える大人を作る」という経営理念で、関東で注目されている「はなまる学習塾」のトップの方は、子供に「自分はできる」という経験を積み重ねさせるために、合宿などで一般的に考えれば、少し危険と思われることもどんどん子供にさせていると言っていました。

そして、子供の無限の可能性を、有限に落とし込んでいるのは過保護な親や先生だと言っていました。


昔から、「かわいい子には旅をさせろ」という名言がありますが、かわいいからこそ苦労をさせることが必要なんだと思います。



私も経営者として、本当に社員がかわいいのであれば、意味のある苦労をどんどんさせるべきなんだと思います。

子供に対しても、社員に対しても教育とは、その人に自信をつけさせることだと思います。

そして本当の自信は、自分で身に着けていくしかないと思います。



「この子(やスタッフ)は、この困難に耐えられるであろうか?」と思ってしまうと、こちらが早めに手を差し伸べるようになります。

「この子(やスタッフ)ならきっとやれる」という信頼感をもつことも親(や経営者)の修行の1つだと感じています。




「途中下車」というノンフィクションを読みました。



40歳までバリバリの仕事人間で、編集長として充実していた人が、地下鉄に乗れないパニック障害になり、会社を辞めて1年間、6歳の子供と定期的に旅をしながら、パニック障害を治しながら、子供との距離を理想の姿に戻したいという話です。

誰にでも無意識のストレスにより「パニック障害」になる可能性はある、というのはショックでした。

私の中では、うつもパニック障害も嫌々やっている仕事から起こることはあっても、自分から楽しんで前向きにとりくんでいればそういうものにはならないと信じていました。

しかし、嫌々仕事をしているわけではない出版社の編集長でも、ある日いきなりこういうことが起こり得るのかと思うといろいろと考えるきっかけになりました。

この主人公は、パニック障害を治すために退職して、子供との旅を中心に生活パターンを変えていきました。決して今後とも永久に仕事を辞めようと思って、退職したわけではないのは共感できます。

世の中の流れとして、仕事は「悪」で義務ではあるが価値の低いもの、優先順位として趣味や子育てなどの家族サービスなどの方が大切だというような流れがあるように感じます。

今回も仕事よりも子供との接触の方が大事という流れだったら、「そうか??」という気持ちにもなったと思いますが、主人公は、今までがあまりにも子供との接触が少なすぎたことを反省はしていますが、子供や家庭と過ごす時間だけに価値があるというような結論は出していません。

私自身を振り返って、「子供との接触時間は十分か?」「子供と気持ちは通じあっているか?」と問われると、仕事柄、平均の旦那方よりは子供との接触時間は多い方だと思っています。

だからと言って、子供の気持ちを十分把握しているかと聞かれれば、そんな自信はありません。

そもそも、接触時間って絶対のものなのでしょうか?

子供とたくさん遊べば、子どもはいい子になるのでしょうか?

「子育ては親育て」と言われますが、子供を育てながら親の方が成長させてもらっていることもよく感じます。

私の考える教育とは、子供も未熟だけど、親もまだまだ未熟です。

親自体がまだまだ成長していかなければなりません。

親が成長して子供の立派な手本になっていけることが、最大の教育ではないかと思います。

父親にとって、成長していくための最大の場所が仕事のように思います。

仕事をいい加減にしている父親がいくら子どもと接触しても、どんな教育ができるのかと思います。



世の中はバランスが大切なので、仕事だけすればいい、子供や家族と接触さえすればいいという問題ではないですが、ワークライフバランスと言われるように、仕事をセーブしてもっとライフを充実させましょうという流れには何か違和感を覚えます。

夫婦も家族もまずは個人がそれぞれ精神的に自立して生きていくことが大切なのではないかと思います。

そうすることで、お互いがいい影響を受けていくことが理想ではないかと思います。

子供も成長していきます。

小さい時にはただ遊んであげることが教育かもしれません。

しかし、子供が成長して人生の悩みを相談されても、その悩みに答えてあげれない親にはなりたくありません。

子供がどんな悩みを相談してくるかはわかりませんが、望むような答えを提供してあげられるかどうかは、親がどれだけ必死に人生を生きてきたかによると思います。

なんとなく楽しければいいというような生き方をしてきたのでは、親が出せる答えも知れているような気がします。


子育てに正解はないのかもしれません。

結果論で、いい子に育てば、成功と言われるし、そうでなければ失敗と言われます。

ほっておいて成功することもあれば、失敗することもあります。

過保護にしても失敗することもあれば、いい子になる事もあります。

最終的には、親の深い部分に愛があるかどうかのような気がします。

対大人でも対子供でも、人間関係とは、自分がされて嫌な事はしない、自分だったらしてほしいことをしてあげる、という当たり前のことをきちんとしていくことに尽きるような気がします。

TheLadyアウンサンスーチー引き裂かれた愛」を観てきました。



仕事も忙しいですし、家族もいるし、いくらでも時間がある立場ではないので、貴重な時間を割いて観る映画は、人物モノやドキュメンタリーで自分の使命感、正義感、責任感をよりよい方向へ仕向けてくれる映画を選んで観るようにしています。



この映画を観るまでは、アウンサンスーチーさんのことは新聞などのニュースで少しは知っているぐらいで、ビルマ(今のミャンマー)のことはほとんど知りませんでした。

ストーリーは、ビルマ独立の指導者の父が、反対勢力に2歳の時に暗殺され、その後彼女はオックスフォード大学で学び、同大学で知り合った方と結婚して子供も2人生まれごくごく平凡な生活をしていました。

それが、自分の母親が病気になり、看護の為だけにビルマに帰国したが、暗殺されて41年が経過していても今だに父はビルマの英雄で、その娘が帰国したという情報が駆け巡り、いろんな人が「指導者になってくれ」「この国を変えられるのはあなたしかいない」と懇願されるが、彼女の中にも、「父のやり遂げれなかったことをやり遂げるまで、この国には本当の独立はない」という信念は心のどこかにありましたが、妻であり母である今の自分の立場を考えると、多くの申し出を固辞していたのに、彼女の背中をひと押ししてくれたのは何と夫でした。

きりがないので、後のストーリは、映画館でぜひ観てください。(笑)




映画を観ていて、何度も何度も号泣してしまいました。

最近涙もろくなってきているのは、自分がこの状況だったら、この選択をするためにいろんなことを天秤にかけて苦渋の決断になってしまうことを想像すると、自分にここまでの決断はできないな、想像を絶する辛さだったろうな、と気持ちだけは映画の中の人々に入り込んでしまっているからだと思います。


母親の看病をするために帰国したのに、結局母親の看病をできないまま、指導者としての日々を送って最愛の母親が亡くなった時、彼女は母親に申し訳ない気持ちもあっただろうし、彼女の母親は病床で父親と同じ運命にはさせたくないという思いをもったまま、どんな気持ちで死ぬまでの日々を過ごされていたのだろうと、彼女と母親のお互いの気持ちを想像するだけで涙が止まりませんでした。


国と家族を天秤にかけて、国を優先するという選択をしたことに対して、母親として小中学生の子供たちと離れなければならないということへの自分の中での罪悪感があったことは想像に難くないが、目の前で起こっている惨劇を見て見ないふりをして自分だけ帰国するという選択も、どちらを選んでも地獄の選択だっただろうし………こんな選択を迫られること自体かわいそうでたまりませんでした。


死ぬ間際の最後の最後まで、妻を応援し続けた旦那がいたからこそ彼女も頑張れたとは思うけど、この夫婦は、お互いに自分の気持ちを整理するためにどんなに葛藤していたのだろうと想像するだけで……

母親の看病の為に一時帰国してから24年以上たった今でも、惨劇はまだまだ続いているということで、いつ終わるとはわからない戦いを続けている気持ちを思うと……


この映画を観ていて、いろんな出会いや出来事は偶然ではなく、やはり全ては必然なんだなと感じました。

彼女のしていることは、周りの人の協力や応援があって彼女も頑張れるのだと感じました。


私の、使命感、責任感、正義感に一石を投じてくれた感動すべき映画でした。

DVDになっても買って何度も何度も観て、自分の気持ちをを高めていきたいとも思いました。




以前は、映画で「面白かった」「感動した」「料金以上のものだった」など映画を観て感動しただけで満足して「人間は感動を繰り返すと成長するんだ」と信じていた時期がありました。

「感動した」というだけで満足している、今思えばすごく「甘い」考え方をしていた時期があったなと懐かしいですが、当時は感動することがゴールになっていて、今から思えばまるで感動ゲームをいているだけだったように感じます。


1日中TVDVDを観ているだけで、日々感動で一杯だからと言って成長できるはずがありません(笑)。当時は感動する自分に酔っているだけのように感じます。


今思うのは、人間としての使命感、責任感、正義感を高めていくための1つのきっかけが、感動だと思うので、成長する人、結果を出す人は、その感動をきっかけにして明日から何かを変えていける人ではないかと思います。

こうしている今なお軟禁状態にいる彼女のことを思えば、必死に生きなければ罰が当たると思います。










オリンピック盛り上がっていますね。


北島康介選手の100Mの結果はとても残念でしたが、本屋やTVなどで彼の心の葛藤を少しは知っているだけに彼のインタビューを聞きながら涙があふれてきました。

200Mでは悔いのない泳ぎをしてほしいです。

背泳ぎの寺川綾選手など8年前にオリンピックに出場して4年前は選考から漏れ、押しかけでコーチを変えてまで今年のオリンピックにかけている思いを考えると、やはり涙があふれました。

特に、結果も銅メダルという形で伴ってよかったという気持ちで一杯です。



オリンピックではどうしてもメダルを取った人だけが注目されますが、メダルはあくまで結果であって、そんなことよりもこの人達はどんな気持ちで数年間頑張ってきて、どんな気持ちでプレッシャーと戦ってきたかを考えながら、インタビューを聞いていると負けた人のコメントにもやはり涙してしまいます。

私は競技を見るよりは、競技後の選手のコメントを選手の気持ちを考えながら聞くことが楽しみでもあり感動もします。

次の日の新聞には、その人のそれまでの歩みのようなことが書かれていて、どの人も決して平坦な道でなかったんだな~と感じます。

北島選手ほどマスコミで取り上げられてない人でも、新聞を読むとほとんどの人に今回のオリンピックに出るまでにドラマがあります。

どの方も、折れそうになる気持ちを奮い立たせて今日があるのですが、裏での苦労を想像できないと、淡々とオリンピックに出場できた天才かのように思ってしまうのが怖いです。

ほぼ全員、何らかの人生のドラマを持ってオリンピックを迎えているのだと思うと涙なしには見れないですね。

そもそも、オリンピックを目指す人は全てのことを犠牲にして、ただただオリンピックだけに人生をかけている人たちの集団だと思っています。

4年間、8年間、12年間人それぞれですが、長い間そのことだけを考えて生きてきた生き方は、他人に勇気と感動を与えてくれることを再認識しました。

高校野球や駅伝が人を感動させるのも、その人たちが人生のすべてをその一瞬の為にかけて頑張ってきたからだと思います。

オリンピックほどではなくても、仕事をしていくうえでも、彼らの情熱の何分の一でも持って事に当たれば、たいていの仕事が楽しくなったり、仕事にやりがいを感じるのに、適当な仕事をしている人には、仕事を通じて何も残らないのではないかと感じました。

私は幸せと辛いは一が違うだけで、片方だけは選べないという言葉がとても好きです。

オリンピックでは普通の人よりも何倍も辛い思いをして頑張った人にだけ、出場機会が与えられ、その中の1部の人だけにメダルという更なるご褒美が与えられます。

でもメダルというご褒美は、自分の力だけではコントロールできません。

神様は、ある意味、誰がメダルを取ってもおかしくないというレベルの人が同じように頑張っている中で、今回はこの人にそのご褒美をあげようと判断されたとしか思えません。

「オリンピックには魔物が住んでいる」とよく言われますが、その意図は人間にはわからない部分もある様な気がします。

一言でいれば運ですが、運を与える相手も神様は選んでいるような気がします。

長い目で見れば、メダルを与えない方が幸せという判断も十分あるでしょうし……

オリンピック選手にとってメダル以上に最大のご褒美は、何年間かは個人差がありますが、短い人生の中で自分はあの何年間は人生のすべてをオリンピックにかけて生きてきたなという充実感の思い出ではないかと思います。

その思い出と自信が、競技を辞めてからもその人の人生を支えてくれる自信になったり、心の支えになってくるように思います。

長い間、何かに必死になって取り組んで頑張った経験がその人の人生における自信になることは、オリンピックも仕事も同じだと感じました。

何年かぶりに熱が数日間続き、普段からの見えている風景が全く違うことに気が付きました。

綺麗なものを見て綺麗と思えるのは、見ている人の心に余裕があるからだと気が付きました。

どんなものや感動するようなことを見ても、心の動かない人は何も感じないし、小さな花や空を見ても感動する人は感動するのだと思います。

その違いは、心に余裕があるかどうかの違いのような気がします。

自分の事でいっぱいいっぱい、目先のことでいっぱいいの時に周りに目は行きません。

ここ数日何を見ても興味もわかないし、自分の部屋は特別変わっているわけではないのにすごく汚い部屋のようにも思えました。

普段なら気が付けば、ちょっとしたことでも片づけるレベルの事も、体がしんどいから、体が治ってからでいいや、と先送りにしているうちに、心の中で「この部屋は汚い!」という先入観ができるような気がします。

部屋がすごく汚れているかどうかよりも、自分の中の先入観で自分自身が洗脳されてそう思えてくるような気がします。

何を見てもおいしそうに思えないし、何もする気も起きないし、全ては体が治ってからと自分に言い聞かせますが、日々無駄に時間が過ぎているような焦燥感も出てきます。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ということわざを思い出し、まったくもってその通りだなと感じました。

「天災は忘れたころにやってくる」といいますが、病気も日常の些細な事のありがたさに気づきなさいというころにおきるようなきもします。