人の生き方には、24時間の中で、流されて生きる時間と意識して生きている時間と2種類の生き方が混ざり合っています。

別の言い方で表現すると、何も考えないで無意識の中で過ごす時間と、意識して行動したり考えたりする時間とあります。


朝起きて、出勤する場合に、何も考えなくても職場に着けます。

それまでに何度も何度も通勤しているので意識しなくても職場までの行動が習慣化されています。

一方、初めての場所や、あまり行かない場所に行く場合は、間違わないように緊張しながら正しい道を選択しながら進んでいきます。


日常においても、大半の時間は昨日までの自分が意識しなくてもできる事を行っています。

昨日までの自分では習慣になっていないことをすると、ストレスを感じて居心地が悪いので自分の中に緊張感が走ります。

何も考えないで、無意識に行動できる事、感情の感じるままにする言動は楽ですが、成長とは、意識してする好ましい言動を無意識レベルまで落とし込むことのように思います。


損得に左右されたり、楽な道に流される今までの自分の価値観を、何が理想か何が正しいかを判断しながら、新しい価値観を習慣化していくことが成長であったり生きていく意味のような気がします。


人間は、先天的には、感情のままに流されて生きていけば、易きに流される弱い生き物です。

しかし、後天的に、正しい価値観を構築しながら、意識して生きていくことで、少しずつではあっても、周りや感情に流されない生き方ができるようになってくる生き物のようにも思います。


私自身、まだまだいろんなものに流されながら生きていますが、少しずつでも正しい自分の価値観を構築していきながら、流されない生き方、理想に向かった生き方をしていきたいなと思います。

そのためには、いろんなことを自分の頭で考えながら判断していく習慣を身に付けていきたいと思います。


昨日までの自分を少しでも成長させるということは、日々何らかのストレスや緊張感を自発的に自分自身に課すということのように思います。

自分からストレスに飛び込んでいく、ストレスから逃げない、ストレスの向こうにあるご褒美を可視化する、ということが成長へのヒントのような気がします。


昔の人は「若い時の苦労は買ってでもしろ!」といいことを言っていますが、何歳になっても苦労の向こうには大きなご褒美が待っているのだと思います。

ストレスがないことを喜ぶ生き方よりも、ストレスがあることを幸せだと思う生き方にこそ、大きな喜びや幸せが隠れているのだと思います。


「我に艱難辛苦(かんなんしんく)を与え賜え」(山中鹿之助)

彼だって、心の深層部分では、楽な人生が良かったのではないかと想像します。(たぶん!?)

しかし、こういうことを意識して生きていくことで、自分を鼓舞しながら生きていたのではないかと想像してしまいます。

男ならこんな言葉を言いながら生きてみたですね。

昨日、子供の関係で、帰りたいけど帰れないという状況(?)で、本屋で長い時間をつぶしていました。


私は、本屋にいるとドキドキします。



この本を読んだ後に

自分はどう変わっているのだろう?

どんなスキルが身についているのだろう?

運命的な出会いの本になったらどうしよう?

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色んな空想をすると、いろんな本が買いたくなります。

しかし、時間は有限です。

全ての本を読み切ることはできません。

これって女性はブティックでこんな風にいろんな服を着ている自分を想像しているのではないかと考えてしまいました。

私は、ブティックに行っても心ときめきませんが、本屋ではドキドキします。

この違いは想像力の違いなんだろうなと感じました。



人がお金を払うのは、明るい未来を想像できる時と今の悩みが解決する時の2つになります。

私は、ブティックではどちらも感じませんが、本屋ではどちらにも当てはまります。

昨日も、自分を抑えていても、結局、8冊の本を購入してしまいました。

最近では、上記のような誘惑に駆られてしまうので、極力、本屋さんには近寄らないで、インターネットで本を買うようにしていました。



若い時に、パチンコ屋の前を通る際も、いつも心の葛藤がありました(笑)が、人の心理は感情が動き始めると、理性ではなかなかコントロールが付かなくなってくるので、感情を抑えることが難しくなることを昨日は再認識しました。



本を買うことって決して悪いことではないですが、私は多読よりも精読を重視しているので、多くの本を買ってしまうことは私には害の方が多いような気がします。







過去に自己嫌悪率100%だった私だから言えると思いますが、自分を好きになる事は、全ての人にとってのテーマではないかと思っています。

というのも、自分のことを受け入れられない人が、他人を受け入れられることはないのではないかと感じます。



自分のことを好きなれないということは不幸です。

不幸な人が他人に優しくなれるはずがありません。

自分に自信があれば、人は自分が持っている優しさや思いやりの一部を他人にも分け与えることができると思っています。

自分を好きなるということは、傲慢、自己中心、自信過剰、ナルシストとは似て非なるものです。



私の考える自分を好きになるということは、

 I am OK. You are OK. です。

一方、傲慢、自己中心、自信過剰、ナルシストは、


I am OK. You are not OK. です。




みんなもすごいけど、自分も頑張ってるよ、すごいでしょ。

みんなも頑張っているんだね。みんなもすごいよ。

と思えれば、心は常に安定できると思います。


自分を受け入れられない人は、他人の批判、あら捜しをして他人を自分より劣った人間にしようとしてしまいます。

自分が努力するよりも他人のあらを捜して貶める方が簡単なので、どうしても人は安きに流れます。

しかし、その先には心の安定はありません

自分を好きになるためには、もう一人の自分に対して恥ずかしくない言動をしていかなければなりません。

一朝一夕には、人は成長できないですが、日々少しづつ自分に恥じない言動を増やしていくことで、自分のことを少しづつ受け入れていき、好きになっていけるのではないかと思います。


私が頑張る理由の一つに「自分の事を好きなるため」があります。

人間は長く生きていくほど自分の価値観というものが出来てくるように感じます。

価値観というのは、簡単にいえば「自分が正しい」と信じていることだと思います。

自分が正しいと思うことが否定されたり、自分にとって正しくないことを平気でしている人を認めたくないという感情は誰にでもあるように思います。

人は全員、各人それぞれの価値観がなければ生きていけないのではないでしょうか?


私自身のことを振り返ってみて、私にも自分にとって「これが正しいこと」というものがあります。それを社員や子供に伝えていきたいという気持ちがあります。

それは今日のテーマの「価値観の押しつけ」の様な気もします。

大げさにいえば、自分が47年間生きてきて、「これは後世に伝えていきたい」と思うことは、社員や子供たちに押しつけながらも伝えようとしています。

このブログもある意味「私の価値観の押しつけ」なのかもしれないなと感じます。

私の中で社員や子供に価値観を押し付けることには、あまり後ろめたい気持ちは感じません。

特に自分の子供に対して、自分の価値観を洗脳していくことは、自分の生きている義務であるとすら感じています。

しかし、自分の妻や他人に自分の価値観を押し付けることは、どちらかというと悪のように感じる自分がいます。

自分の子供や社員に対してする「価値観の押しつけ」は正で、妻や他人に行う「価値観の押しつけ」は悪に感じる違いは何なんだろう?と考えてしまいました。


私の中では自分が正しいと信じていることを、子供や社員に伝えていくことは彼女らにとっての幸せにつながっていく、と信じているから押し付けに感じられる可能性があってもあえて行っているように感じます。

一方、ある程度、自分の価値観をもっている妻や他人に対して「価値観の押しつけ」は、逆に相手を不幸にしてしまう可能性があるということで自分の価値観を押し付けないように心掛けているような気がします。

ただ、面と向かって、相手に言動で「価値観の押しつけ」をしていないつもりでも、心の中では、「これが正しいのに」という気持ちがあるということは無意識に価値観の押しつけをしていることになるのではないか?!と反省している自分がいます。


「価値観の押しつけ」の反対は「相手を尊重する」ということだと思います。

どんな相手に対しても、人間関係において一番大切なことは「相手を尊重する」ことだと思います。

子供や社員に対して、私の「価値観の押しつけ」が正しいか正しくないかの分かれ目は「相手を尊重」しながら行っているかどうかで違ってくるような気がします。


人間にとって、自分の価値観を高めていくことが生きていく意味、成長の基準であるように感じていますが、そのために大切なのが「使命感、責任感、正義感」であると思っています。

自分にとっての「使命感、責任感、正義感」とは何なのか?を日々考えながら生きていかなくてはいけないと思います。

とても難しいことではありますが、「価値観の押しつけ」と「相手を尊重する」はセットで行ってこそ初めて価値が出てくるのではないかと考えています。







私には4歳と7歳の娘がいますが、常々、幼稚園と小学校の違いを感じます。

幼稚園は親が送り迎えをして幼稚園では幼稚園の先生が目を光らせてくれているので、大した問題は起きません。

何か問題が起きたとしても、親なり先生なりの介入が簡単です。

一方、小学校になると、通学も一人ですし、学校でも休憩時間等、生徒だけで過ごす時間が増えてきます。


小学生と言えば、理性より感情や欲望に支配されて生きています。

「こうした方がいい」ことよりも「こうしたい」ということを優先しながら生きています。

大人も子供も、基本的には感情に任せて生きています。

大人は理性が働くから幾分かは感情を抑えることができますが、そういう点で子供時代は結構平気で、人を傷付けながら生きているように感じます。


例えば、私の子供が電車通学していますが、学校帰りは何人かで帰るので帰る友達によっては、娘が仲間外れにされているようです。

これは、仲間外れにされた子供にしたらつらいことですが、人間の心理からすれば私にはその行動を理解できます。


それは、人には、優越感を感じたいというDNAがあります。

優越感には、自分が頑張って人から認めてもらう優越感と、他人を自分より下にすることで感じる優越感があります。

「他人の不幸は蜜の味」と言われますが、他人が不幸なのを見ることで、その人と自分を比較したときに自分の方が幸せだと感じる悪魔の気持ちが人間には存在しているのです。


自分に自信があったり、頑張って結果を出せる人間は、前者の優越感を目指します。

しかし、子供など、自分に自信がなく、自発的に頑張るわけでもないので、一般的には他人を貶めることでしか優越感を感じることができません。

常に優越感を感じていなければ心が安定しない子供時代は、誰かを仲間外れにしたりいじめることでしか、自分の心を安定させることができないのです。

世の中からいじめや仲間はずれがなくなることがないのは、こういう原理からだと思っています。

そういう優越感を繰り返しながら大人になってしまうと、そのまま他人の悪いところだけしか見れない大人になって不幸な人生で終わっている人も少なくないように思います。



子供時代のスタートは、他人を貶める優越感でも仕方がないと思います。殆どの人が、そこからスタートしているのではないでしょうか?!

しかし、その過ちにいつ気が付くかで、いつまでも不幸な人生が続くかどうかが違ってくるのだと思います。




同じ子供の中でも、いじめや仲間外れをする人間と、そういうことを子供なりに理性的に抑えることができる人間がいるように感じます。


子供時代は、たくさん病気したり傷つく方がいいと思っています。

傷つくことで他人の痛みが分かったり、抵抗力もつくと思います。


ただ、子供は手加減というものを知らないので、いじめや仲間外れが度

を越していると感じた場合には、親や先生の出番だと思いながら見守っています。
これは、子供時代に限らず、自分の子供に自立して欲しいという親の思いがある場合は、どこで助け舟を出すかを考えながら、アドバイスや手を出すタイミングを考えていかないといけないと思っています。

親や先生などの大人だったら簡単に解決できることだと感じてしまうので、どうしても早めに手を出しがちですが、ぎりぎりまで子供の力を信じて見守るということが本当の愛情なのかもしれません。