みことば -12ページ目

みことば090512

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。(ヨハネ8:37)
その人の内側にみことばがよく浸透しているかどうかは、その人の行動や言動でわかります。もしみことばを大事にし、何かあったらすぐにみことばを求める人は、みことばに心を静めてもらうことができます。


みことば090511

それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。(ヨハネ8:23)
イエスは天から地上にやってこられたのです。ところがイエスが人のすがたをしているために彼らはイエスが神であることがわからなかったのです。なぜなら彼らにはまだ罪があるからです。まず罪を告白しなければなりません。


みことば090510

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)
私たちには家庭において、仕事において、さまざまなパートナーを得ています。人は一人では生きていけないからです。結婚がその代表的なパートナーづくりであり、人がイエスと一体となることを現します。人は決して一人ではなく、イエスという最高のパートナーをすでに得ているのです。


みことば090509

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。(マタイ12:43)
からだというのは入れ物です。汚れた霊が勝手に入り込むこともできるのです。多くの場合、その人自身が知らず知らずのうちに汚れた霊の浸入を許しているようです。私たちはそのような霊に誘惑や攻撃を受けたとしても、内側にイエスを備えているならば、入り口で遮断することができるのです。


みことば090508

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)
目で確認できて、からだで感知できることは真理ではありません。イエスは私たちが世の現実ばかりに目をうばわれてしまうことを、みことばを通してやめさせてくださいます。目が見えるようになるというのは、真理を知るということなのです。


みことば090507

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。(ルカ18:1)
神を信じている者は何も悲観することもなければ、失望することもありません。みことばの中に神は住まわれていますから、聖書を開き、みことばにふれ、祈るのです。信仰は義務や課題ではありませんから私たちは自由意志によって求めるのです。ごく自然に神を求めることが大事です。


みことば090506

群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。(マルコ2:4-5)
イエスにほめていただいた信仰を大事にしましょう。罪が赦されてからも人間は苦悩しますが、惑わされず唯一のお方を見つめてゆきましょう。


みことば090505

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。(1コリ6:7)
不利な契約や、不本意なしうちを受けることがあります。そんなとき、憎んだりののしったりするのは自由です。けれどもそれらの事柄の奥底には必ずイエスの存在がありますから、まず向き合い、神のご計画であることに感謝し、イエスにゆだねるのです。


みことば090504

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。(ロマ7:15)
自分のしたいことがわからないのはよくあることですし、本来の目的から離れ、どうでもよいことに時間をうばわれたりもします。それはなにか目に見えないものに拘束されているのです。大事なことが見えなくなったなら、即座にイエスに祈り、導いてもらいましょう。


みことば090503

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。(マタイ6:5)
人前で祈るのが苦手な人は正常です。上手にはきはきとそつなく祈る人にむしろ違和感を感じるくらいのほうがよいです。イエスと二人きりのときにしっかりと祈りましょう。