みことば -7ページ目

みことば100612

父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』(ルカ15:31-32)
人間は神のこのような部分に対して困惑することが多いようです。まさに神の選民であるイスラエルの立場がそれです。すでに選ばれている、すでにすべてを得ているということをもっと理解すべきでしょう。

みことば100611

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。(マタイ6:31-32)
何を祈ってもかまいません。しかしながら身近の必要なものはもはや確保されていますから、もっと大事なものを求めなさいと神は言われるのです。

みことば100610

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5:3-4)
聖書には幸いということばはありますが、幸せということばを見つけることができません。なぜなら幸いは神から一方的に与えられるものであり、幸せは人間の側で感じとるものだからです。聖書が与えたいのは神ご自身からもたらされるものばかりなのです。それこそが幸いなのです。

みことば100609

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:5)

神は本来恐れの対象ではありませんが、恐れを超えてすべてにおいて手の届かない存在でありながら、守り育て、つきはなし、そして愛してくださる全能のお方ですから、わたしたちはこのお方をおいてほかにひれ伏す対象を持たないのです。

みことば091115

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。(1コリ12:6-7)
みなが合わさってからだは完成されるのです。今は自分が部分部分であり、いのちのかけらであることに気づかず、自分を誇っている人がほとんどです。その真理を今気づくか、後に気づかされるか・・その差は大きいです。

みことば090626

ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)
ザアカイは自分のしてきた罪に気づいたので、純粋にそれを反省しました。これは大事なことです。もちろん神が期待しているのは物質的な反省だけでなく、神の存在を知り、神の財産を人々に分け与えてゆくという本質です。


みことば090625

ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。(マルコ10:8)
まったくちがう系統のふたりが一体になることが結婚です。ふたりが一体になったことの証が子です。それは天からこられたイエスと、下から生まれた私たちが一体になることを表しています。私たちが天に籍を置く者として生まれ変わる唯一の方法が結婚です。地上の結婚はいのちの継承、つまりイエスとの結婚の準備なのです。


みことば090624

すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。(マルコ8:6)
イエスのからだが裂かれ、世界中の人たちにイエスが分け与えられたことを受けとめてください。七つのパンが四千人に分け与えられたことは、ただ奇蹟を現されたのではなく、とてもだいじな教えだったのです。


みことば090623

弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。(使徒14:22)
苦しみはこのように、あるひとつのゴールへ向かうための道しるべなのです。苦しみのたびごとに、私たちは主を思い、主にささえられ、主の方向へと進んでいることを確信するのです。ただ一方的に苦しみに遭い、ただ無意味に耐えているのではないのです。


みことば090622

それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ12:7)
自分はみじめな人間ではないだろうかと自信をなくしてしまうことがあります。だいじょうぶです。たとえ人があなたを見放しても、神は決してあなたを見捨てることはなさいません。神はいつでもあなたが神のもとへともどってくるのを待っておられます。あなたのすべてを神はご存じなのです。