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みことば090422

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)正しい人はイエス以外にはいませんから、罪人とはすべての人間のことです。イエスは私たちが罪人だとわかっていても友になってくださるのです。罪人だからこそ、なんとかして私たちが自分の罪に気づくようにと接してくださるのです。罪はイエスにしか処理できないのです。


みことば090421

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)
人々の模範であることが求められているわけですが、大事なことは行いばかりに気をとられてはならないということです。私たちの内側にイエスがおられるということが大前提なのです。イエスが輝いているのであり、それにふさわしい行いをするべきなのです。


みことば090420

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。(マタイ25:29)
イエスとともにある者は、常に恵まれた人生を送ります。それは物質的にも精神的にもです。そしてやがておとずれる次の世へもすみやかに移るのです。その人はイエスを信じてから変わったのです。最初から恵まれている人はイエスに気づきません。イエスを求めることがきっかけなのです。


みことば090419

彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ19:18-19)人には元々父母を敬う性質が具わっています。そしてその起源は天の父を敬うところにあります。父母を大事にすることは、神との関係を学ぶ上で非常に大事なことなのです。


みことば090418

私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』(ルカ16:28-29)
存命中、イエスのことやみことばを耳にしない人は一人もいません。問題は心に留めるかどうかです。強制的に振り向かせてもだめです。最終的に本人が自分の意志で選ぶしかありません。


みことば090417

ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19:30)
小さなことに度々つまづき、大きなことにも時々つまづくのが私たちの人生であり、そこかしこに神を見出すことが信仰者のよろこびです。このように順風であることだけが幸いではないということを私たちは聖書や摂理から学んでいるのです。今の世で豊かであってもなくてもいいのです。後の世にきちんと移ることが一番大事なのです。


みことば090416

この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。(申命記8:4)
とらわれの身からのがれるためには神の導きが必要です。もがき苦しんでいるときにも神は常にともにおられます。神は私たちの健康を守ってくださいますし、必要な物を与えてくださいます。どんな状況にあっても、神だけは私たちのことを養い、生かしてくださいます。感情よりも信仰が勝る生き方を悟らせてくださいます。


みことば090415

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカ16:10)
たくさんの情報、複雑な人間関係にまどわされて、大事なことを見過ごしてはいないでしょうか。私たちは神の財産をまかせられた管理人なのですから、神のことばやご計画に忠実でなければなりません。まずは多くを捨て、唯一をみつめるといった見分ける作業が今この時代には求められています。


みことば090414

その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」(マタイ17:27)
生活や職務における必要な支払いは躊躇せずに神に従う気持ちで臨みましょう。自分の資産が減るからといってがっかりするのは見当ちがいです。神に従うならば、見た目の資産は減ったとしても、それをはるかに超えたすばらしいものをすでに得ているのです。そのことに早く気づくべきです。


みことば090413

「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」(ルカ14:5)
ユダヤの教えは安息日にしてはならないことを細かく決めており、人々はそれを守ろうとしてたがいを戒め合いました。そこには喜びもなければ、神の香りすらしませんでした。安息日は主イエスの日であり、イエスとともに天の父がよろこばれることをする日なのです。