K's SHOPのブログ -13ページ目

読書について − アルトゥル・ショーペンハウアー

・読書は他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。


・良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。


・頭は空の連中が空の財布を満たすため、書きなぐりに励み、その結果、出版図書のほとんど九割までが悪書駄作の始末である。


・読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。具体的な事物は本来のいきいきとした力で迫ってくるため、思索する精神にとって恰好の対象となる。


・すぐれた文体たるための第一規則は、主張すべきものを所有することである。およそ書くに値する思想があれば、素材と内容は自然にあふれてくる。


・重要な書物は、いかなるものでも、続けて二度読むべきである。


・怒りを欠く者は知性を欠く。知性は必ずある種の「鋭さ」を生む。鋭き感覚は生活においても、芸術、文学においても、ひそかな避難を侮辱を呼びおこすいくたの事柄に日々必ず出会う。


・無知は富と結びついてはじめて人間の品位をおとす。貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。これに反して無知なる富者は、ただ快楽に生き、家畜に近い生活をおくる。

道徳の系譜 − フリードリヒ・ニーチェ

・およそ刑罰によって達せられることは恐怖の増大、用心深さの増進、欲望の制御がそれである。この点からいって、刑罰はにんげんを馴致するにしても、これを<より善く>することはない―――むしろこの反対を主張する方が当を得ているであろう。」


・報復しない無力は<善良さ>に、びくついた卑劣さは<謙虚>に変えられ、憎悪をいだく相手にたいする屈従は〈従順〉(つまり、彼らの曰くでは、この屈従を命ずる者にたいする従順―――この者を彼らは神と呼んでいるのですが)に変えられます。弱者の退嬰ぶり、弱者にたっぷりそなわった怯懦そのもの、戸口でのその立ちん坊ぶり、その仕方なしの待ちぼうけぶり、それがここでは<忍耐>という美名で呼ばれます。それはまた徳そのものともいわれるらしいのです。それに<復讐できない>が<復讐したくない>の意味におそらく宥恕という意味にすらなっています(「彼らはその為すところを知らざればなり―――ひとりわれらのみ彼らの為すところを知るなり!)。それにまた、「敵に対する愛」についても話しています―――しかも汗だくでやっています。」


・<罪>なるもの―――こういわれるものはじつは動物的な<良心の疚しさ>を僧侶流に解釈し変えたもの。


・私の場合<善良化>とは―――<飼い馴らす>、<弱くする>、<意気地なくする>、<繊細にする>、<柔軟にする>、<去勢する>などの(つまりは傷めそこなうとでもいうべきほどの・・・)意味と同じだ。


・「何ものも真ではない、一切は許されている。」

この人を見よ − フリードリヒ・ニーチェ

・錯誤(すなわち理想の信仰)とは、盲目のことを言うのではない。錯誤とは臆病に外ならない。
 認識におけるあらゆる獲得、あらゆる前進は、勇気によって生じる、すなわち自己にたいする酷薄さ、
 自己に対する清潔さから生じる。


・私からすれば、どんなに乱暴な言葉でも、まあどんなに乱暴な手紙でも、沈黙よりはまだ質がいいし、
 礼儀にも適っているように思われる。沈黙している手合いは、ほとんどいつも心情の細やかさと礼節を欠いているのだ。
 沈黙しているということは、相手に対し文句をつけていることと同じである。
 言葉を呑み込んでしまうのは、必然的に良くない性格を作る。


・自己自身を一個の宿命さながらに受け取り、自分は「別様で」ありたいとは思わないこと
 ―――これがあのような状態に置かれているときには、偉大な理性そのものである。


・人の成長度を測るには、その人が自分よりどれくらい強力な敵を探しているか
 ―――あるいは、どれくらい強力な問題を探しているかを見れば自ずと分かる。


・何かある事柄で失敗した場合に、失敗したからこそそれだけますますその事柄を尊重する。


・結果が悪いと、人間はややもすると自分のしたことに対する正しい判断の目を失いがちなものである。


・すなわち、何事も現にそれがあるのとは別様であって欲しいとは思わぬこと。
 未来に向かっても、過去に向かっても、そして永劫にわたっても絶対にそう欲しないこと、
 必然を単に耐え忍ぶだけではないのだ、いわんやそれを隠蔽することではさらさらない。
 ―――あらゆる理想主義は、必然から逃げている嘘いつわちにほかならぬ。
 ―――そうではなく、必然を愛すること・・・


・過去の起こったことまでも救済し、すべての「あった」を作り変えて、「私がそう欲したのだ!」にしてしまう。
 ―――これこそ私から見てはじめて救済と呼ばれるべきものであろう。


・「酷薄であれ!」という命令、創造するものはおしなべてみな酷薄である、
 という最奥の確信、これこそがディオニュソス的天性を持つ者の本来のしるしであるといえる。