『 Loving生活 』 | 逆境を突破させる詩集

『 Loving生活 』


人間とは、思い込みでつくられた生き物ともいえるのだろう。

思い込みでつくられているなどと言うと、
ものすごく、よろしくない印象をもたれるとは思うが、

事実、
自分は凄いという思い込みが自信となっていたり、
自分はダメだという思い込みで自己卑下していたり、
自分は平凡だという思い込みがゆえに、
非凡さに気づけることなく平々凡々な生活を送っていたりなどなど、

やはり、なんだかんだ言っても、
人間という生き物は、思い込みで造られているとしか思えないのだ。

そう、
肯定的な思い込みや、否定的な思い込みや、
平凡人的な思い込みや、王様的な思い込みや、
女王様的な思い込みや、奴隷的な思い込みなどなどと、
人とその思いの数だけ種々様々な思い込みがある。

今現在、というか、大昔からだとは思うが、
人間たちは、人間の真実の姿、実際の姿というものを、
客観的な多数派という視点(物差し)で判別しその見方を基準としている。

その多数派の物差しが間違っているのかどうかは、
その時代に流れている価値観や価値基準によって変わってくるとは思うが、
世間一般的な見方として、
多数派の視点(物差し)という基準があったりもする。

たとえば、
「自分はブスで気持ち悪い」などと
否定的な思い込みをしている人がいるとする。

その人は、
その多数派の物差しからみると、
顔の造りもよいし、気品もありという、
いわゆる美人さんの部類にはいる人だと多数の人に認識されている。

が、しかし、その当人は、
「自分はブスで気持ち悪い」と思い込んでいるので、
他の誰かに、
「あなたって美人ですよね!」と心から言われても、
その ” 否定的な思い込み ” が「美人ですね!」という言葉を、
「そんなわけがない!」とはじいて、
その当人の心の中枢部まで届かなかったりもしてるのだ。

その人の否定的な思い込みが、
「美人ですね!」という他者からの本心を拒否・拒絶した例です。

「自分はブスで気持ち悪い」という世界に住んでいる例です。

その人の根強い否定的な思い込みが、
「美人ですね!」という多数派の視点という基準を、
嬉しいと思いつつも、受け入れられない状態でもあるのです。

完全に、
その否定的な思い込みの壁に閉じ込められた状態でもあるのです。

そう、
その人の種々なる思い込みというものが、
その人の世界を造っているのだということが解りやすい例だとも思う。

否定的な思い込みを例にあげたが、
肯定的な思い込みでも同じことが言えます。

そう、

自分は絶対的に間違ってはいない!
自分はこの手法が正しいと思っています!
3年後ぐらい経たないとその結果が表れないが、
間違いなく、自分の考えている通りに展開します!
という強くて肯定的なる思い込みをもっている場合、
他人がどんなに、反対意見で論破しようとしても、
その肯定的な思い込みが、その否定的な言葉たちをはじいて、
その人の心(考え方)変えるには至れなかったりします。

など、
その人の、信念ともいえる思い込みが、反対意見を拒否・拒絶した例です。

もう、ありとしあらゆることでも例えられますが、
そうです、
人間とは、その人の懐きもっている思い込みというものが
造り出した世界にそれぞれ住んでいるのです。

誰かと一緒に同じ屋根の下で生活をしながらも、
個々が、それぞれの思い込みによって、
それぞれに造りあげられた世界の住人となっているのです。

自分の人生をさかのぼり、
自分と、自分の周りに起きた出来事などなどを、
この ” 思い込み ” という観点から冷静に考えてみてください。
きっと、納得できる場面がいっぱいでてくるはずです。

ええ、
これらは、まったく悪いことではないと思う。

思い込みで造られた世界とか言うと、
イヤな感じがあるでしょうが、
どう感じようが、それが事実ですので、
それをどれだけ早い時期に理解納得できるかだとも思う。

思い込むのが良いとか悪いではなく、
意識的にも、無意識的にも、
それぞれの人がそれぞれの思い込みで生きているので、
その思い込みの種類を、
自分自身で認知・認識できる工程に早めに至ったほうが
より良き人生のためだとも思うのです。

肯定的な思い込みは、
自他比較的な慢心や、
自分以外の存在は ” 物 ” とみてしまうような過剰自己中な部類までいかなければ、
自分にとっても他人にとっても、ほぼあまり害はないので、
肯定的な思い込みは、自己責任で自由に思い込んでいればいいのですが、

そう、
もう一種側の思い込み種である否定的な思い込みというのは、
早めに消すなり入れ替えるなりの対処をしないと、
ジワジワと悪性の病魔にへと進行してしまって、
ちょっと気分が優れないぐらいだった辛苦が、
ジワジワと、泣き叫びたいくらいの辛苦、
発狂したいくらいの辛苦etcにへと進行してしまい、
あげくには、
自分自身を苦し上げるどころか、
その人に関係する人にまで苦しみを及ばしたりもします。

否定的なる思い込みというのは、
非常に危険性のある思い込みですが、
この思い込み種類には、
意識的に分かっている思い込みと、
無意識的な思い込みがあるのです。

意識的に分かっている思い込みは、
消したり入れ替えるという対処への入り口にも立てるのですが、
無意識的な思い込みというのは、
その入り口すらにも立てなかったりもするのです。

その出口どころか、対処への入り口すらにも立てない
「無意識の領域で思っている否定的な思い込み」を、
どうやって鎮めるのか?どうやって消すのか?入れ替えるのか?


長々しい説明を省略して、方法論に移りますと、

とにかく、理論的な考えはなしにして、
(理論的な考えにも思い込みが作用しているゆえ)

つべこべ反撥せずに、

まず、
自分の身体や心を支えてくれているものに対して感謝をする。


たとえば、冷静に考えないと見逃す場合もあるだろうが、
空気だって、自分の身体を支えている感謝の対象です。
というか、数分空気を吸えないだけでも死に至ってしまう
かなり重要な部類の感謝の対象です。

っと、そんな感じで、
自分の身体や心を支えてくれている全ての対象を深く認知・認識して感謝をする。


あと、祝福の気持ちを鋭敏にいだく努力をする。

祝福の心とは嫉妬心の正反対の思いでもあります。

祝福の心は、愛ですが、嫉妬心は愛ではありません。

また、
嫉妬心は、誰に教えられなくても生ぜる思いであり、
赤ちゃんであっても、お母さんが、
自分以外の子供を抱っこする姿をみて嫉妬します。

赤ちゃんであっても、
お母さんに抱っこされた子供を叩いたりして、
愛と反対の思いをその子供にぶつけたりします。

でも、
祝福の気持ちは、
教えられるか、誰かの影響をうけるか、
映画や何かの影響をうけるかしないかぎり、
自発的には生じ難い気持ちだったりもします。

そして、
祝福の気持ちを抱きもつには、
それなりの努力がないとなかなか抱けません。

だって、
自分が成りたかった存在に成っている人に対して、
たとえば、
自分が付き合いたかった人と一緒になった人にむかって
「おめでとう!幸せになりますように♪」だなんて、
普通に思えない気持ちですよね。

自分が成りたかった役職についた人にむかって、
「おめでとう!」なんて普通に思えないですよね。

自分が勝ちたかった試合に勝った人にむかって、
「おめでとう!」なんて普通に思えないですよね。

ええ、
嫉妬心との闘いに勝たないと、抱けない思いが祝福の気持ちなのです。

上記では、祝福は愛の思い、嫉妬心はその反対の思いと述べましたが、
それはさておき、
自分だったら、
嫉妬心と祝福の心のどちらに愛を感じますでしょうか?

ええ、
祝福の気持ちを偽善に思えてしまう、
これまた、その ” 思い込み ” から ” 抜け出せない人 ” を抜きにすれば、
99%の人は、祝福に愛を感じると思います。

それも、ただならぬ愛の力を感じると思います。

ええ、事実として、祝福の気持ち = 愛なのです。

そう、そして、
祝福の気持ちを努力して抱くことが、
否定的な思い込みを鎮めたり消したりしてくれる
蘇生薬になってくれたりもするのです。

なぜなら、
否定的な思い込みというのは、
嫉妬心から生じることが多いからゆえ、
その反対の思いを強くすれば、
トコロテンのように否定的な思い込みも追い出されてしまうのです。

上記に述べた、
「自分はブスで気持ち悪い」と思い込んでいる人も、
(過去の経験のなかで、)
自分がもの凄く好きで付き合いたかった人が別の人を選らんだのは、
「自分がブスで気持ち悪い」からだと、
捻じ曲がって解釈してしまったからがゆえの場合もあるのです。
ええ、嫉妬の刃が内向的だった場合はね。

ええ、嫉妬心は、ありとあらゆる害厄を自分にもたらしたりするのです。


そうです、
お気づきのとおり、
嫉妬したくなる対象というのは、
実は、自分の理想像であるのです。

そう、
自分が理想している自分の成りたい姿(立場)に自分以外の者が成っているから、
許せない気持ちになるのです。

それが嫉妬心の正体です。

自分の理想像に成っている奴のことが許し難いのだが、
現実的にどうすることもできない。

でも、悶々とする気持ちは晴れずなので、
「へっ!あんな変な奴にだけは成りたくないよなっ!」
とか、
「あのような人間になったら御終いだ!」などなどと、
その対象を、否定、卑下することによって、自分の心の慰めにはいる。

と、
願いが成就しなかった自分の心を慰めるのはいいが、
実は、それが不幸への落とし穴となってしまっているのです。

そう、
嫉妬心をいだくと、
意識的な領域では、
腹の底から、その人(対象)を怒ったり恨んだり否定したり卑下したりしてますが、
実はというか、
無意識の領域では、その人(対象)ではなく、
自分の ” 理想像 ” を否定したり卑下したりという形で捉えているのです。

否定したその対象にその怒りやら否定心が作用してくれればいいのですが、
残念ながら、無意識の領域では、そのような解釈はしてくれないのです。

無意識の領域で、
自分の成りたかった姿や立場といった概念(理想像)を否定してしまったがゆえに、
今まで夢に描くほど自分の成りたかった理想の姿なのに、
無意識の思いが、
その理想の姿に成る事を否定したり拒絶したりして妨害をしてくるのです。

その妨害者の正体が、” 否定的な思い込み ” だったりしてるのです。

ええ、
好きな人と付き合いたいのに、その反対の行動を無意識的にとったり、
出世したいのに、その反対の行動を無意識的にとったり、
勝ちたいのに、その反対の行動を無意識的にとったり、
金持ちになりたいのに、
その反対に成るような活動を無意識的にとったりとで、

恐るべしことに、
無意識の領域の思いが、
理想像と反対の方向、反対の方向にへと導いてしまうのです。

がゆえにというか、
嫉妬心を強くもっている人の多くは、
願い裏腹にも、
惨めな人生を歩んでしまったりもしているのです。

そういう人を見かけたりしませんか?
そういう自分が自分の中に住んでいたりはしませんか?

ええ、
誰も悪くはありません。

自分が自分の理想像に嫉妬をし、否定・批判・卑下したからがゆえなのです。

自分の責任なのです。

嫉妬心のもつトリックに引っかかってしまったのです。

自分の成りたかった存在に、アイツが成ったから、
自分は不幸になったのだと自分に都合よく解釈したいでしょうが、
そうではないのです。
自分が自分の理想像に嫉妬の刃を向けたからなのです。

なので、
恨むのではなく、反省をしなければならないのです。

反省して祝福をして、
嫉妬によって発した害毒を浄化しなければならないのです。

さすれば、無意識の領域からの妨害的拘束から自由になることができるのです。

っと、説明が長くなるので省略するが、

その嫉妬心というものを鎮めるのが、祝福の心でもあり、
嫉妬心による害毒を消してくれるのが祝福の心なのです。

無意識の領域からの否定的な思い込みも、
とある自分が許せない ” 何か ” を祝福できたときに、
消え去ってくれたりもするのです。

祝福の気持ちを抱いて生きるにはどうすればいいのか?
また、何に対して、祝福の気持ちをいだけばいいのか?
いまいち分からない・・・

という人は、

「 祝福の心 」 = 「 愛する心 」 と認識して、
とにかく、頭でつべこべ考えずに、
「愛しています!」という思いをもち抱くことです。

たとえば、
食べ物に対しても、「愛してるよ!」という思いを抱いたり、
植物に対しても、「愛してるよ!」という思いを抱いたり、
人間は勿論、
テレビや機械にいたるまで、「愛してるよ!」という思いを抱くことです。

意識して、Loving生活をすることです。

感謝と祝福(Loving生活)をすることです。

その生活をし続けるうちに、
劇的なる心の変化を感じられると思います。


スピリチュアル系の道に進んでしまったので、
唯物論者や理論的現実主義者の人には、
まず受け入れ難い修法でしょうが、

そういう方々にこそ、必要な修法だと思うので、
つべこべ理論的に考えこまずに、まずは実践してみるべし!

だと思います。



祝福の心は、嫉妬心との闘いが付き物ゆえ、
たとえ嫉妬心に負けたとしても、再び闘って、再び勝ち上がってきてください。

負けっぱなしのままでは、事実として、その苦しみから抜け出せません。

Angelyの悩み雲を晴らす技術詩集-sy