最近お袋が倒れた。

視覚聴覚の麻痺から来る、極度の目眩。



実際、命に別状はない病気ではあるが・・・



やはり辛いものがある。



そこで考えるのはやっぱり・・・




自分に出来ること。自分に出来ることってなんだろう。


それはやっぱり音楽なんだと思う。


見舞いや、フォロ-はもちろんしなきゃいけないと思う。でも

それ以外になにが出来るか。


音楽でなにか伝えられれば・・・音楽でなにか救えれば・・・



そう思っている今日この頃。



だから、冷たいと思われても、俺はいつでも自分の音楽を追求する。それしか出来ないから。

そして、それを聞いてもらい、何か力になれれば。

そう思いました。

心身ともに、疲労困憊。かなり疲れ気味。

そしてかなりイライラしている。



早く答えを出したい。でも、焦ったってなんの解決には繋がらない。自分のおぞましいエゴに、嫌気がさしてくる。


好きで好きで仕方ないから、ここまで来た。なのに、なんでこうも歪んでしまうんだろう。

ただただ純粋に想っているのに、自分のエゴや欲が関与し、姿を変えてしまう。





でも、やめたらそこで終わる。本当に愛しているなら、つらい時期も付き合わないと。


そう、自分の可能性を信じないと何にも始まらない。

大切なのは、その時の想い、想いを繋ぐ意思、意思を信じぬく心。あとは体が自然に動いてくれるはずだ。




先が見えないから不安。でも、言ってしまえばそんなのはどんな状況でもいつだって付いているもの。意識の問題。



過去にとらわれすぎず、未来に希望を抱きすぎず、今を一生懸命響かせる。


そう、今を・・・






がんばれ自分・・・

※これは自分自身に対してのコメントです。

私は時折、人のオーラや色を感じることがあります。しかし、それは認められない出来事。じゃあ、自分は嘘つきなのか?虚言癖があるのか?

そんな事を考えて、ツラツラ述べて見ました。

気長に読んでください。






UFOを見たとか幽霊を見たとか、気やオーラ、天使や妖精など、本当は見てもいないのに、見たと言う人がいます。そういう発言を一度してしまうと、見ていないはずなのに、実際に見たような気がしてきて、想像に過ぎないことを、現実だと思い込み始める。もう、そのときには、最初からずっと見えていたと、自分でも信じて疑わなくなってしまう。


人間の脳というのは、想像に過ぎないイメージと現実の区別というのは非常に曖昧で、実際に見ていなくても、「見た」と思い込んでしまうことは極ありふれたことなのです。ロールシャッハテストのように、無意味なインクの染みのような模様に意味を見出してしまうのが人間なのです。


「嘘」によって生じたパラレルワールドは、なかなか自分の思考の外側の世界にまでは浸透しにくいのでしょう。自分の中では実在するはずのものが、周囲にはなかなか認められない。だから、必死になって自分で証拠を探し回って、ますますムキになってあちこちで発言しまくるようになる。超常現象研究科がでしゃばりなのはそういうことなのでしょう。彼らは、真実を訴えたくて声を張り上げているのではなくて、自分が他人に認められたいだけなのです。

こころに寂しさを感じているときは、嘘によって他人の注意を引こうとしがちです。他人に認められたいという願望(欲望)は、最近では「自己実現」という言葉で説明されていますが、人間の本能的なものです。その願望が正常に満たされていないと、「虚言癖」などの症状として現れてきます。


・・・「オーラを感じる」なんて言ってしまう私の発言も嘘に見えてきてしまいますが・・・

誤解を生じやすいので使い方には気をつけなければなりませんが、「オーラ」とか「霊」という言葉で「見えないもの」を表現しているだけならいいと思います。あまり「見える」ことを強調し始めると危険ですけどね。


大切なのは、そこにオーラや霊のような何かが存在することではなくて、そこにある人のこころの動きを感じ取ることです。


嘘をつかなければならない人は、こころの中で誰かに助けを求めているのです。そんな彼らを許し、救いの手を差し伸べてあげられたらいいなぁと、思っています。

ライブを何回もしてきてやっぱり思った。頭じゃないなって最近思った。

音楽とか芸術とかって頭じゃなにも言えない。経験してナンボって感じた。

もちろん、好き嫌いはあると思う。他人の芸術や音楽を批判することももちろんある。僕も好き嫌いあるし、批判することもある。
そもそも批判することはいけないことじゃない。でも、当たり前だけどその人の芸術までは変えられない。もし、変わったと感じたときは、きっと自分が変わったんだなって。

それに、口で言葉で語るんじゃなくて、音で語らないとって。だって、アーティストなんだから。舞台人なんだから。表現して、それで語らないと、なんて思ったり。


もちろん、基本、基礎、原理原則、これは当たり前に必要なこと。
でも、そこから先は?
創造、感情、好き勝手。
昔の人で、こんなこと言った人がいた。

「芸術は爆発だ」

確かにそうかもしれない。
結局のところ、自分自身の表現なんだから。


批判するならすると同時に、受け入れる許容も欲しいな、なんて思ったり。

全面否定じゃなくて、いいところはいい、でそのエッセンスは大切にして、合わないところは知識として蓄える。みたいな感じ。

きっとそういうのが出来ると、私生活の自分自身も理解できるのかなって。いわゆる、セルフコントロール。そしたら人にも自分にもやさしく出来るのかな(^^;なんて思ったりした。
先輩だろうと後輩だろうと、年の差とか関係ない。


「相手を認め、自分も認める。」


こういうのが今の自分に足りないのかな。


言葉足らずな感じになってしまった・・・。


「批判し、尚且つ認め、受け入れる。そして合う合わないを選別する。」


こんな感じかな。

今所属しているバンドや、イベントに誘っていただいたバンドに感謝。貴重な経験をありがとうございました。

また始まりました。僕の思考回路が働きます。

今回は愛について。

愛情とはなんぞや?
愛する
愛している
愛して欲しい

そもそも愛とはなんだろう・・・

※これは完全な個人的解釈ですので、悪しからず。

個人的な解釈は、幸せという感情と少し似ているんです。誰かを想う心。

そしてその想う心は、求めるものではなく、感じるもの。


一緒にいて、体を重ねて、触れ合って、幸せ。個人的な私欲を満たし、満足。そしてその行為が愛している、愛を与えている、又は愛されていると思う。果たしてそれは愛情だろうか?


上記のものを仮説したのであればそれは、愛情ではないでしょう。

確かに触れ合ったり、体を重ね、肉体的な関係を持つ。これは愛情表現の一つですし、大切なことだと思います。
しかし僕が言いたいのは、肉体的な関係を持つことがいけないと言ってるのではない。
個人的な願望や私欲を満たし、それを愛だと思う。これが全てでしょうか?これが愛するという行為でしょうか?
僕は、これは単なる我侭に過ぎない。私欲を満たすだけ。対人間関係で、私欲を満たすと言うのは相手に多かれ少なかれ迷惑をかけてしまう。そう思います。

そもそも私欲というのは、自分自身の力で満たすものだと考えます。我侭を言ったらいけない、というわけではありません。ただ、全てが自分自身の我侭や私欲を満たす、こうなってしまうと大変なことになってしまう。ということです。あれが欲しい、これが欲しい、あれして欲しい、これして欲しい、そればかりじゃ付き合っているほうも疲れちゃいます。
あれが欲しい、なら自分の力で手に入れる。
あれして欲しいなら、そうしてくれる人を探す。又は自分からして欲しいことを相手にする。
等価交換の原則ではありませんが、それを得たいならそれ同等の代価が必要、多かれ少なかれ当たっていると思います。
もし仮に対人間に対して我侭や私欲を満たしたなら、それ同等の代価は?「ごめんね。ありがとう。」。気持ちのこもったこの一言は、上記以外の同等の代価になり得ると思います。


話が反れました。
では、無償の愛、というのは本当に存在するのだろうか?

難しいところです。子供に対しては無償の愛や自己犠牲の愛に近いと思いますが、子供も無意識ながら親には愛情を与えているもの。
大人同士なら?
僕はギブ&テイクだと思います。誰だって人間に生まれたからには愛されたいもの。片方だけの愛情じゃあ成り立たない。
大人であれ子供であれ、これは数学的だと思う。全ての愛は等式の両辺のように、愛すること、そして愛されることが、ほぼ等しい。


つまり、どちらかだけが愛し続けるというのは難しいことだと思います。私欲を満たし、満たされた自分に酔い、愛されている、愛していると思ってしまう。
そうではなく、愛情って言うのは、ただ単純に相手の事を想う、こういうことだと思います。愛しい、心配、大切、これらの感情の動きは全て愛に当てはまると、僕は思います。


最近良く起こっている幼児殺害。嫌な事件です。しかも実の母親が殺害した。とっても悲しい出来事です。
こういう事件が起こってしまうのは、殺害者の幼児期に親からの愛情を受けられなかったからでは、と推測します。幼児期の親からの愛情は大人になった時に大きく左右されるのではと感じます。
幼児期に愛情を注がれず育ち、そして自分の子供に対して愛情を注げられない。これはとても悲しいことです。本来なら極当たり前の事がこんなにも屈折してしまう。
時代が進み、物質的に満たされた今の生活の中で「幸せ」や「愛」というものに反応する力が弱まっているのかもしれない。そんな生活の中で愛情を注ぐ、ということも変わり果ててしまったのでしょうか?


皆さんにとって愛とはなんですか?

現実的不安と精神的不安

僕的解釈では、不安は二種類ある。
現実的不安と精神的不安。


現実的不安は、この先大丈夫か、稼いでいけるか、二股かけてないか、誰かとXXXしてるんじゃないか、などなど、事実として起こりうる事に恐れる気持ち。

精神的不安は、どう思われてるんだろう、どう感じてるんだろう、こんな事感じているんだ自分、みたいな相手の心や自分の心の感じてる事への恐れる気持ち。


現実的不安は逃げようにも逃げられない事、つまり事実だから、なんとかせざるを得ない。というよりなるようにしかならない。逆を言えば、事実なら打開策は意外と見つかる。


しかし厄介なのは精神的不安。これは、見事に現実的不安とリンクしている事がほとんど。そして大半が人間関係からくる。
相手の感じてる事や心、想いなどがわからないと起こったり、自分の感じてる事や心があまりにも惨めで、脆い自分を目の当たりにした時だったり。こうなると普段なら乗り越えられる不安も、やたら高く見える。つまり心が不安定だと現実的なものも乗り越える意欲が少なくなりやすい。
逆に安定してくると、いつも以上の力を引き出してくれたりもする。

じゃあ精神的不安を無くす為には?
対人間の場合は、とにかく、相手を信じる、信じられるような行動してる、又は自分を信じてもらう、信じてくれるよう努力する。つまり、お互いにお互いを信じ、お互いにお互いを信じてもらえるよう努力する。
これがあって初めて信頼が生まれるんだと思う。そして精神的不安も少なくなるのでは。
また、対自分自身の場合、自分の気持ちや今の状況、そして自分自身を責めすぎない。なるべく自分自身に利益がある方へ導く。只でさえ望んでなくとも嫌な事、辛い事は振りかかってくるものだ、だからこそなるべく自分自身に優しくする。一人で出来なかったら誰かを頼っても良いと思う。誰かに話して、少しでも楽になったりするならその方が良いだろう。以前も話したが、誰かに話すということは、自分の存在の確認も含む。自分の存在を確認したうえで、悩みや不安を話すということは、かなりの安心感を得られるであろう。

現実的不安にしても精神的不安にしても、辛いことや悩み、不安を誰かに話す、ということは、自分の存在も確認でき、その悩みや不安を吐き出す、すなわち言葉にする、と言うことは整理が出来る。結果的に、楽になる要素が多い。

しかしながら不安とは厄介なものだ。

しみじみそう感じた。

今日は何故か頭が働く日。そんな中考えることは今の自分。今の自分をじっくり見てみた。寂しい。良く聞く言葉の一つ。僕も良く言うし良くそう感じる。しかも最近やたらとそう思うことがある。夢や目指すことがある、それに一生懸命打ち込んでいる。なのになんでそんな事を感じるのだろうか。結局何を欲しているのか。自分に何度も何度も問い、今回はすんなり自分の答えが出た。しかも結構理に適う。(先に言っておきますが、これはあくまで僕個人的な意見ですので悪しからず)

寂しさってのは誰かの中に自分の存在があるかどうかを確認したい気持ちなのでは。それをたくさん欲する心の動きなのでは。


この答えが自分からすんなり出た時はかなりスッキリした!まぁ、実際いろんな寂しさがありますし、答えは一つではないです。でも今の自分に見事に当てあまるものが自分の頭の中から、客観的に且ちゃんとした(?)言葉として出てきたのですから。こうやって言葉に出来ただけ、少しだけ整理出来るようになったのでは、と思いました。

前は(今でもあるけど)こうだった。


自分自身の中にある穴(心の穴や自信がない、弱っている部分)を『相手の存在・もしくは言ってくれる言葉や行動』などで、『埋めてくれる・自信が生まれる』又は『埋める力・自信を生む力』のきっかけを与えてくれる相手や存在を求める欲求動作。更にはその欲求動作が、確実に手に入らない、とわかっていながらも『欲する・期待してしまう心の動き』ではないでしょうか。


これも一つの寂しさ。でも、僕の場合、『単なる我が侭』になってしまう。自分の嫌な事や、やって欲しくないことを伝える、知ってほしい、という部分では良いと思う。でも度が過ぎると、自分自身のエゴを全面に押し付け、重荷を背負わしてしまう。
更に具体的に言うなれば、その穴を埋める事によって、何が変化(とりわけ好転)するのか。
穴を埋めるという行為そのものが、好転するか否かは別にし、その行為をする事又はされる事に満足感を感じるんじゃないかなと。少なくとも僕はそうでした、今もその部分はあると思う。全部度が過ぎるとだけど。

だから何?

って部分もあった。でもこんな風に言葉に出来たことによって、自分の心と向き合えて、少し自分の事を知れたような気がする。
セルフコントロール、一番長い付き合いの自分、良く知っているようで知らなかったりする。そんな自分を意のままに、操る?動かす?んーどれも当てはまらない・・・自分を知る。嫌なところも良いところも。それがセルフコントロールの第一歩なのかもしれませんね。

時間がない・・・これって良く耳にする言葉のひとつですよね。でも僕はこう思うんです。

時間を作る力がない

こう思うんです。
時間は作るもの、どんなに忙しくても事前に調整し、余裕を作る、その時間を有効に使う。これって本当大切なことだと思います。学生の場合ですと、授業や時間割というものがありますからなかなか難しいかもしれませんが、でも出来ないことではないと思います。その余裕を作る、時間を作ることによって自分の時間が出来る。音楽をする時間にする、寝る時間にする、友達恋人に会う時間にする、買い物する時間にする。用途はさまざまではありますが、自分の時間が出来る、というのは、とても重要なことだと改めて思います。その分楽しみが増えるわけなんですから。一日に楽しみがある、これってとっても幸せなことだと思います。
こういうことが出来るようになると、人生捨てたものじゃないって少しでも思えるようになる。これって凄いことだと思いますね。小さな一歩ではありますが、意味ある一歩。なかなか難しいんですけどね・・・
こんなことが出来たら楽しくなるでしょうね~

幸せになりたい。良く口にしますが、果たして幸せって与えられるものなんでしょうか?
たとえば、人間が目という器官だけでものを見るようになってから、額にあったという第三の目の能力を失ってしまったように、物質的に満たされた今の生活の中で「幸せ」というものに反応する力が弱まっているのかもしれない。
自分を顧みても、溜息をついてしまうようなことばかりに、ついつい意識が向いてしまう。
そうとは気づかずに見過ごしてしまった、たくさんの幸せ。それらはどこにいってしまったのでしょう・・・
たぶん、幸せは現象ではなく能力なのだと思う。幸せを見つける能力、感じる能力、作り出す能力。僕はそう思う。そう思うと、自分は幸せになれると信じられる。

例えば、今の自分の生活の質、仕事、人間関係、家庭環境について、不満があってそれを変えたいと思っている。「でも出来るかな、自分にはそんな力がないんじゃないかな・・・」不安にもなるでしょう。
僕たちが今の状況に置かれているのは、もしかしたら偶然ではなく、必然なのではないでしょうか。自尊心の度合いに応じて、自分にふさわしい人間関係や状況に自分を引き込んでいるのでは、と思うんです(ただし、それは無意識の行為だから、意図的にほしいと思っているものとはかけ離れているかもしれない)。
ちゃんとした自尊心を持っている時は、他人からの敬意や協力、友情を期待し、しかもそれらをおおよそ得られることが多いが、自尊心が乏しい時はは居心地の悪い不快な状況に巻き込まれることが多い。けなしあうような事態さえ招いてしまうのは、そういう理由なのではないでしょうか。
じゃあ、人生を好転させるためには?僕は自尊心を高めることに集中する。そうすれば幸せになろうという思いが強くなる。自分はより幸せになるに値する人間だと確信できれば、あとは自然と自分から幸せを生み出していくんだと思います。「大丈夫、必ず幸せになれる」って信じられるようになっていくんだと思います。

見上げた空が、ただただ青く澄んでいた。それだけで幸せ、と、いつから感じられなくなってしまったんでしょう。忙しい仕事や、煩わしい人間関係や、ままならぬ恋や、将来の不安や、現在の不満・・・そんなことばかりが胸の中を占めて、幸せに繋がる回路がこんがらがっていたようです。
けど今、僕はなにやら肩から力が抜けて、吐き出す息もどこかほのぼのしています。少しだけ、幸せへの回路が、復興しはじめたようです。それがとても嬉しくて、とてもありがたい。この場を借りて・・・

みんな、ありがとう。

人間の目に見えるものは、まやかしが多いと思う。目に見えるものは、ごまかしがきく、綺麗に見せようと思えばいくらでも綺麗に見せられて、汚く見せようと思えばいくらでも汚く見せることは出来る。整形だってできる時代だしこれだけダイエットやらいろんな事が普及しているんだ、それに美しくなることで人生を明るくしようとしている人もいる。でもそれが一番大事なのか?
建前的な美しさはとても脆い。その瞬間はとても魅力的で、思わず溜息が出てしまう。でもそんな簡単にはいかない。その場凌ぎの美しさは、簡単に崩れ去る。中身を除いてみたらドロドロだった、そんなことは良くあること。しかしそれを綺麗だと思ってしまうのも人間。目に見えるものはなんて当てにならないんだろう。
確かに綺麗なのは魅力的だ。思わず溜息が出ちゃうような、時に儚い、まるで花火のような、そんな姿。でも本当の魅力は内面から出てくるのではないだろうか?花火にしてもそう、常日頃の鍛錬や今までの経験、それに賭ける情熱。そういうの全部あっての美しさなんだと思う。美しくなることで自分の人生を明るくも出来る。現にそれで活躍している人はたくさんいる。だから、一言に「当てにならない」とは言い切れない。ただ判別が難しい。

その点視覚いがいの五感は素直だと僕は思っている。
音はその瞬間瞬間、一つ一つに心が感じられ、どう思っているか、どう感じているか、音の表情に出やすい、そして感じやすい。でも、音は目に見えないもの。瞬間で、後に残らない。
触覚、それも瞬間、触ればいつでも大きく変わらずに、何度触れてもその感覚は変わらない。変わるとするなら自分が変わったのだろう。でも、それも瞬間的なもの、時が経てば忘れてしまう。同じものをまた触ったらその頃の感覚を思い出すんだろうけど。
匂いも同じ、味も。目には見えないものばかり。でも、感じたものは確かなもの。

目に見えると安心するけど、まやかしが多い。目に見えないと不安だけど、確かなことが多い。


難しいですね、事実は事実としてありのままに受け入れるということが怖いのでしょうか。
自分の思い込みや、理想、悲観、その他もろもろの主観が入り、事実は多かれ少なかれ捻じ曲がっていく。そんなもんなんですかね、感情って。目に映るものはまやかしが多くて、感情は簡単に揺れ動いてしまう。

目の見えない人はどう感じるのでしょうか・・・気になります。