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みことば090601

管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。(ルカ16:3)
仕事を失う、あるいは取り上げられるというのは非常に悲しいことです。仕事がなくなると生活が苦しくなりますし、生きがいがなくなります。神が与えてくださった仕事を大事に管理し、忠実に仕えてゆくことができるように、祈りと知恵をフル回転させてしがみついていましょう。


みことば090531

このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ6:12)

人としてのイエスはこのように見えるかたちで父に祈られました。私たちのことを父にかけあってくださったのです。そして今、天に昇られたイエスは24時間、祈ってくださっています。私たちはイエスの祈りなしではバランスをくずし、地の塩としての働きをなさないのです。私たちは決して一人で生きるのではなく、イエスの絶対的な守りによって生きるのです。


みことば090530

それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マタイ8:13)
離れていても祈りというのはきちんと効果を発揮するものです。祈りというのは人間の想念によるものではなく、神の手によるものですから無限なのです。しかしながら私たちが神を動かすのではなくて、イエスが父に願うのが祈りの本質なのです。


みことば090529

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:12-13)
人は人のために命を投げ出して助けることはできても、相手や自分を復活させることはできません。いのちはイエスにゆだねるしかないのです。これは長生きの問題ではなく、永遠のいのちのことです。


みことば090528

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)
だれにでも性格の欠陥はあるものです。ですから自分が人の目にどう映っているかということを気にして、そればかりを自分で補おうとするのは、さらに自分を追いつめることになりますからとても危険です。自分を補うことができるのは唯一イエス・キリストだけなのです。


みことば090527

神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。(ヨハネ8:47)
この世には二通りの人がいて、一つは神から出た者で、もう一つはそうでない者です。言いかえると、イエスを知っているかどうかです。さらにはイエスを知っていても、受けいれているかどうかということです。たったそれだけの違いですが、まったく違うことなのです。


みことば090526

彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。(ユダ16)
たとえば日増しに財布の中身や銀行口座の残高が減ってきたとしましょう。神はそんな私たちのようすをつぶさに見ておられます。私たちはぐずぐず悩むのではなく、そのまますなおに現状を受けとめ、感謝するのです。現状への不平不満は、神への不平不満なのです。まず感謝するならば平安が生まれます。何より平安が財産です。


みことば090525

イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。(マタイ9:22)あなたの信仰がなおしたとありますが、では信仰とは何でしょうか。信仰とは人の中にイエスが住まわれた状態のことです。この娘が何か力を発揮して病がなおったのではなくて、彼女の内側においてイエスがわざをなされたのです。人はただイエスを受け入れ、イエスに身をゆだねるだけでよいのです。


みことば090524

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。(マタイ7:9-10)神は人がなにをほしがっているかをご存じですし、いつでもそれを与えたいのです。でも人がほしがるものは世的なものばかりなので、神は人がご自分をほしがるように、御子イエスという分身をあらかじめ与え、究極の時を準備されているのです。


みことば090523

イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。(ヨハネ14:9)
天の父のすがたを想像することはできません。存在自体が目に見えるものではないからです。実体としての父は、私たち自身の内側にある平安そのものです。