みことば090611
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。(ルカ23:46-47)
イエスが亡くなられたことによって多くの人々が信じました。人間は気づくのが遅いのです。けれども遅くていいのです。今このときが大事なのであって、今から信じてほしいのです。今さらではなく、今からという気持ちが大切です。
みことば090610
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ロマ8:28)
神を知る前は、幸運な出来事が起きると、自分はなんてついているんだろうとよろこんだものです。でも神を知ってからは幸運という概念はなくなります。すべて神のご計画だからです。良きことも悪しきことも神が私たちのために用意されているご計画なのです。
みことば090609
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ロマ10:11)
自分でかなえることのできる夢もありますが、あきらめなければならないことも多いものです。けれどもあきらめというのは自分の無力を知るよい機会でもあるのです。神にゆだねることを悟るからです。自分自身を神にあずけて生きることは本当に楽なのです。努力はすばらしい行為ですが、神にたよってこそ努力は活きてくるのです。
みことば090608
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(1ペテ4:8)
愛が私たちを防護してくれます。愛の正体はイエス・キリストです。今という時代が終わる前に、きちんとイエスによる愛を身につけ、そのときのために備えておかなければなりません。手でつかめる何かよりも、目に見えない領域、すなわち神の領域に信頼し、求めつづけていれば安心です。そこには平安と自由があります。
みことば090607
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイ10:22)
つい世の事柄をや風習を迎合してしまいますが、いざというとき私たちはイエスを選択します。ことばで告白し、行動で現します。世はそのようなイエスの意志による正義を嫌います。いかにも人が好みそうなやさしいことばで私たちをさそいます。みことばから離れていると罠が見えなくなります。日々みことばです。
みことば090606
イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」(マタイ20:21)
神は私たちに「欲ばるな」と言われます。私たちにまかせていると、とんでもないことを言いはじめますから、随所で神は戒められます。ただ戒めるだけではなく、自分の愚かさを後に知ることができるようにしてくださるのです。
みことば090605
シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」(ヨハネ13:9-10)
私たちはついつい、救われているにもかかわらず、くりかえし救いを祈り求めることがあります。もう救われているのです。十分ですよと、イエスは言われます。
みことば090604
さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。(ルカ4:1-2)
聖霊に満たされるというのは一面、若さに満たされるようなものです。若さは若者のためだけにあるのではなく、老いた者のためでもあるのです。若者に若さがあるのはあたりまえで、老いた者にはそれが不足しているからこそ必要なのです。つまり若さはイエスのようなものであり、聖霊を遣わして補ってくださるのです。
みことば090603
この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。(ルカ13:16)
自分が縛られていることに気づいていますか?自分が縛られていたことは、解放されたときに気づきます。解放はどのようになされるのでしょうか。それはみことばによります。聖書から得ることもあれば、適切にみことばを語るメッセンジャーから得ることもあります。自分にふさわしいみことばが得られたとき、すっと解放がやってきます。一気に元気になります。
みことば090602
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(マタイ19:63)
永遠のいのちは絶大です。ではその永遠のいのちを実感できる瞬間をごぞんじでしょうか。それは若さを知るときです。永遠のいのちを受け、それが日々のくらしの中でよくわかるのが同窓会です。しばらくぶりに会った友の中にはいると、少なくとも10歳、いや20歳は若いです。