『 アメリカの銃規制について思うこと 』
銃規制をすれば、事件は起こらなくなるのか?
たしかに、起こる確率は、0.001%くらいは下がるだろう。
しかし、
現在ただ今(2012年)より銃を規制したとしても、
すでに、銃はアメリカ国内に大量に出回っている。
出回っている銃を回収しようとすれば、
善人は自らすすんで差し出すだろうが、
悪いことを考えている人は、
あらゆる方法と手段をつかって保持しようとする。
また、
銃を規制すれば、
裏マーケットが大繁盛をしだす。
これまた、
あらゆる方法と手段を使って、
裏マーケットを拡大する。
善人は、裏マーケットで銃を購入しないが、
悪いことを考えている人は、裏マーケットを利用して銃を購入する。
全てにおいて共通するのですが、
規制というものをかければ、善人は、必ず守ります。
しかし、
悪いことを考えている人は、
その規制を破るようなことばかりを普通に考えますし、
行動も起こします。
銃規制をかければ、
善人たちは、平和を望み自らすすんで武器を捨てて丸腰になるが、
悪人たちは、あらゆる手段を使って、銃を保持するし入手する。
善人は、
たとえ銃を持っていても、
正当防衛の状態にならないと、
絶対に使用しないという安心感があるが、
悪人は、自らすすんで、
計画成就のために銃を使用する。
銃規制をかければ、
善人たちの99%は銃を持っていないだろうから、
その善人たちを狙って銃で脅せば、強盗もはかどると悪人たちは考える。
善人の家には銃がないという安心感があるので、
善人の家を意図的に狙って空き巣にはいれば、
ヤバイ時には銃で脅せるし、
イザという時には殺傷して逃げる時間稼ぎもできる。
ま、どちらにしろ、
銃を規制すれば、
善人は、銃を捨てるし、
悪人は、銃を捨てない。
法律を無視するのが悪人で、法律を守るのが善人です。
法律やら規制というのは、善人にしか効かないのです。
善人から銃を奪うのではなく、
悪いことを考えている人間から銃を奪わなければ、まったく意味がない。
悪人という存在はこの世には一切存在しない!
という前提が絶対的なものでなければ、
この事実的現実というものは永遠に変わらないでしょう。
ええ、
オバマ大統領は、
ついこの前に起きた銃乱射事件に涙し、
「大統領権限を使って、銃を規制する!」
と吼えましたが、
やっぱりオバマ大統領!!っと思いました。
さすが、
左翼思想をもった大統領というだけあって、
現実というものが理解できていないようですよね。
銃を規制すれば、善人だけが、それをマジメに守るのです。
核兵器の廃絶という視点でも同じく、
善なる国は、核兵器の廃絶をしよう考えるかもしれないが、
(↑世界のシステムと事実に疎い善人国限定)
悪なる国は、核兵器の廃絶なんて微塵も考えません。
オバマ大統領がプラハで
核廃絶を叫んでノーベル平和賞をもらっている時と同じ時間の流れのなかで、
北朝鮮は、一生懸命に核兵器の開発と弾道弾ミサイルの開発をしているのです。
正義の強国が核兵器を全部捨てたら、
悪の国が覇権をめぐって猛威をふるうのは可能性としても低くはありません。
正しき者は強くなければならないのです!
正義は悪よりも強くなければ悪から善人を守れないのです。
核兵器の廃絶にしろ、銃規制にしろ、
このへんの考え方は、まさにオバマ大統領です!
さすが、左翼思想をもった善人大統領です。
善人たちの支持に比例して、善人たちの安全も脅かされる。
まったく矛盾しまくりですよね。
これに気づけない善人たちにも責任があると思えます。
だって、その危険性に気づいて反対している人もいるのですからね。
ええ、
このような現実的な仕組みを理解できない人が
世界の警察官のトップだなんて残念なかぎりです、
いや、恐ろしいかぎりです。
ええ、そうです、
善人には、銃を自由に持たせたところで、
相当な危険が身を襲わないかぎり、
絶対に使用しないのです。
銃を規制すれば、持ってても安全な人ばかりが規制を守り、
持つと危険な人は、規制をくぐり抜けて銃を入手しようとする。
まったく意味がないどころか、
ますます、危険性が高まるし、かつ、
銃をもっている者たちの独裁性質が蹂躙しはじめます。
本気で銃規制をかけるのならば、
警察力を、最低でも、
今の100倍以上は拡大&強化しないと善人たちを守りきれません。
現実的に、そんな余分な金なんて政府にはないから、
多少は強化しても、必要数までは強化できないでしょう。
銃規制をかけることによって、
ますます、善人たちにとっては、不利で危険な世界が展開するのです。
こういう危険な未来現実を考えもしないで、
ただ、情だけに背中を押されて
「大統領権限を使って銃を規制する!」
だなんて言うオバマは無責任すぎますよね。
一般の人々には賛同されますし、人気も上がるでしょうが、
現実的には、
善人たちの危険性を、理想裏腹にも増大させているのですよね。
これは、まったくまるで、
日本の左翼思想者たちが一生懸命に護りたがっている
憲法9条を護りきった挙句の世界と同じ理屈が成り立ちます。
中国も北朝鮮も30年前とはまったく違いますからね。ええ。
30年前と同じ国だと認識する心が日本を危険に陥れます。
ええ、
今現在は、アメリカという警察力に依存できているから、
丸腰状態な日本でも、なんとか平和を築けていますけども、
3年半くらい前の日本の風潮は、
アメリカから自立しろ!
日本から米軍を追い出せ!
なんぞと、
後先考えもせずに平気で言っていた国ですからね。
さすが、左翼政権の民主党でしたよね。
ええ、
銃 (抑止効果抜群の軍事力) も持っていないのに、
警察(アメリカ軍)も追い出そうとするだなんて、
まったくの自殺行為でしょうに。
そんなバカなことを、
大手マスコミまでもが挙って世論を扇動していたのですからね。
日本のマスコミって、ホント、バカですよね。
バカと言わざるをえない理由は、
起こる可能性は10%かもしれないという低確率な危機なる未来現実を、
端から軽んじて本気では受け付けられないという思考しかできないからです。
平和を望んでいるくせに、行動は平和を脅かしている。
これを、バカと言わずに何と言いますか?
左翼思想をもった人というのは、
みんな、こんな考え方をします。
左翼思想者というのは、
憲法9条に対してもそうですが、
アメリカの銃規制に対しても、
きっと、同じような考え方をすると思います。
ホント、リサーチしてみてほしいくらいです。
左翼思想をもった人の大半は、
善人だし、学問的に頭のイイ人も多いのですが、
やはり、どうしても、超えられない壁がありそうですよね。
現実的であらゆる危機・危険の可能性を考慮した
生々しいシュミレーションがまったくできないようです。
他人のことを、自分の延長線上に考える人が多すぎるのでしょうね。
あと、
依存している事実に気づけないほど、自我力信仰心の強い人が多いのでしょうね。
その視点以外からは物事を見れないのでしょうね。考えられないのでしょうね。
多角的な視点が欠如しているのでしょうね。
だから、現実的な判断ができないのでしょうね。
残念すぎるかぎりです。
憲法9条といえば、
日本の左翼思想者の考え方は大体共通しています。
そう、
「なんとしても世界から戦争をなくさなければならない!」
「なんとしても戦争をやめさせなければならない!」
「だからこそ、憲法9条なのです!」
この論点、常識的に考えて、変だとは思わないだろうか?
ええ、
世界で憲法9条などという憲法があるのは日本だけなのです。
「なんとしても戦争をやめさせる!」
「だからこそ憲法9条なのです!」
だなんて、まるで、戦争が起こる起因は、日本のみ!
「危険国日本の武力にさえ規制をかければ、戦争は起こらない!」
っと、遠まわしに言っているようなものですよね。
そんなに日本人って、危険な民族なのでしょうか?
拘束着を着せないと、
暴れて他人に危害をくわえるような民族なのでしょうか?
憲法9条護憲派の人の考え方って、結局、そういう事になりますよね。
「なんとしても世界から戦争をなくさなければならない!」
というのならば、
日本ではなく、
中国に行って、憲法9条をすすめてください。
北朝鮮に行って、憲法9条をすすめてください。
イランに行って、憲法9条をすすめてください。
シリアに行って、憲法9条をすすめてください。
日本での勇ましさをそのまま維持して、
上記の国々に乗り込んでください!
せっかく、それなりの団体名を掲げているのですから、
今現在、戦争を起こしている国や、
戦争を起こす危険性のある国に命懸で乗り込んで、
憲法9条をすすめてください。
それができないのならば、
内弁慶的な言動はつつしんで下さいな!
ええ、
日本が憲法9条を護れば、戦争がなくなるという考えは、
普通の常識人であれば、
まったく狂信的な考え方だと判別できますよね。
大地震があってもモラルと規律を守るという
こんな安全な日本民族に対して、
「憲法9条を護れば、戦争が起きません!」
だなんぞ言って、申し訳ないと思わないのでしょうか?
それはイコールで、
日本民族は残虐性と危険性を潜めた民族だと言っているのと同じなのですよ。
左翼思想者というのは、日本人をやっているくせして、
日本人のことを理解していないのではないでしょうかね?
彼ら彼女らの言動をみてると、そうとしか思えなくなりますよね。
そう、
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に刻まれている碑文の、
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
という文脈を、
??もなく普通に受け入れられる人の神経も疑いますよね。
原爆は日本が広島に落としたのではなく、アメリカが日本に落としたのです。
被害国なのです。
なのに、なぜに、この碑文?
これを納得できる日本人は日本人ではないと思います。
憲法9条もこれにつながります。
憲法9条を改正すると、過ちを繰返す日本になるという論法です。
まったくのスリカエ論法です。
この碑文を、普通に認識し、納得できる=日本人は邪悪性を秘めた民族だ!
ということになりますよね。
ええ、
日本人邪悪説やら自虐史観やらが、
教科書にものるくらいに世に蔓延っていますが、
南京大虐殺とか従軍慰安婦問題とかやらは、全部、嘘ですからね。
これらの発端は、
アメリカが原子爆弾という悪魔のような兵器を使って、
一瞬で、日本人を大量虐殺しました。
アメリカは、日本に勝ちました。
アメリカにとっては、
このような悪魔のような兵器を使用してまで日本人を大量に殺し、
そして勝利した事実を、
正当化しなければならないのですよね。
日本人が立派な民族であっては、
原子爆弾を使用してしまったことの正当性が保てないのです。
この事実を正当化しなければ、
アメリカの行為も、
ドイツのヒトラーの大量虐殺となんら変わらなくなってしまうのです。
だからゆえに、
アメリカは、
政治的なプロパガンダをして、
日本人を邪悪な民族だと世界的に宣伝した。
そのために、
アメリカ政府は、作家などを使って、
南京大虐殺など、ありもしない事実を捏造して、
日本人は邪悪な民族だと宣伝した。
そのアメリカのプロパガンダが自国にとって好都合に思えた中国や韓国が、
ある時期から突然、南京大虐殺やら従軍慰安婦問題やらを吠え出した。
従軍記者はどこの国の軍隊にもついているし、
そんな大規模な事件であったと宣伝されているにもかかわらず、
戦後当時は、
どこの国からも、そんな話をする者はいなかったし、噂話すらなかった。
アメリカのとある作家の出した本から火がついて、
今まで何にも訴えなかった中国やら韓国やらが、
それに便乗することが国益と考えて吠え出した。
それが事実の事件だとしたら、
アメリカ以外の国からその話が拡散するのです。
日本人が中国人を30万人も虐殺したなんてことが事実だとしたら、
黙っていられる人なんていないのです。
緘口令がしかれていても、絶対に、どこかしらから漏れるものなのです。
なのに、
中国からも韓国からも日本からも、しばらくの間、そんな話はなかった。
その話が急激に盛り上がったのは、
アメリカが自国を正当化するために、
日本民族を邪悪な民族に仕立てるというプロパガンダに、
中国と韓国が便乗したと考えるのが普通なのです。
南京大虐殺の証拠といわれる写真とかだって、
プロパガンダ用に偽装されたものを使用したのです。
従軍慰安婦問題だって、
何万人もいたと言われているのに、
訴えているのは、老女が数人です。
従軍慰安婦が何万人もいて、
日本軍人に酷いことをされ、
13歳くらいの少女までが無理矢理
性の奴隷にされていたということが事実であるのならば、
その当人や親や親類などを合わせたとすれば、
最低でも、何千人の人が、訴えてくるでしょう。
なのに、数人の老女しか訴えていません。
数人たらずの老女の証言だなんて、
そんなの証拠でもなんでもありませんし、
それを信じるのも不自然すぎます。
なんらかの密約でもないかぎり、
疑問に思うのが常識人の思考です。
ええ、
それらの事件や問題の証拠はありませんが、
日本軍に感謝する中国人の証言は、けっこう、あるのです。
批判はタダでしたがりますが、
感謝をタダでする人はなかなかいません。
ま、それらの事実解明には、もう少し時間がかかるものとして、
ええ、もうホント、
証拠もないことを信じ込んで、
自虐史観するような無知・無能っぷりから脱出して、日本人は賢くなるべきです。
外国の陰謀を見抜ける賢い日本人になるべきです。
日本人は、日本に住んでいるのだから、
日本人を邪悪な民族だと思ってはいけません。
日本人は、本来の、賢くて強い日本人に再びなるべきです!
ええ、
アメリカの銃規制の話から、このような話にまで展開しましたが、
底を流れる危険性は、まったくの共通性を秘めているので、
耳ざわりのイイ言葉には手放しで飛びつかないよう気をつけていきましょう。
『鍛えるのは、暗示力です!』
他人から与えられるという外部依存という形ではなく、
自家発電的に自分の心の中が幸せ感覚で満たされる。
この精神状態を維持できるようになると、
外部的なできごとまで、不思議と自分の願う通りに展開しやくすなる。
逆に、
「~与えて欲しい!」「~失いたくない!」などという、
完全外部発電的な幸せ感覚にしがみつくようになると、
失いたくない!というものの大半が失いやすくなり、
与えて欲しい!ということの反対ばかりが与えられるという、
これまた不思議だが、
不幸な気持ちにトドメを刺されるような現実が展開しやすくなる。
これは、自分の経験と体験から、
「まさに、このとおりだった!」という事実を語っているのだが、
おそらくでもなく、人間という生き物であるならば、
みんな、この、
法則性といえしプログラムが組み込まれているように思えてならない。
世界中の人々に、
「上記のような経験をしたことがありますか?」とリサーチしたら、
高い率で、
「うんうん!そうそう!あるある!」という回答がかえってくると思う。
分からないという人は、
自分の人生を客観的に分析できていないだけであって、
改めて、自分の人生を客観的に分析すれば、
「ああ、なるほど!そういえば!!」と、
わが人生に心あたりがあり!という感覚で
この法則性を薄っすらと認識できたりもするでしょう。
持てる者は さらに与えられ
持たざる者は さらに奪われるという、感覚と法則性
調子がイイときは、とことん調子がイイが、
調子が悪いときは、とことん調子が悪い。
運がイイときは、そのイイことが波及的に続くが、
運が悪いときは、その悪いことが波及的に続く。
自家発電という、外部的な影響を受けない幸せ感覚を維持できる人と、
外部発電という、外部の動向に依存しまくった幸せ感覚にしがみついている人。
おそらく、皆は、思うでしょう。
自家発電的な幸せ感覚なんて、どうやって得るのだ??
、とね。
ええ、それは、暗示によって得るのです。
暗示というと、非科学的で、摩訶不思議なものに捉えやすいですが、
暗示というのは、
すなわち、繰り返し繰り返し考え込んでいること、思い込んでいることなのです。
その行為が、自分に暗示を与えるということなのです。
いつも楽しいことばかりを考えたり思っている人は、
常にプラスの自己暗示を自分に与えていることになるし、
いつも暗いことばかり考えたり思ったりしている人は、
常にマイナスの自己暗示を自分に与えていることになるのです。
楽しいことを考えている人は、
幸せそうに映るし、実際、運のイイ人だったりもしているでしょ。
暗いことばかり考えている人は、
不幸そうに映るし、実際、運の悪い人だったりもしてるでしょ。
プラスの自己暗示は、結果、幸せを引き寄せるし、
マイナスの自己暗示は、結果、不幸を引き寄せる。
そう、
なんだかんだ言われようが言われまいが、
人間の精神形成は暗示によってなされているのです。
暗示というのは、そう、
通常は、外部的な体験や経験から得た感覚や感触を、
言葉や思いに変換して、
自分に対して意識的にも無意識的にも与えます。
通常の人は、
その人の幼き頃からの体験と経験という視点からのみ、
その人の精神形成を判定したりとかします。
たとえば、
親が子供に対して、無条件に愛を注いでいたから、
あのような素敵な人間に育ったのだとか、
親が子供を虐待していたから、
あのような犯罪を犯すような人間に育ったのだという視点で、
その人間の精神形成を判定したりしますが、
それよりも一歩踏み入れた、
その体験や経験から受けた感覚、すなわち、
「愛されている」とか「愛されていない」という思い ( 暗示 ) を、
その子供が、無意識的にも、繰り返し繰り返し、
自分に与えていたからなのだという事実までは考えなかったりもしています。
そうなのです、無意識的にですが、
赤ちゃんであっても、自分に暗示を与えているのです。
「自分は愛されてる」という暗示を自分に与えて育った子供は、
自己肯定的だし、満たされているので、
他人に愛を分け与えられるような人になるのです。
その愛の行為ゆえに、ますます、人々に愛される結果となるのです。
「自分は愛されていない」という暗示を自分に与えて育った子供は、
自己否定的だし、寂しいし悲しいし不満で不満なので、
他人から愛を与えられることばかりを考える人になってしまうのです。
不幸感覚が強いからゆえ、
他人の幸せに嫉妬したり恨んだりしてしまうようなことばかりして、
皆に嫌われたり、自己嫌悪が強まったりして、
不幸迷路から脱出できないような悲しい自分になったりもしてるのです。
そうです、
体験や経験は、そのキッカケでもあり、引き金となるのですが、
実際、自分の精神形成に影響を与えるのは、
暗示なのです、暗示の種類なのです。
そう、
体験や経験によって得た感覚であっても、
それを、繰り返し繰り返し思う、すなわち、
繰り返し繰り返し暗示しなければ、
自分の精神形成に影響を与えたりはしないのです。
繰り返し繰り返し思う、すなわち、
自己暗示を自分に与えるから、
自分の精神形成に影響を与えるのです。
肯定的に思いこむ、すなわち、プラスの暗示を自分に与えている人は、
幸せな思考ができる人に成るでしょうし、
否定的に思いこむ、すなわち、マイナスの暗示を自分に与えている人は、
不幸な思考しかできない人間に成るでしょうし、とね。
そう、
赤ちゃんの頃から、親に愛情をいっぱい注いでもらった人は、
その体験から、
「自分は愛されている!自分は必要な存在なんだ!」という暗示を、
無意識的にも自分に与えています。
逆に、
親から虐待されて育った子供は、
その体験から、
「自分は憎まれている!自分は必要とされない存在なんだ・・」という暗示を、
無意識的にも自分に与えています。
そう、
何度も言いますが、要は、暗示なのです。
赤ちゃんの頃は、考えて判断とかできないから、
親などから受けた感覚をそのまま暗示として自分に与えますが、
ある程度成長すれば、
個性も強くなるし、
自分なりに考えて判断できるようになるので、
その時期々々年代々々で受けた感覚は、
自分でちゃんと判断判別して、
よき暗示を自分に与えるように気をつけなければなりません。
繰り返し繰り返し考えることや思うことが、自己暗示となるのです。
マイナス的なことを繰り返し考えているという事実が、
マイナスの自己暗示をしているということなのです。
人間の精神形成は暗示によってつくられているのです。
大丈夫です!
過去に与えてしまったマイナスの自己暗示による精神形成も、
後天的な努力にて、
すなわち、
プラスの自己暗示を
マシンガンのように自分に撃ち込み(与える)続けることによって、
マイナス形成した性格を変えることができるのです。
要は、暗示の種類です。
幸せになりたい人は、肯定的な自己暗示を!
不幸になりたい人は、否定的な自己暗示を!
ふと気づけば、
悲しいことばかり考えている
不安なことばかり考えているというのは、
ふと気づけば、
自分が不幸になるための自己暗示を与えているという事実になりますので、
危機感をもって気をつけてください。
幸せになりたいのならば、
自分が幸せになるような暗示を自分に与えてください。
はじめに言葉ありき!
曰く、
はじめに暗示ありき!
です。
『 中国と北朝鮮を大人しくさせる方法! 』
憲法9条は、即刻、改正しないとヤバイですよね。
それは、まずは先に、
自衛隊で働く人の命とその家族の生活を守るためにです。
巷の政党には、憲法9条を改正すると、
戦争が起きやすい国になってしまうぞ!
なんぞと言って懸念していますが、
何をおっしゃいますか!
憲法9条というのは、
相手国から、何らかの攻撃をされないかぎり、
何の反撃もできないという、拘束着のような憲法なんですよ。
攻撃される = 誰かしらがケガをする。誰かしらの命が奪われるということですよ。
そんな憲法を守っていたら危険すぎるでしょ!
前線にたっている、自衛隊員の命とその家族の幸せが奪われるでしょ!
そんなこと、冷静に考えなくても分かる現実ですよね。
そんな鬼畜なことを、日本の政治家が扇動してもいいのですか?
今はもう、平和と言えば騙されてくれるというような国民も少ないのですよ!
今は、
左翼思想を持った識者たちの無用有害説が
認識されつつある世の中なのですから、
そろそろ、路線をかえたほうがいいですよ!護憲政党の政治家たち!
ええそう、
もうホント、
攻撃されないかぎり、
攻撃されると分かっていても、
何の反撃もできない憲法を必死に護っているだなんて、
そんな異常な現実があっていいのですか!
ま、今現在2012年の日本には、
そういう事実が現実としてあるのですけどもね。
ま、今までは、日本を襲ってくるような仮想敵国もいなかったので、
憲法9条を護っていても何の不安もなかったのですが、
今は、中国は日本の領土を異常な手法で盗ろうとしてきているし、
北朝鮮は、アメリカをも黙らせるような核ミサイルを
完成させようとしているような時代なのです。
昔とはまったく違った時代となっているのです。
きたる可能性の高い、
そんな恐るべし未来事実が何で分からないのかな、日本の左翼識者というのは!
こんなアホたちの力が、マスコミの中にも浸透しているので、
日本の政治家たちは、今のままじゃ日本はヤバイと分かっていても、
それを政策にすると、一気に叩かれて選挙に落選してしまうゆえ、
何にも言えない情けない状態に陥っているのです。
中国や北朝鮮という国は、皆さんご存知の通り、
ヤクザといわれる職業の方よりも性質の悪い国でして、
そう、話し合いという外交交渉がまったく通じない国なのであります。
話し合いの交渉で解決されるとしたら、
たとえば、
尖閣諸島は日本の領土ということにしてやるが、
そのかわり、毎月、1000億円、中国に支払え!
そうすれば、尖閣から手を引いてやるよ!
というような条件を理不尽にものまされるぐらいなものなのです。
もともと日本の領土なのに、
中国に脅され、その中国との仲を修復するために、
そのような、デタラメな条件をのまされたりとかという現実が、
話し合いでの解決という綺麗話の真実なのです。
もう、
日本の左翼識者というのは、
簡単に話し合いで解決とか言いますが、
世間知らずのアホとしか言いようがありません。
そう、
力の無い国にとっては、
デタラメな条件をヘイコラとのむこと = 話し合いの解決となったりもするのです。
それは、
オマエの奥さんを担保にしろ!
そうすれば、この条件をのんでやる!うへへっ♪
ってな交渉に旦那が肯いたというようなものなのです。
それが、
力を失った国と強国との話し合いの解決というものなのです。
ましてや、
中国や北朝鮮などというヤクザ国家との話し合いの解決だなんて、
どのような条件を
理不尽かつ無理矢理にのまされるのか分かったもんじゃありません。
奥さんと娘をレイプされたあげく、自分も去勢されるってな状態とまって同じです。
社民党とか共産党が与党になったら、
話し合いで解決したという実績をみせるために、
とんでもない人身売買的な交渉にものってしまいそうな予想ができますよね。
(ま、奴らが与党になれるほど、国民はアホではないですけどもね。)
話し合いで解決できるのは、識者と識者の関係だけなのです。
が、
そう、
愚者鬼畜に対しては、話し合いは通じないが、
強い軍事力というカードは通じるのです。
憲法9条の改正と、軍事力の強化!核保有!
ハッキリ言います!
もう、この3つを日本が実行するだけで、
中国も北朝鮮も大人しくなりますし、
中国も北朝鮮も日本を対等な国家として認識せざるをえなくなり、
律のある外交交渉というテーブルにも嫌々ながらもつくしかなくなるのです。
今のままの日本でいけば、
一方的なる攻撃をうけて、多くの血が流れるという未来現実の可能性がありますが、
日本がこの3つを実行すれば、
過去のソ連とアメリカのような冷戦状態となり、
(↑よい意味で言ってます)
国民的な現実としては、まったく血が流れない平和な世界が展開できるのです。
核攻撃されたい国なんて一つもないので、
核を持っている国に対しては、
普通に、手出しはできなくなるし、刺激すら躊躇せざるをえなくなるのです。
それが世界の常識なのです。
強大な軍事力というのは重要で重要で超重要な外交カードなのです。
だって、
昔の中国も北朝鮮も、金も無いくせして、
一生懸命に軍事力に力を注いできた国々なのですよ。
そのような国が、軍事力に力を入れない日本なんて、
対等にあつかうわけがないでしょうに。
そんなの、学校内の力関係を認識しつつある子供にだって分かりますよね。
憲法9条の改正と、核の保有!
これが、今現在の日本外交の不具合を解決できるスペシャルな鍵なのです。
痛いめに合わなくても、分かる!賢き!日本人になりましょう!!!
『 Loving生活 』
人間とは、思い込みでつくられた生き物ともいえるのだろう。
思い込みでつくられているなどと言うと、
ものすごく、よろしくない印象をもたれるとは思うが、
事実、
自分は凄いという思い込みが自信となっていたり、
自分はダメだという思い込みで自己卑下していたり、
自分は平凡だという思い込みがゆえに、
非凡さに気づけることなく平々凡々な生活を送っていたりなどなど、
やはり、なんだかんだ言っても、
人間という生き物は、思い込みで造られているとしか思えないのだ。
そう、
肯定的な思い込みや、否定的な思い込みや、
平凡人的な思い込みや、王様的な思い込みや、
女王様的な思い込みや、奴隷的な思い込みなどなどと、
人とその思いの数だけ種々様々な思い込みがある。
今現在、というか、大昔からだとは思うが、
人間たちは、人間の真実の姿、実際の姿というものを、
客観的な多数派という視点(物差し)で判別しその見方を基準としている。
その多数派の物差しが間違っているのかどうかは、
その時代に流れている価値観や価値基準によって変わってくるとは思うが、
世間一般的な見方として、
多数派の視点(物差し)という基準があったりもする。
たとえば、
「自分はブスで気持ち悪い」などと
否定的な思い込みをしている人がいるとする。
その人は、
その多数派の物差しからみると、
顔の造りもよいし、気品もありという、
いわゆる美人さんの部類にはいる人だと多数の人に認識されている。
が、しかし、その当人は、
「自分はブスで気持ち悪い」と思い込んでいるので、
他の誰かに、
「あなたって美人ですよね!」と心から言われても、
その ” 否定的な思い込み ” が「美人ですね!」という言葉を、
「そんなわけがない!」とはじいて、
その当人の心の中枢部まで届かなかったりもしてるのだ。
その人の否定的な思い込みが、
「美人ですね!」という他者からの本心を拒否・拒絶した例です。
「自分はブスで気持ち悪い」という世界に住んでいる例です。
その人の根強い否定的な思い込みが、
「美人ですね!」という多数派の視点という基準を、
嬉しいと思いつつも、受け入れられない状態でもあるのです。
完全に、
その否定的な思い込みの壁に閉じ込められた状態でもあるのです。
そう、
その人の種々なる思い込みというものが、
その人の世界を造っているのだということが解りやすい例だとも思う。
否定的な思い込みを例にあげたが、
肯定的な思い込みでも同じことが言えます。
そう、
自分は絶対的に間違ってはいない!
自分はこの手法が正しいと思っています!
3年後ぐらい経たないとその結果が表れないが、
間違いなく、自分の考えている通りに展開します!
という強くて肯定的なる思い込みをもっている場合、
他人がどんなに、反対意見で論破しようとしても、
その肯定的な思い込みが、その否定的な言葉たちをはじいて、
その人の心(考え方)変えるには至れなかったりします。
など、
その人の、信念ともいえる思い込みが、反対意見を拒否・拒絶した例です。
もう、ありとしあらゆることでも例えられますが、
そうです、
人間とは、その人の懐きもっている思い込みというものが
造り出した世界にそれぞれ住んでいるのです。
誰かと一緒に同じ屋根の下で生活をしながらも、
個々が、それぞれの思い込みによって、
それぞれに造りあげられた世界の住人となっているのです。
自分の人生をさかのぼり、
自分と、自分の周りに起きた出来事などなどを、
この ” 思い込み ” という観点から冷静に考えてみてください。
きっと、納得できる場面がいっぱいでてくるはずです。
ええ、
これらは、まったく悪いことではないと思う。
思い込みで造られた世界とか言うと、
イヤな感じがあるでしょうが、
どう感じようが、それが事実ですので、
それをどれだけ早い時期に理解納得できるかだとも思う。
思い込むのが良いとか悪いではなく、
意識的にも、無意識的にも、
それぞれの人がそれぞれの思い込みで生きているので、
その思い込みの種類を、
自分自身で認知・認識できる工程に早めに至ったほうが
より良き人生のためだとも思うのです。
肯定的な思い込みは、
自他比較的な慢心や、
自分以外の存在は ” 物 ” とみてしまうような過剰自己中な部類までいかなければ、
自分にとっても他人にとっても、ほぼあまり害はないので、
肯定的な思い込みは、自己責任で自由に思い込んでいればいいのですが、
そう、
もう一種側の思い込み種である否定的な思い込みというのは、
早めに消すなり入れ替えるなりの対処をしないと、
ジワジワと悪性の病魔にへと進行してしまって、
ちょっと気分が優れないぐらいだった辛苦が、
ジワジワと、泣き叫びたいくらいの辛苦、
発狂したいくらいの辛苦etcにへと進行してしまい、
あげくには、
自分自身を苦し上げるどころか、
その人に関係する人にまで苦しみを及ばしたりもします。
否定的なる思い込みというのは、
非常に危険性のある思い込みですが、
この思い込み種類には、
意識的に分かっている思い込みと、
無意識的な思い込みがあるのです。
意識的に分かっている思い込みは、
消したり入れ替えるという対処への入り口にも立てるのですが、
無意識的な思い込みというのは、
その入り口すらにも立てなかったりもするのです。
その出口どころか、対処への入り口すらにも立てない
「無意識の領域で思っている否定的な思い込み」を、
どうやって鎮めるのか?どうやって消すのか?入れ替えるのか?
長々しい説明を省略して、方法論に移りますと、
とにかく、理論的な考えはなしにして、
(理論的な考えにも思い込みが作用しているゆえ)
つべこべ反撥せずに、
まず、
自分の身体や心を支えてくれているものに対して感謝をする。
たとえば、冷静に考えないと見逃す場合もあるだろうが、
空気だって、自分の身体を支えている感謝の対象です。
というか、数分空気を吸えないだけでも死に至ってしまう
かなり重要な部類の感謝の対象です。
っと、そんな感じで、
自分の身体や心を支えてくれている全ての対象を深く認知・認識して感謝をする。
あと、祝福の気持ちを鋭敏にいだく努力をする。
祝福の心とは嫉妬心の正反対の思いでもあります。
祝福の心は、愛ですが、嫉妬心は愛ではありません。
また、
嫉妬心は、誰に教えられなくても生ぜる思いであり、
赤ちゃんであっても、お母さんが、
自分以外の子供を抱っこする姿をみて嫉妬します。
赤ちゃんであっても、
お母さんに抱っこされた子供を叩いたりして、
愛と反対の思いをその子供にぶつけたりします。
でも、
祝福の気持ちは、
教えられるか、誰かの影響をうけるか、
映画や何かの影響をうけるかしないかぎり、
自発的には生じ難い気持ちだったりもします。
そして、
祝福の気持ちを抱きもつには、
それなりの努力がないとなかなか抱けません。
だって、
自分が成りたかった存在に成っている人に対して、
たとえば、
自分が付き合いたかった人と一緒になった人にむかって
「おめでとう!幸せになりますように♪」だなんて、
普通に思えない気持ちですよね。
自分が成りたかった役職についた人にむかって、
「おめでとう!」なんて普通に思えないですよね。
自分が勝ちたかった試合に勝った人にむかって、
「おめでとう!」なんて普通に思えないですよね。
ええ、
嫉妬心との闘いに勝たないと、抱けない思いが祝福の気持ちなのです。
上記では、祝福は愛の思い、嫉妬心はその反対の思いと述べましたが、
それはさておき、
自分だったら、
嫉妬心と祝福の心のどちらに愛を感じますでしょうか?
ええ、
祝福の気持ちを偽善に思えてしまう、
これまた、その ” 思い込み ” から ” 抜け出せない人 ” を抜きにすれば、
99%の人は、祝福に愛を感じると思います。
それも、ただならぬ愛の力を感じると思います。
ええ、事実として、祝福の気持ち = 愛なのです。
そう、そして、
祝福の気持ちを努力して抱くことが、
否定的な思い込みを鎮めたり消したりしてくれる
蘇生薬になってくれたりもするのです。
なぜなら、
否定的な思い込みというのは、
嫉妬心から生じることが多いからゆえ、
その反対の思いを強くすれば、
トコロテンのように否定的な思い込みも追い出されてしまうのです。
上記に述べた、
「自分はブスで気持ち悪い」と思い込んでいる人も、
(過去の経験のなかで、)
自分がもの凄く好きで付き合いたかった人が別の人を選らんだのは、
「自分がブスで気持ち悪い」からだと、
捻じ曲がって解釈してしまったからがゆえの場合もあるのです。
ええ、嫉妬の刃が内向的だった場合はね。
ええ、嫉妬心は、ありとあらゆる害厄を自分にもたらしたりするのです。
そうです、
お気づきのとおり、
嫉妬したくなる対象というのは、
実は、自分の理想像であるのです。
そう、
自分が理想している自分の成りたい姿(立場)に自分以外の者が成っているから、
許せない気持ちになるのです。
それが嫉妬心の正体です。
自分の理想像に成っている奴のことが許し難いのだが、
現実的にどうすることもできない。
でも、悶々とする気持ちは晴れずなので、
「へっ!あんな変な奴にだけは成りたくないよなっ!」
とか、
「あのような人間になったら御終いだ!」などなどと、
その対象を、否定、卑下することによって、自分の心の慰めにはいる。
と、
願いが成就しなかった自分の心を慰めるのはいいが、
実は、それが不幸への落とし穴となってしまっているのです。
そう、
嫉妬心をいだくと、
意識的な領域では、
腹の底から、その人(対象)を怒ったり恨んだり否定したり卑下したりしてますが、
実はというか、
無意識の領域では、その人(対象)ではなく、
自分の ” 理想像 ” を否定したり卑下したりという形で捉えているのです。
否定したその対象にその怒りやら否定心が作用してくれればいいのですが、
残念ながら、無意識の領域では、そのような解釈はしてくれないのです。
無意識の領域で、
自分の成りたかった姿や立場といった概念(理想像)を否定してしまったがゆえに、
今まで夢に描くほど自分の成りたかった理想の姿なのに、
無意識の思いが、
その理想の姿に成る事を否定したり拒絶したりして妨害をしてくるのです。
その妨害者の正体が、” 否定的な思い込み ” だったりしてるのです。
ええ、
好きな人と付き合いたいのに、その反対の行動を無意識的にとったり、
出世したいのに、その反対の行動を無意識的にとったり、
勝ちたいのに、その反対の行動を無意識的にとったり、
金持ちになりたいのに、
その反対に成るような活動を無意識的にとったりとで、
恐るべしことに、
無意識の領域の思いが、
理想像と反対の方向、反対の方向にへと導いてしまうのです。
がゆえにというか、
嫉妬心を強くもっている人の多くは、
願い裏腹にも、
惨めな人生を歩んでしまったりもしているのです。
そういう人を見かけたりしませんか?
そういう自分が自分の中に住んでいたりはしませんか?
ええ、
誰も悪くはありません。
自分が自分の理想像に嫉妬をし、否定・批判・卑下したからがゆえなのです。
自分の責任なのです。
嫉妬心のもつトリックに引っかかってしまったのです。
自分の成りたかった存在に、アイツが成ったから、
自分は不幸になったのだと自分に都合よく解釈したいでしょうが、
そうではないのです。
自分が自分の理想像に嫉妬の刃を向けたからなのです。
なので、
恨むのではなく、反省をしなければならないのです。
反省して祝福をして、
嫉妬によって発した害毒を浄化しなければならないのです。
さすれば、無意識の領域からの妨害的拘束から自由になることができるのです。
っと、説明が長くなるので省略するが、
その嫉妬心というものを鎮めるのが、祝福の心でもあり、
嫉妬心による害毒を消してくれるのが祝福の心なのです。
無意識の領域からの否定的な思い込みも、
とある自分が許せない ” 何か ” を祝福できたときに、
消え去ってくれたりもするのです。
祝福の気持ちを抱いて生きるにはどうすればいいのか?
また、何に対して、祝福の気持ちをいだけばいいのか?
いまいち分からない・・・
という人は、
「 祝福の心 」 = 「 愛する心 」 と認識して、
とにかく、頭でつべこべ考えずに、
「愛しています!」という思いをもち抱くことです。
たとえば、
食べ物に対しても、「愛してるよ!」という思いを抱いたり、
植物に対しても、「愛してるよ!」という思いを抱いたり、
人間は勿論、
テレビや機械にいたるまで、「愛してるよ!」という思いを抱くことです。
意識して、Loving生活をすることです。
感謝と祝福(Loving生活)をすることです。
その生活をし続けるうちに、
劇的なる心の変化を感じられると思います。
スピリチュアル系の道に進んでしまったので、
唯物論者や理論的現実主義者の人には、
まず受け入れ難い修法でしょうが、
そういう方々にこそ、必要な修法だと思うので、
つべこべ理論的に考えこまずに、まずは実践してみるべし!
だと思います。
*
祝福の心は、嫉妬心との闘いが付き物ゆえ、
たとえ嫉妬心に負けたとしても、再び闘って、再び勝ち上がってきてください。
負けっぱなしのままでは、事実として、その苦しみから抜け出せません。
『 単純明快!幸せに生きるコツ! 』
「失いたくない!」「失うんじゃないだろうか??」を前提に思考を進めると、
ほぼ大半、自分の意としない結果にたどりつく、呼び寄せる。
「失おうが得ようがどうでもいいわ!」という気持ちで思考を進めると、
なぜなのか、ほぼ大半、自分の意としてた結果にたどりつく、呼び寄せる。
逆説的だが、ほぼ大半の人間の人生は、このような展開をする。
まるで、
自己保身する人生は人間として間違った生き方なのだと、
とある存在に言われているかのようだ。
自己保身の気持ちは人間であるならば、誰にでもあるし、
ぜんぜんまったく間違ったものではないと思うのだが、
とあるテーマとして、
よくよく分析して考えてみれば、
たしかに、
世の中の不和や犯罪の大半は、
自分を保身・自分を防衛する気持ちから生じていると言っても過言ではない。
自己保身・自己防衛とは、
自分の名誉を守るとか、
自分のプライドを守るとか、
自分のイメージを守るとか、
自分の生活を守るとか、
自分の自由な時間を守るとか、
自分への人気を下げないように守るとか、
自分への信頼を失わないように守るとか、
好かれたいとか、認められたいとか、etcetcの気持ちだ。
もう、人の数の倍の倍はあるだろう。
好かれたいという気持ちは普通の人間の感情であり、
そう思わない人なんていないのだが、
いかんせん、
人は、他人に好かれると、嬉しくて幸せなあまりに、
そのハッピーな感触を2度と2度と失いたくなくなるものなのだ。
そのワクワク♪ルンルン♪な幸せ感覚を絶対的に手放したくなくなるのだ。
それが強烈な自己保身、自己防衛の気持ちになるのだ。
どう?ならないか?
オレはなるよ!
ゆえ、
好かれたら、自分の魅力で好かれたのだと自我力的に受け入れるのではなく、
好意をもってくれた相手に対して「好いてくれてどうもありがとう!」という
感謝の気持ちで謙虚に受けとめておけば、
「私への愛情、二度と失いたくないぞ!!うらめしやぁ~」という
執着オバケ系の自己保身には変化し難くなるのだ。
基本、他者から得たものは、感謝と謙虚さで受け入れる。
執着オバケになって苦しみたくなければ、感謝と謙虚さで受けとめる。
やはりというか、
自己保身、自己防衛な気持ちが強くなればなるほど、
それを傷つけられたときの思いは、
恨みやら憎しみやら怒りやら悲しみやらの思いに大変身をする。
その、変身した思いが外に向かえば、とある他者に刃をむけるし、
その、変身した思いが内に向かえば、自分自身に刃をむける。
その、変身した思いが自制という壁を破壊すると、
外向きの者は、他人を殺めるという行為にはしるし、
内向きの者は、自分で自分を殺す、いわゆる、自殺という行為にはしる。
どれも、自己保身、自己防衛から生じた悲しき結果だ。
その反面、
自分を守る気持ちの少ない者は、
” 傷つけられる標的 ” というものを持ち歩いていないゆえ、
客観視的に見ると、
一般的に傷つけられし行為を受けたとしても、
いちいち怒らないし、いちいち悲しまないし、いちいち恨まないしとで、
非常に飄々とした穏やかな人生を過ごしているかのようにも見えてしまうのだ。
実際、
ちょこっとはショックを受けたとしても、
瞬間的に立ち直れる精神構造になっているはずなのである。
自己保身・自己防衛の気持ちが少なければ少ないほどにな。
ちょこっとショックを受けてしまう箇所というのは、
(今日は気分的にカッコイイと思われたかったからイイ服着てカッコつけたetcなど)
たまたま部分的に思ってしまった自己保身の標的に、
他者から放たれた批評という矢が刺さってしまったからであり、
その標的をたためば、もはや矢の当たり所がなくなるという理屈だ。
いかに、自己保身、自己防衛の思いを軽減して生きるかが、
幸せに生きるコツだったりもするのだ。
願いと裏腹になりやすい人、
人生逆説的感の強い人にはお薦めな生き方だと、思ふ。
『 幸せ感覚のキーワードは ” 感謝の思い ” なり 』
不幸な気持ちのとき 忘れていること。
不幸な気持ちのとき 絶対に思えないこと。
それは、感謝の思い。
裕福すぎるときに 忘れてしまうこと。
得たいものが何でも手に入る状態で過ごしていると 心の奥から思えなくなること。
それは、感謝の思い。
感謝の思いとは、
「 ありがとう! 」 という形式的な言葉ではなく、
「 ありがたいっ♪ 」 と湧き上がるように思える気持ち。
「 嬉しいっ♪ 」 と湧き上がるように思える気持ち。
今、自分が、不幸な気持ちで陰鬱に落ち込んでいるとき、
自分に対して、自分から抜け出して、
「 今、自分の心の中に感謝の思いはありますか? 」 と問い合わせてみるべし哉。
はっ!と気づいて、
「 あぁ、自分は、当たり前思考に麻痺して、感謝の心を失っていたな・・ 」
と思えれば、不幸感覚から脱出できたりもするでしょう。
そう思えなければ、
不幸感覚をさらに広げるか、
さらに掘り下げるかの日々を積み重ねたり・・という選択もあるでしょう。



