先日、私の歯科医師としての大恩人の先生が亡くなられました。享年75歳でした。

今日の私があるのはその方のおかげなのは間違いありません。

私にとっては父親同然のような方でしたので、今だに信じられない気持ちと、もう2度とお話ができないと思うと、心にすっぽり穴が開いたような空虚感があります。

人は必ず死にます。それがいつになるかだけの違いです。早いから「かわいそう」長生きしたから「満足」と年月だけでは測れないもののように歳とともに感じます。

私はスタッフに「何のために生きているか」を若いうちから少しづつでも意識して生きていくことを勧めています。

その問いに対して、学校の問題のように正解があるわけではありませんが、生きていくということはその問いに答えていくことのように思います。

若い時には「成功するため」「お金持ちになるため」などの目に見える理由の為であってもいいと思います。

それが歳とともに、それだけのために生きていくことに満たされない気持ちが必ず湧いてくると思います。

最終的には、「世の為人のために生きていく」ことが自分の幸せにもつながってくるのだと思います。

私のクリニックのスタッフには、20代半ばにもかかわらず「人のために生きていきたい」と言っているスタッフがいます。

私の20代と比べると信じられない事ですが、若くしてそういう生き方をできるスタッフと一緒に働けることをとてもうれしく感じ、この子らが幸せに働けるクリニック環境にしていかなければという強い使命感を持っています。

今私は47歳で、両親も元気ですが、今回の恩人の先生や私の妹など天国に召されている人が私の周りでも少しづつ増えています。

自分の周りの親しかった人が天に召されるようになってくると、自分が旅立つ日が来ることも悪くはないかなと思えるようになってくるのか、何歳になってもやはり「死にたくない」と思うのかは想像の域でしかありませんが、その日まで精いっぱい生きていかなければいけないなと思いました。



身近な人の死は悲しいことですが、人は「死を意識しながら生きていく」ことは、とても大切な事のように思います。

いつまでも生きていけるような気になっていると、感謝の気持ちもなくなりますし、時間も無駄に過ごしてしまいます。

「命には期限がある」「人は必ず死ぬ」ということを意識して生きることで、生きている時間がより輝いてくるようにも思います。


「死」というテーマはとても難しく文章では誤解も生じるかもしれませんが、とても大切な恩人の先生の死について気づいたことをコメントさせていただきました。

峯田先生の御冥福を心からお祈りします。合掌。

「最近、ブログの更新が減ったね」と言われたので、続けて書きます。

またまた娘の運動会ネタです。(笑)

学年別リレーを見ていて、リレーって1番目に走る人は純粋な順位が付くけど、途中からバトンを渡される人って不公平感を感じているだろうな~と思いながら見ていました。

トップでバトンを渡された子供は自分の成果でなくてもいい思いをできます。ビリでバトンを渡された人は「自分のせいではないのに!」と思いながら走っているのかな~?!とか考えながら見ていると、どんな状況でも精一杯走っている子供たちを見ていると少しうるうるしてきました。

年末の駅伝の視聴率がいいのも、こういう1人1人の選手の気持ちを推し量ってみていると切なくなるから見る人の気持ちをつかむのかな~と感じました。



世の中は持ちつ持たれつで成り立っています。

自分だけ良ければいい。と考えていけば世の中は成り立たない。

足の早いランナーもいればそうでないランナーもいてチームで結果を競い合うゲームっていいな~と感じます。

お互い様



仕事もリレーのようなもの、社会もリレーのようなもの、人生もリレーのようなもの

よく人生はマラソンに例えられますが、マラソンよりはリレーに近いなと感じます。

この週末、上の娘の運動会でした。

徒競走は6人中6番でした。(残念!)

私は小学校時代はかけっこは得意だったので、6番の子供の気持ちは分からないかもしれません。

私にとって、子供の時は、かけっこが早いことは自慢の事でしたが、今になって思えばかけっこが1番であろうとビリであろうと、そんな結果はどうでもいいことのように思います。成績がいいか悪いかの勉強も同じです。

かけっこの1番から得られることもありますが、6番から得られることもあります。

1番と6番でどちらが得る物が多いかと言えば、今なら断然6番の方が得る物が多いと思います。

目に見える順位より、うちの娘は6番を悔しいと思っているのか、1番になりたいという気持ちはあるのか、そういう思いの方が興味があります。

運動会の前から「走るメンバーの中に足の早い子がいるからどうせ勝てない」ということを何度も私に説明していましたが、結果よりも自分にできる事を努力することに意味があるのにな~と思ってしまいましたが、7歳の子供にそのことを伝えることはできませんでした。

まずは自分がそういう生き方を実践していき、いつの日か子供に自分の背中でそういうことを伝えていける父親になりたいな~と思いました。

結果は自分でコントロールできませんが、努力のプロセスは自分でコントロールできます。

今の努力が目の前の結果には直接結びつかなくても、人生の結果においてはトータルでは努力に見合った人生になる事を伝えられる生き方を実践していきたいです。

今努力してもすぐには何も変わらないかもしれない

でも、今努力しなければ未来は何も変わらない

チャンスは準備していた人間にだけ与えられる

今の努力は目の前のものを手にするためではなく、もっと大きな将来のものを手にするための努力だと思える人だけが頑張れるのではないかと思う今日この頃です。

喜多川泰さんの『「また必ず会おう」と誰もが言った。』と『君と会えたから……』を読んで私の中に衝撃が走りました。



「この人(作者)すごい……」と感動しました。



私の中でなんとなく感じ始めていたことを、すごく腑に落ちる文章で書かれていて、小説なのに2度3度と続けて読み返してしまいました。



ストーリーがどうこうというよりも、この作者の考え方に触れたいと思って、アマゾンで別の2冊も追加購入してしまいました。



今私は完全に喜多川泰さんの大ファンになってしまいました。



これだけの内容のある文章を書くために、この人はどんなに真剣に生きてきたであろうか、どんなに悩み考えてきたであろうかと想像すると、この人のおかげで多くの事に気付かせていただけたと感謝の気持ちでいっぱいです。



この方は私のために一生懸命生きてこられたわけではないですが(笑)、自分が悩み苦しんだ経験が他の人の生きる力になれるって素敵だなと思いました。



私も一生懸命悩み苦しみ考えることで、子供たち、スタッフ、周りの人々、世の為人のために、生きていく勇気と知恵を分け与えられるような人生にしていきたいなと思いました。



自分が真剣に悩み考えたことが、自分の生きていく意味と人生のテーマになっていくと思うので、いろんなことを前向きに深く悩んでいきたいと思います。



本当に喜多川泰さんってすごいです。

人間の行動の大半は無意識下で行っていると思っています。



意識して行動していたのでは考える時間が必要になってきます。



しゃべるのも行動するのもほとんどの事は条件反射的に動いています。



逆に言えば、無意識下に落とし込んだスキルしか使い物にならないということです。

「そんなこと知ってるよ!」これほど怖い勘違いはないということです。



学校の試験と違って、「知っている」のと「習慣になっている」ことでは、0点と100点の違いがあるのに、知っているということで80点ぐらいに解釈してしまうのが学生時代の悪しき流れなのでしょう。




「そんなこと知ってるよ!」と言いそうになったら、そのことがどのレベルまで習慣になっているかを反省していくようにしていきたいと思います。