逆境を突破させる詩集
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『 なぜ、話好きなのか?話嫌いなのか? 』


人というのは、
相手が肯定的に自分の話を聞いてくれるという前提的思い込みがなければ、
他人に対して、楽しい気持ちで積極的に話すことなんてでき難いものだとも思う。


もし、
話かけようとおもう相手が、
また、
話をしなければならない相手が、

「アイツは、オレの発する話に対しては、
 何でもかんでも否定的に受け取って変な解釈をするヤツだからな・・!!」

と前提的に思えたら、
普通の神経を持った人間であれば、
バカらしくてアホらしくて、とてもじゃないが話す気なんて微塵も起きないであろうと思う。


おそらくでもなく、
相手が自分の話を好感的に受け取り、
自分の気持ちを正しく解釈してくれて楽しんでくれる!!
親身になってくれる!!興味を持ってくれる!!
と思い込めるからこそ、
その人に対して話をしたいという気持ちが起きるのでしょう。


早く○○と会って話がしたいと思えるのは、
自分のしようとする話に対して、
相手は、好意的な解釈で受け取ってくれて、
楽しんでくれる、親身になってくれると、
疑いもなく思い込めるからこそ、ワクワクとそう思えるのでしょう。


もし、親友だったのに、
最近、なぜなのか、私の話を一方的に拒絶しているように思えるんだよね・・・
という気持ちになってしまったら、
おそくでもなく、
親友と話をすることに、躊躇いというものが生じてきたりもするでしょう。


明らかにわかるのは、
もう昔の感覚では、○○とは話せない・・・
という何ともいえない感種感覚だったりとかするでしょう。


他人と話をするのが大好きだ!という人は、

例外少なく、前提的な思い込みとして、

見知らぬ他人であろうとも、話をしてみると実際はイイ人間がほとんどだ!
とかなどなどの、肯定的な思い・感触・感覚を他人に対して抱けていたりします。


とてもイイことだとも思いますが、
これがなかなか一朝一夕では、そのようには思い込め切れないというのが、
話嫌いの歴の長い人の本音であろうとも思います。


他人と話をするのがあんまり好きではないという人というのは、
たいてい、
「他人の人たちは、、、
 あの人は、、、
 また、、、
 親は、、、
 兄弟は、、、
 同級生は、、、
 etc、etcは、、、 
 自分の話なんて・・、どうせ・・、
 興味関心を持って聞いてくれたりなんてしないだろう・・?!!!」
という感種の、前提的思い込みを対象に対していだいていたりもしています。


おそらくと言うか、 
頭では話嫌いの自分をどうにかしたいと思っているのに、
なぜなのか、どうしても、どうしても、
他人と話さなければならないであろう機会etcが近づくと、
億劫になるとか、逃げたくなるとか、
得体の知れない圧迫感に襲われる的な感覚に悩まされたりする人も、
きっと、多かったりもすることでしょう。


それは、
おそらくでもなく、
「 他人は、自分の話になんて興味がない!関心なんてない! 」
「 どうせ他人は、自分の話を聞いてはバカにするだけだ! 」
etc、etc・・なマイナス的な前提的思い込みが、
無意識の領域にまで根深く張り巡らしているからでありましょう。


さて、

これより後、

なるべくならば、話好きになりたいでしょうか?

それとも、別に今のままの自分でもよいでしょうか?


話好きに変わりたい!!
もしくは、
そこまでは変われなくてもいいから、
せめて、話をすることに対する抵抗感を柔らげたい!!!
とかとか思うのならば、

自分の中に根付いている、
他人に対する否定寄りな前提的思い込みを、
肯定寄りな前提的思い込みに変えていく必要があります!
ということですね。


本気の本心から、別に今のままの自分でもいいという人は、
おそらくというか、
今現在、別に、大した苦には苛まれていないであろうと思うので、
話嫌いそのままでもよいと思います。



ではでは、さて、どうやったら、他人に対して肯定的な思いを抱けるようになれるのか?

そう、
天からイイものが降ってくるかのように、
ある日突然、皆からチヤホヤ敬われる的な現実が起きない限り、

今の現状・現実・生活圏は変わらないと思うので、

自分から何らかのモーションを起こすという一歩を踏み出さない限り、
今からの延長線上の生活圏には何も変化は起きないということですよね。


何らかのモーションを起こさない限りはね。


、、とは言っても、
今より、断崖絶壁から飛び降りるかのように、
よし!あと一時間経ったら、抵抗を感じてしまう○○に積極的に話しかけてみよう!!
と決意すればいいというものでもありません。

というか、一時間後、
自殺志願者以外では断崖絶壁から飛び降りることなんて普通に無理でしょう。

自殺志願者は死にたいのだから飛び降りることができるでしょうけども、
それ以外の人は、死にたくなんかないですからね。

なるべくならば、小さな怪我すらもしたくはないですからね。


そう、
他人に対して、否定寄りな前提的思い込みをいだいている人にとっては、
他人に話しかけるという行為は、
まさに、断崖絶壁から飛び降りるような行為と何ら変わらないのですよね。

死ぬか!?大怪我!?するかという不安と恐怖に襲われてしまうのですよね。

足にゴムロープの付けられた安全なバンジージャンプであろうとも、
一時間後にジャンプスタートですと言われて、
はい!一時間後には完全に躊躇いを拭い去ってジャンプできます!
という人も少ないことでしょう。

大半の人は、安全だと分かってはいても、
恐怖真っ只中の最中にビビリながらジャンプしたりするものです。

心の準備をしたいと思ったって、
いったい、
何をどのようにどうしたいのか、納得したいのかということすらも分からずに、
ただただ時間の経過とともに不安感が拡大していくだけの準備だったりもします。

ま、安全だと頭では分かっていても、無意識の領域からの恐怖は消え去らないのです。


なので、
とある誰かに、
「 大丈夫!あなたの話は、きっと、受け入れられるから!信じて!話をしてみて。」
と、包み込むように愛深く言われたところで、
否定寄りな前提的思い込みが柔らいだりなんてし難いのです。

頭の表では柔らいでもね。


と、かれこれと、
できない理由ばかりを述べてみたが、
実際、できないものはでき難いものなのです。


、、とは言っても、
何らかのモーションを起こさなければ、今より先の自分に変化は起きません。


ではどうするのか?


そう、
一気に変わろうと焦るのではなく、ジワジワと変わろうと、まず、思うことです。


そして、

「 私って、案外、意外と、人間好きなのかも!?! 」

「 私って、案外、意外と、人前が好きで話好きだったりするのかも!?! 」

etc!etc!的な、
自分にしっくりとくる言葉を自己暗示的に思い続けることです。


そう、
会話という行為や他の人間に対する肯定的な感受感を
自己暗示的に思うということを習慣化してみることです。


そうです、
自己暗示であろうとも、実は、
現実的に何らかのモーションを起こしているのと同じなのです。


現実的に生身の人間と接触しなければならない!!!
などと、固くガチガチに考えなくてもいいのです。


自己暗示は、現実逃避でも妄想界だけでの話でもなんでもないのです。


ただ公式的な見解が広まっていないだけであって、
自己暗示という行為は、
実は、全ての全ての成功者が実践している現実行為であるのです。

また、

全ての全ての失敗者が実践している現実行為なのです。


失敗者は、マイナスの自己暗示を意識的・無意識的にしています。

成功者は、プラスの自己暗示を意識的・無意識的にしています。


そう、たとえば、

ある人から、 「 カッコイイですね! 」 と言われたとする。

その言葉を受けて、
素直に、
自分自身でも、
鏡を見るたびに、 「 オレってカッコイイのかもなっ♪ 」 と思えたら、

それは、プラスの自己暗示をしているのと同じことになるのです。

結果、
目の前に起こる現実も、
なぜなのか自分ではよく分からないが
嬉しくなるようなことばかり日々展開してしまったりします。


それとは逆に、

ある人から、 「 カッコイイですね! 」 と言われたとしても、

自分自身では、まったくそう思うことができず、

また、感受感のマイナス受けがエスカレートして、

「 あいつは、オレを上げて落す気だな・・!! 」 と
猜疑的に思ったりしてしまったら、
その思いが全て、マイナスの自己暗示をしていることと同じになってしまうのです。


おそらくでもなく、
繰り返し繰り返し、思い出したくもないのに思い出しては、
アイツなんて嫌い!
人間って本当に最悪の生き物!
あんな最悪の生き物と話したい人の気が知れない!
他人は皆自分を悪く思う敵ばかり!
etc!etc!と、マイナスの自己暗示ばかりしてしまうのです。

結果、
目の前に起こる現実も、
なぜなのか自分ではよく分からないが、
面白くないことばっかりが日々日々展開してしまったりします。


上で述べた例は、
他人から言われた言葉を受けてからの自己暗示でしたが、

他人から言われる言葉がなくても、
その辺は自家発電的に、プラスの自己暗示展開させることができるのです。

同じく、
被害妄想の自家発電にて、マイナスの自己暗示展開させることもできるのです。


なので、友達が一人もいなくても、自己暗示をして、
人生をプラス展開させることができるのです。

同じく、
マイナス展開させることもできるのです。


ただ、
自己暗示、自己暗示とは言っても、
プラスの自己暗示はなかなか一朝一夕ではでき難いですけどもね。

マイナスの自己暗示は容易にできやすいのですけどもね。

なので、プラスの自己暗示の習慣化は、特に特に必要なのです。

マイナスに憑りつかれそうになったら、それを払い飛ばして、プラスなことを思う。
   ↓
ボケボケしていると、知らず知らずにマイナスに憑りつかれそうになるから、
それに気づいて、それを払い飛ばして、プラスなことを思う。
   ↓
マイナスに憑りつかれそうになったら、それを払い飛ばして、プラスなことを思う。

という繰り返し繰り返しの力強い習慣化行為が必要なのです。


人間という生き物は、
忘れやすい生き物ですからね。
ほっとけば、怠惰に流されやすい生き物ですからね。



そうなのです、

人生をよりよくさせる最強の力とは、
やろうと思ったことを、 " 習慣化させることができるという力 " なのです。


記憶力もコミニュケーション力も
眼力も女子力も漢力も自己暗示力も大事な力なのですが、
それらの力は、
それを習慣化させることができるという力の支えのおかげで成り立っているのです。

習慣化させる力が弱ければ、それらの力は芽吹けません。

三日坊主では、どんなに素質や才能があっても、芽吹け難いのです。



~ 略 ~



ま、とりあえずと言うか、
自己暗示という行為を、
得体の知れない変な人の行為とは思わずに、
まずは、肯定的に受け入れてはみましょうぞ!

sa


『 しなくてもいい争い(不和)を呼び込まない精神 』


武力を持たなければ攻撃の対象から外れる。

という考えをもっている人々もいる。

同じ意味で、
「 私たちは争いを放棄した! 」という看板を掲げれば、
戦争の対象から外れるという考え。

また、
人畜無害であれば誰からも敵対意識を持たれないという考え。


はて?人間の性質というものは、そんなに簡単なものなのだろうか?


日本の子供たちのイジメで考えてみると、
イジメられる側というのは、武力を持たないアピールをしている者がほとんどだ。

「 自分は敵ではありませんから・・どうか、、!!
「 自分は貴方方のことを悪く思っていませんから・・どうか、、!!」
「 自分はカッコつけていませんから・・どうか、、!!」
「 自分は目立たない人ですから・・どうか、、!!」
「 自分はダサくてしょぼい人間ですから・・どうか、、!」
ということを一生懸命にアピールして、
攻撃の対象から外れようとする弱々しい性質の人たちがほとんどだ。

自分はあなた方にとって、脅威な存在ではありません。

私は、人畜無害な存在です。

というアピールする精神を持った人たちがほとんどだ。

そういうアピールをすれば、
イジメの対象から回避されると勝手に思い込んでいるようだが、
残念ながら、そういうアピール精神を持った者こそ、イジメの対象にされてしまいます。

やはりというか、
そういうアピール精神で生きていると、
その思いが自分から醸し出される雰囲気となって表れ、
それを相手がマイナス的に読み取って、マイナスの感応をするのだろうと思う。


日本の子供たちのイジメを例にとったが、
いやいや、これは、世界各国の子供たちにも共通するものだと思える。

いやいや、子供たちだけではなく、
20歳、30歳、40歳、50歳・・と、
子供認識、大人認識、関係なく、全ての年齢の人に共通するものだとも思える。

( 歳の経過が人を大人に変えるのではなく、
自分を守ることを中心に考えない考え方が人間を大人に変えるのだとも思える。 )


どうやら、
ほぼ大半の人間という生き物は、
相手は、強いか?弱いか?、
頭がいいか?頭が悪いか?
人気者か?嫌われ者か?
などなどetcで判別して、
強いと判別したら、それなりの態度で接し、
弱いと判別したら、それなりの態度で接する。
という性質が共通しているようにも思える。

どこの国々の人間でもね。



そろそろ日本人は、

・武力を持たなければ、攻撃の対象から外れる。

・私たちは争いを放棄した!という看板を掲げれば、
 各国全ての人々に正しく受け取られて、戦争の対象から外れる。

・人畜無害であれば、誰からも敵対意識を持たれない。

という、御守りのごとき呪文では、
どうやら自分のことも、自分の大切にしている人も守れないんだ・・
、ということを知ったほうがよさそうだ。


弱々しい人間こそ、攻撃の対象になってしまうというのが、
悲しからずや、現人間世界での事実だったりもしているのだ。


それは、
小さな国の小さな子供たち間のイジメでも、
国家対国家の争いでも同じだと思うのだ。



心優しき者は強さに憧れよ!

心優しき者は自分以外をも守れるくらいの最強の武力に憧れよ!

その憧れが、様々なプラス的変化をもたらす。


そして、それが、
しなくてもいい争い(不和)を未然に防ぐ、現在最高の方法だと思えるのだ。


--- --- ---


どんなに今が平和で平和で平和すぎる環境であろうとも、

悪いことを考えてしまう存在は、定期的に、周期的に現われてくる。


それは、全ての全ての世界に共通する事実である。


今が平和だと思って安心して、武力を放棄する人間は愚かである。

それは、もう既に、歴史が教えている。

s



『 言論の自由? と 正当化という自己防衛行為? 』


私個人、
イスラム教は狂信じみているゆえ、
現信者を一度消滅させてから、
新たに教えなおさなければ、よろしき宗教にはなれないのでは?
とか思っているし、

北朝鮮も、
現首脳陣を全部消滅させて、
新たな国として立ち上げなければ正常な国家にはなれないだろうとも思っています。


正直、まったくどうでもいい存在なのでもあるが、

しかしと言うか、
近頃、ニュースで流れてくる 「 言論の自由はテロに屈服してはならない!」
という言葉に対して、もの凄く、イヤな引っかかりを感じています。


そう、
ムハンマドをバカにする記事を公表するフランスのシャルリー・エブドにしろ、
アメリカの、北朝鮮の金正恩の暗殺計画映画にしろ、

何かをバカにする言論の自由って、いったい、なんじゃろなぁ・・??
っと、最近強く引っかかりをおぼえます。


イスラム教という宗教は、
100%以上の信仰心をもっている者がほとんどです。

おそらくでもなく、
親よりも自分の奥さんよりも自分の子供よりも、
ムハンマドのことを大事な存在だと思っている人がほとんどだと思います。

そんなことは、世界の情勢をかじったことのある人だったら
反射的に分かることだと思います。

マスコミの仕事をしている人だったら、
鼻から抜けること以上に理解していることでしょう。


普通に考えても、
自爆テロという行為は、
心の底の底から、その存在を信じてなければできない行為だとも思う。

命を捨てるほどに大事に思っている存在がムハンマドです。

自分の身の周りの一般日常的に考えても、
自分が大事に思っている存在をバカにされたら、普通は怒るもんでしょうに。


言論の自由だ!言論の自由だ!と主張するけども、

誰かの大事な存在をバカにする言論の自由ってなんじゃろなぁ・・って思います。


そういえば、
日本のサッカーの代表選手のゴールキーパーが、
日本人= 福島の放射能 = 奇形児を連想させるような、
手が何本もあるような
変な写真と記事を公表したのもフランスのマスコミだったような・・


原因あれば結果ありでもないが、

誰かの大事な存在をバカにしなければ、
銃乱射で殺されることもなかったような気もします。

自分から火をつけといて、相手から攻撃された。

なんで攻撃されたのか深く考えることもなく(反省もなく)、
逆切れのごとく、
自分らの行為を世界印象的に正当化して(言論の自由を掲げて)、
さらにまた火をつける。

なんかもう、戦争好きの人種の考えとしか思えなかったりもする。

「 話し合いで争いを解決しよう!」
とかいうのが平和論者の合言葉のようになってはいるが、

平和論者の肩書きも持っている者たち(マスコミ)が、
争いの火をつけてどうすんの??って思ったりもする。


もっと深く深くいろいろな現実を、
自分の現実のように考えたほうがいいのではないかとも思う。

自分以外の誰かが大事にしているものを、
自分の価値尺度(ものさし)だけで測って判別しすぎではないかと思う。


普通に考えて、
フランスのシャルリー・エブドは、イスラム側に謝ったほうがいいと思うよ。

自分らから火をつけたんだからね。

結果は1000倍返しであれ、
その、自分らが発した原因行為という事実は謝ったほうがいいと思う。

でないと、
ホント、今以上に恐ろしいことが起きても不思議ではないと思うわ。

ホント、自分らから火をつけときながら、
逆切れのごとく、
言論の自由はテロに屈しないデモ行進なんてフザけすぎていると思う。


頭のいい参謀的思考のできる人たちや、
浅くない道徳心をもった人たちは、みんな、そう感じていると思うよ。

d

『 自分越えの積み重ね 』


昨日は腕立て20回でへばっていた自分だったが、
今日は腕立て25回できた。

ヒィーヒィー状態だったが25回できた。

これ、昨日の自分を越えたという事実である。


昨日は本2ページ読むのに10分かかっていた自分だったが、
今日は2ページ8分で読めた。

頭オーバーヒートしそうだったがなんとか8分で読めた。

これ、昨日の自分を越えたという事実である。


この小さな自分越えの事実の積み重ねが
自分の自信構築の材料となったりもしている。


デカいこと(他者の評価表彰付きの事実)ばかり目標に設定しまくって、
実際今現実、何の事実も得られないよりは、
小さな自分越えの事実を積み重ね続けた方が、
圧倒的に、自信というものを拡張させてくれたりもしてる。

ある程度、自分に対する自信というものが芽生えた後に、
デカいことを目標にするという選択もよいのではないかとも思う。

獲れる確率も高くなるという利点もあるといえばあるからな。


兎にも角にも、
自信とは、自分のことを信じられるということだ。


誰か他の人を信じられる時というのはどんな時だ?

その他人の 『 オッ! 』 っと肯ける事実を見知った時であろう。

自分のことだって同じなのだ。

自分のことを、 『 オッ! 』 と思えてしまえた事実が自信につながっているんだ。



運動系、集中系、忍耐系、保姿勢系、etc、etcと越える対象は何だっていいんだ。


小さな自分越えの事実重ね。


自信の構築。

s

『 幸せ感覚の自己発電ブログ? 』


しばらく放置に近い状態でしたが、
またまた、ちらほらと、ブログUPしたいと考えております。

なぜにっ?といいますと、

この、
他人想いでもなんでもないこの私に、
喜びを感じられるから再びブログを書いてくれという人が微々っといるからであります。
(↑そう言われて感動して涙していると思っているかもしれませんが、
  結構、別に、無感動感覚で受け取っています。
  しかし、再び、書くということは、潜在事実的にはそうなのかもしれませんが、
  ま、自分的には深く追求しないこととします。)

一応、このブログの基本姿勢としては、
自分口調の一方通行的な感覚で、
自分の述べたいことを無神経的に書いちゃいます!ってな感じで、
これからも書こうと思います。

優しい口調Versionはほぼ無いと思います。
(↑大昔の記事ではそういうこともあったかもしれないが、
  新作では、まず、そんなことは無い!と思って正解でございます。)

私のブログから受ける印象として、
上から目線的な感じに受け取る人の方が圧倒的に多いと思いますが、
自分的にはそういうつもりではないのですが、
潜在事実的には、そうなのかもしれません。
が、
潜在事実的には、そうでないのかもしれません。
(↑ま、どちらでも、お好きなご理解でよろしいでございます。)


ま、なんというか、

一応、このブログで書いてある文章の内容というのは、
ベースとしては、
自己発電的に幸せ感覚を得られる為の思考技術を
ナントカ的に書いているつもりです。

自己発電的、
ま、いわゆる、メジャー的な語彙で言えば、自家発電みたいな意味です。

そうです、
例えば、
他人(外部)から好かれるという現実を得て、
初めて(やっとこ)幸せ感覚を得られるという外部依存的な幸せ感覚ではなく、
そんな外部的なものを得られなくても幸せ感覚を得てやる的な
自己発電的な幸せ感覚のことです。

ナントカ結果的に、
ついつい外部から好かれたり尊敬されたりetcのものを
得てしまうという現実事実もあるでしょうが、
ベーススタイルとしては、
あくまでも、自分発信から得られる幸せ感覚を得る為の文章となります。


とりあえず、過去のブログ記事を読んでみて、
よかれと思えば読み続けてくれればよし、
「 何も感じねーなー!得るもの無し!」と思えば来なければよしという、
自由感覚スタイルでお願いします。

ではでは、次回より、『 詩 』 というテーマで書きます。


ま、微々っとな者たちよ!


待っとれや~~~!

i


『 自己肯定思考の純粋培養生活 』


私の雰囲気は、とてもよろしきであります。


私の雰囲気には、なんともいえない心地よき感触感があります。


私の未来は、とても明るいです。


私の中には、強力なプラス思考エネルギーがあります。
私は、私が望むことによって、
いつでも、その強力なプラス思考エネルギーを自在に沸きたてることができます。


etc、etc。。



今現在の自分では、
とてもじゃないがそう思えなくても、
それを修正する気持ちで気長に暗示続ける思考習慣は、
なかなか以上に、お薦めなもので、ある哉。


肉体動作・肉体作法は、
今すぐ変えようと頑張っても、なかなかすぐには変えられない。

簡単に思えしことでも、なかなかすぐには変えられない。

個人差はあるかもしれないが、
変えるには、ある程度の修正期間・練習期間が必要なのである。



それは、

自分の意識であっても同じ。

自分の思い方であっても同じ。

自分の考え方であっても同じ。

reman

『 許すことによって開放開花されるもの 』


自分を許しなされや!


多くの人たちに愛されてしまう自分のことを自分で許してやりなされや!

素晴らしい人物に成ってしまう自分のことを自分で許してやりなされや!

ハッピーハッピーで超ハッピーな自分に成ってしまうことを自分で許してやりなされや!

宝くじなどに当たって、
苦労もせずにお金持ちに成ってしまう自分のことを自分で許してやりなされや!


自分で自分を許すことによって、
やっとこさ実現に向かえる願いというものがあるのです。

自分に許されないから、
自分から許可の印をもらえないから、
現実的に願望実現に向かって動き出すことができないという場合もかなりにあるのです。


そうなのです、

外部存在に許されない場合もありますが、
それ以前に、無意識的に、
そう成ってしまう自分のことを、
自分で許せないという人って結構にいてるのです。


幸せに成りたいと願いながらも、
幸せに成っている自分のことを許せない人って結構にいてるのです。

結婚して幸せな家庭を築きたいと願ってはいても、
現実的にそう成っている自分のことを自分で許せない人って結構いてるのです。


ええそう、
お金持ちに成りたいと心の底から願ってはいても、
条件として、
汗水垂らして稼いだお金でなければお金ではない!堕落のお金だ!
宝くじで当たったようなお金でお金持ちになったら人間が変わる!
だから、何の頑張りもなくに金持ちに成ってしまう自分だけは許せない!
という、
ナントカ的な制限やら許せない気持ちやらで、
お金持ちになってしまう自分のことを拒絶してしまう人って結構にいてるのです。

別に頑張って稼いだお金でなくても、お金であることだけは変わらないのです。

お金に対して、変な偏見をいだかない方がいいと思います。

偏見心は、なんとも対象に伝わりますし、
伝われば、なんとも対象に拒絶心をいだかれます。


そう、

ある日の通勤中に1円を拾いました。

なんだ!!1円か!!!

と、見下し的に思ってしまう人もいるでしょうが、

いえいえ、1円であってもお金です。

一円が一億個で一億円です。


また、あるある日の掃除中に、今度は五円を見つけました。

なんだ!五円か!

と思ってしまうよりは、

五円 = お金という思考で、

あっ!お金が私に寄ってきてる♪と肯定的に思ったほうが、

お金持ちになれる可能性は高まります。

なんだ!5円か!とお金を卑下していると、
お金に困る可能性が高まると思います。


分かれ目は、対象に対して、愛があるか、ないかです。

存在自体(お金)を肯定心で包めるか、多い少ないで否定しているかです。

これ、人間に対しても、同じです。



とまあ、
お金持ちに成りたいにしろ、
幸せに成りたいにしろ、
彼氏彼女が欲しいにしろ、

結構、実際にそうなってしまう自分のことが、自分で許せない人っているのです。

実際にそう成ってしまう自分のことに対して、
ナンダカンダとナントカ流の理由を無意識的につけて、
自分で自分のことを許せない人って結構いるのです。

表面的には、「 ~成りたい!! 」と思っているつもりであっても、
実際にそうなってしまう自分のことが自分で許せない人っているのです。

今度、暇な時があったら、実際に自分が成ったら許せないもの、
言葉をかえて言うならば、
現実化することに抵抗・躊躇いを感じるものがあるかどうかを省みてみてください。

もし、抵抗・躊躇いを感じるものがあったら、許しの心で溶かしてやりなされや!


素敵な恋人ができて、お金持ちに成って、いろんなことに成功して、
毎日々々が超ハッピーに成ってしまう自分のことを許してやりなされや!



自分を許すことは正義ですぜよ!




私は、自分が素晴らしく成ってしまうことを自分に許します。

私は、自分が幸せに成ってしまうことを自分に許します。

私は、自分が人々に愛されてしまうことを自分に許します。

私は、自分がお金持ちに成ってしまうことを自分に許します。

(応用文可)

これ、奥義の呪文だとでも思って、毎日言ってみなされや!

始める前と始めた後の自分を比べてみれば、
その効果の違いを実感できるはずだから。

bo

『 New Typer 93°』


たとえば、

自分のことを、
ハードめに非難・中傷・卑下していた知り合いが、突然の事故で死んだとする。


さて、

その事故を耳にした時に、

悲しくて泣けますか?

それとも、

嬉しいですか?

などなどの質問は、捏造・隠蔽が生じやすいので、あえて、する気はないです。


ただ、
その事故を耳にして、
自分の日常の生活に、
一時間以上の、もしくは、
周期的に、マイナス方面の支障がでるのかだけを聞きたい。
(自分の家族や友達や恋人や敬う人の事故のごとくに・・)


もし、
それに対する返答があるのならば、自分の耳に聞かせてやりなされ!



極論的なたとえを用いたが、

自分を知る。

とか、

あるがままの自分を知る。

とか、

素直で正直な自分の本心を知るとは、

そういうことでもある。



その思いや気持ちを、
(自分が)認めようが認められまいが抵抗しまくろうが、
その " 思い " が自分の心の中に息棲んでいることだけは、
確かな確かな、事実でもある。

形が無いゆえ、自分だけが分かりえる事実なのだけどもな。



ん???

Angelyだったらどうだかって?


自分だったら、

1、2分くらいは、なにぃ!!!!!!

と、それなりに衝撃を受けてるとはおもうが、

やはり、
自分が好意を抱いている人たちの事故のような、
喪失感・悲しみ含有の衝撃ではないことだけは、
確かな確かな心的感触である。


1、2分くらいの衝撃の後に思うことは、

おそらく、

「 こやつら、
(オレを非難・中傷・卑下し過ぎて)バチでもあたったのかな?? 」

くらいにしか思わないかもしれないな・・・うん、正直に・・。


せいぜいあの世で反省でもして、
人の気持ちが理解できる愛ある人間に回心しなされや!

という贈る言葉つきでね。

これ、正直で正直に正直な胸の内を語るとな。


ま、
外部存在たちに善きめに見られたいというフィルターを
捨て切れなかった昔の自分だったら、
もうちょっと、
自分のイメージに損の無いような賢こめな言い方をしていたでしょうね。


でも、すまぬが、
今現時点での正直な思いが " それ " であるゆえ、
上記のような発言になるのはしょうがないことだと思ってる。

(発言といっても、
 自分で自分の正直な思いを認知・認識できればいいというレベルであり、
 自分の日常生活圏内の人たちの耳に入力させるということではない。)


思いの修正をするもなにも、
まずは、
正直な自分の思いを表舞台に引きずり出して向かい合わない限り、
何も始まれないのだからな。


(イヤでも)ここを通過させないと、
隠蔽・捏造で自己防衛したがる自分に育ちまくってしまうからな。


自己防衛、すなわち、自分を守りたい!という思いが強くなると、
願い裏腹にも、逆現象が起こりやすくなっちまうからな。


そう、
失いたくない!という思いで自分を守ろうとすればするほど、
まるで、
見えないネットワークにて自分の守りたいものが筒抜け状態のごとくに、
失いたくないものを失うってな感じでな。


いわば、魑魅魍魎の如くにな。



自己防衛思考というのは、我矛盾にも、自分のためならずかな・・

bra

『 知ってお得な " もうひとりの自分 " 講座 』


" もうひとりの自分 " という表現を巷語的によく耳にします。


この、" もうひとりの自分 " という言葉を聞いて、
なんとなくは分かるが説明しろと言われたら、
いまいち説明はできない、
でも、なんとなくモヤっとだけは分かるという人がいます。

そこで、
この、" もうひとりの自分 " を簡単に説明してみようと思います。


" もうひとりの自分 " ということは、
すなわち、
自分の中には2人の自分が存在するということになりますよね。


例を用いて説明します。

そう、たとえば、
夏までに痩せるぞ!!!という目標をもって
ダイエットをしている人がいるとします。

ぽっちゃり大トロ系の女性にしましょうか。

その女性が、夏までに、
このエロキュンビキニが似合う美ボディーになるぞーーー!!!
という、ハードルの高い目標をたてたとします。

2ヶ月で美ボディーになるのは難しいかな??的なので、
ちょっとハードめなダイエットメニューにするぞ!と計画をたてました。

で、
そのダイエットの方法は、
朝は小皿盛りのフルーツ、
昼はおにぎり一個、
夜はパスタなどを小皿盛りで食べて、
19時以降は一切食べないという芸能人のような食事制限と、
きつめの体幹トレーニング&有酸素運動を夕食後にすることにしました。

おそらくでもなく、
夕食後のトレーニングが終わったあたりに、
もの凄い空腹感に襲われるかもかと思います。

トレーニング後、
風呂浴びて、本読んだりテレビみたりして過ごしているのはいいが、
当然のごとくに、
腹がへって腹がへって死にそうな気分になってしまってると思います。

本読んでも頭に入らないし・・的にね。


あぁ、、、300gのステーキが食いたいなぁ・・・

・ううん!ダメダメ!19時以降は何も食べないって決めたでしょ!

あぁ、300gステーキがダメならカップラーメンでもいいから食べたいな・・

いやいや、全部とはいいません!
半分です!半分でだけいいから食べたいなぁぁぁ・・

いやいやいやいやいや、麺3本だけでもいいから食べたいなぁぁぁ・・・

などの欲求がメキメキと湧き上がってくると思います。

そう、その、
「腹へった!腹へった!腹へったよぉ~~!なんか食いたい~~!」

という欲求でいっぱいの自分が現れてきます。


が、しかし!
夏までに、
エロキュンビキニの似合う美ボディーを目指しているので、

「ちょっと私!ダメ!ダメ!ダメ!ダメだよ!がまんして~っ!!」

「草食、肉食、どちらでもかまわないけど、
 (いやいや本当はバリバリの肉食系さんお願いします!)
 私は、美男たちのOh♪視線を浴びまくる目的のために、
 絶対に夏までに美ボディーを手に入れるんでしょ!」
そのためには、
「絶対に食べちゃダメだよっ!!!」と抑制をかける自分も現れてきます。

そうなのです、

「食いたい!」やら「遊びたい!」「寝たい!」「楽したい!」etcたい!

という、したいものを求める『欲求を主張する自分 』と、

ダイエット中なんだから、
「食べてはダメ!」やら「やってはダメ!」「起きないとダメ!」etcダメ!
と、
目的・目標達成の遂行を意識的に志す『意志によって制御される自分』)

という2人の自分が現れてきて、顔をつき合わします。


すなわち、
たい!たい!したいよ~!を主張する欲求懇願自分と、
その自分に対して、
それをすると、目的・目標を達成できなくなるから、
絶対に「しちゃイケませんよっ!」という意志にて制御をかける自分であります。


ええそうです、
意思ではなく、意志のほうの自分です。

意思とは、意識的に思うことです。

意志とは、意識的に志すということです。

意思と意志では意味が違うのです。


そう、このように、
2人の自分がいて、
状況・場合によって、
だいたい、もうひとりの自分が現れてくるのですが、
その、
もうひとりの自分がまったく現れないときもあるのです。

どのような状況・場合かといいますと、

そうなのです、

意識的に志すものが何も無ければ、
『~したい欲求自分』の好き放題にできるというわけであります。

そう、たとえば、
今日は、他にしなくてはならないことが何も無い、
完全に自分の自由にできる休日であるならば、

自然に目が覚めるまで寝て朝を向かえ、
で、起きたら、食べて酒飲んで、
で、あれやってこれやって楽しんで、
で、腹がへったら食べて酒飲んで、
で、眠くなったらまた寝て、
で、目が覚めたら、また食べて酒飲んで、
で、眠くなったらまた寝る!

という、
『~したい欲求を主張する自分』単独(ひとり)で
自由な休日を満喫できるというわけであります。

この休日は、意識的に志すべきものが何も無いので、
もうひとりの自分は現れません。現れる余地もありません。
(うるさいヤツ(自分)は現れません。)

『~したい欲求を主張する自分』にとってはパラダイスな1日となります。


しか~~し、
明日は会社or学校となると、
夜あたりから、もうひとりの自分が現れます。

そうです、
「もうそろそろ寝ないと明日起きれないよ!」
と、遅刻しない為に制御・統御をかける自分です。

なので、
まだまだ起きていて本読みたいとか映画観たいと欲求する自分は、
「そうだな・・、明日、、起きれないかもな・・」と観念して、寝ります。

で、
朝、目覚ましが鳴り、起きる時間になったはいいが、
昨日、普通に寝たはずなのに、まだまだ眠くて眠くてたまらない!
このままずっと寝ていてぇぇ~~!!!
という欲求自分が強い主張を始めます!

あまりにも眠たいので、
「あぁぁ、今日は仮病でも使って休もっかなぁぁぁ・・」
などと考え出したりとかもしてしまうってな心境になったりとかとな。


がしかし、
「ダメダメ!絶対にダメ!早く起きろ!!遅刻するぞ!」という、
遅刻せずに出勤しなければならないという意志をもった自分が、
すなわち、
もうひとりの自分がいざ参上する、ってな感じで現れます。

この意志なる自分は、
欲求自分をなだめる為にいろいろな策を考えたりもします。

たとえば、
もっと眠りたいという自分に対して、
今日、帰ったら、○○な楽しみがあるじゃない!!
だから、今は頑張って起きて!

などなどと褒美をチラつかせて欲求自分をコントロールしたりもします。



~ etcetcと中略 ~



そういうことです。

『 ~したい欲求を主張する自分 』



『 ~の為にしなくてはならないと制御・統御を行使する意志なる自分 』

という、大きく分けて、2人の自分が自分の中にはいるが、

そのTPOに応じて、どちらかが、もうひとりの自分となるわけです。


この、
欲求自分の主張のままだけに生きると、
人間は、ダラダラな怠惰人間になり堕ちたりもするが、

制御・統御を行使する、意志なる自分に、
欲求自分が抑えつけられ続けると、
これまた、
ストレス過剰でどこかがオカシクなってしまうのです。

そう、
有名な病気でいうならば、
鬱病とかになったりとかもします。


なので、
" 欲求自分 " と " 意志なる自分 " のバランスを上手くやらないと、
この世の常識の中での適応が難しくなったりもします。

この世的な常識意識の強い人ほど、
制御・統御を行使する意志なる自分が強くでるので、
(自分が思い込んでいる世間から後ろ指さされる・・!?的な)
「食いたい!」「やりたい!」
「寝たい!」「遊びたい!」
「さぼりたい!」「行くのいや!」etcという欲求自分の抑えつけを強めます。

そんな抑圧状態が続けば、当然、ストレス過剰になります。

どこかがオカシクなります。


欲求自分を力づくで(本人納得的に)変えるのは難しいのです。
というか、ほぼ無理なのです。

力で抑えつけるほど、欲求自分は反撥してきます。

その反撥を、意志の力で抑えつけているうちに、
自分でも自分のこと(素直で正直な気持ち、すなわち、あるがままの気持ち)が
何がなんだかよく分からなくなってしまった状態が、
心の病気発動中の状態といえるのです。


その反撥を抑えきれなくなると、プッツンくるのです。

逆に、プッツンきたほうが、自分的にはイイのですが、
一般世間生活環境的には、それなりの問題が生じたりすることもあります。

頭がよくて一般世間常識が強い人だと、
その問題状態を恐れて更なる力で抑えつけたりします。
すると、終いには、
精神的に、とりかえしのつかない状況・状態になったりもします。


そうなのです、欲求自分に力づくは通用しないのです。

欲求自分は、交換条件として褒美を与える的なアプローチでないと、
本人納得で変わろうとかしてくれないのです。


そう、それと、もうひとつ、

『 欲求自分 』の欲求は、無意識的に突き上げてくるものです。

意識的というよりも無意識的に突き上げてくるのです。

簡単にいうと、無意識下の自分です。


『 意志なる自分 』の制御・統御は、意識的にするものです。

無意識的にというよりも、
目標・目的達成の為にはしかたなく的な
要素も含みながらの制御・統御であるので、
意識的な意志として「~しなくてはならない」とする自分です。

簡単にいうと、意識下の自分です。


そう、そして、上記でも言いましたが、
無意識下からの欲求を、
ただ、頭ごなしに制御・統御なんてできないのです。

たとえば、
セロリ嫌いな人がいるとします。

で、その、
自分はセロリが嫌いだ!!という味覚の感覚は、
意識的に、自分はセロリを嫌いになるぞ!と思ってセロリ嫌いになったのか?

それとも、

なんだかよく分からないけども、
大昔にちょこっとカジって臭かったからセロリ嫌いになったのか?

( 臭いと判定した自分は、意識的に臭いと感じようと思って
  臭い判定をしていないので無意識的ということです。 )

と自分に問うたら、

なんだかよく分からないけども、
大昔にちょこっとカジって臭かったからセロリ嫌いになったと答えることでしょう。


そう、そして、
セロリ嫌いな人に、今すぐセロリを好きになれ!と強要し、
その本人も、自分はセロリが大好きだ~~!!と思ったところで、
そう簡単にセロリ好きになんてなれるものではないのです。

( 自分はセロリが大好き的な自己暗示を毎日続ければ、
  ジワジワとセロリ好きになれたりもしますが・・。
これは裏技の部類となります。 )


この、
食べ物に対する好き・嫌いは、
人間に対する好き・嫌いと同じだといいますが、
そうなのです、
人間に対する好き・嫌いも同じなのです。

同じという意味は、
食べず嫌いが多い人は、やっぱり、
人間に対しても、よく知ろうとも思わずに嫌いだったりもします。

また、
毎日違ったものというよりは、
好きなものだけを毎日食べたいという人は、
やっぱり、
人間に対しても、気の合うごくごく少数の人とだけでいいから、
(他の友達はいらない)
ずっとずっと友達関係を続けていきたいとか思ったりします。

あと、
食べ物に対するいろいろなパターンの好き・嫌いと、
人間に対するいろいろなパターンの好き・嫌いを
自分なりに当てはめて考えてみると、
もっともっと納得できるようになると思いますよ。


とまぁ、そういう意味での食べ物&人間に対する好き・嫌いですが、

これ、セロリを好きになれ!と同じく、

あの人を好きになれ!と強要されたところで、
すぐに好きになれるわけではないのです。

嫌いな人を好きになれ!と強要されたところで、
すぐに好きになれるわけではないのです。

また、
好きな人を、嫌いになれ!と強要されたところで、
すぐに嫌いになれるわけではないのです。

好き・嫌い欲求の場合は、
代わりの褒美をチラつかせても、ほぼ、なびいてくれないのです。

なぜなら、褒美というのは、だいたい、
その人(自分)の好きなものが対象となるわけですからね。


ええ、そうなのです、
無意識下から主張してくる好き・嫌いという感覚は、
意識的に変えようと思っても、なかなか以上に変えることなんてできないのです。

嫌いなものは嫌いなのです!

好きなものは好きなのです!

それが、無意識の領域からの欲求と主張というものなのです。


だからゆえ、
この世的な常識で、
欲求自分が制御・統制され続けると、
ストレス過剰になって病気になっちゃうのです。

なのでゆえ、
欲求自分は、上手に、赤ん坊をなだめるかのようにあやすのです。

ミルク飲ましたり、高い高いしたりして、気分をよくさせてあげるのです。

気分をよくさせてあげつつに、
頑張るところは頑張るんだよ!と納得してもらうのです。

アタシの言うことしてくれたら、
その代わりに○○な褒美をあげるから、
ちゃんと言うこと聞いてね!と、その気にさせて、
欲求自分を制御・統御させるのが、
精神病にもかからない、賢くて上手な、" 2人の付き合い方 " となるのです。

( 欲求自分というのは、基本、子供だと認識して下さい。
肉体年齢に関係なくに、子供だと思っていて下さい。
甘やかし続ければ、調子こくし慢心するし怠惰するし、
厳しすぎれば、心の病気にかかるし、、的なね。 )


***

欲求自分というのは、子供すぎるので、
常識意識のある大人は、
そんな自分のことを、なかなか認めることはできないのです。

あるがままの欲求自分の主張を認めることができないのです。

それが、悩みや苦しみの迷路を深めるのです。

なのでゆえ、
どんなに子供すぎて、自分で自分が恥ずかしく思えても、
あるがままの欲求自分のことを直視して認める意識習慣が、
心の健康のためでもあるのです。

ま、どんな経験をつんだ大人であっても、
欲求自分は子供だと思っていたほうが、
あきらめ的に受けいれやすくなると思います。

***


で、
パワーアップというかナンというか、
ぜひ心身につけてほしい技術というか技というか、

この2人の自分を客観的に観察・統制する3人目の自分も存在させると、
非常にバランスよく両者を満足・納得させることができると思います。

3人目の自分を意識していれば、3人目が現れてきますので。

すぐには現れないかもしれませんが、
ジワジワと現れてきて、
ジワジワと客観眼の精度も上がっていきますので、成長していきまので。

気を抜いた・抜かない的に、
意識しなければ現れませんが、意識すれば現れますので。

ということです。


ちなみに、
「好き!嫌い!したい!いや!」という欲求は無意識からくると言いましたが、
無意識の領域にも段階がありまして、
この類の欲求は、無意識の領域のほんの表層部分にあたります。





" もうひとりの自分 " の説明を超~簡単にしようとしたのに、
飛ばし読みしたくなるくらいに長くなってしまったので、
この辺にて終わりにします。

rose

『 原発反対運動をする人たちは、中国行って原発廃炉デモしたほうがいい!』


ええ、
中国の原発が稼動しているかぎり、
日本の原発を全部なくしたところで、
放射線の脅威からの安全が完全保障されたわけではないですからね。


ええそう、
PM2.5やら黄砂やらが中国から日本にバンバン飛来してきて
日本は大迷惑をこうむっています。

中国から風にのって、簡単に日本にやってくるのです。

(原発が事故ったら)放射能だって風にのって日本にやってくるのです。

でもって、
中国では、現在進行形で、いっぱい原発が稼動しています。

そして、新たに建造する計画でいます。

ええ、あの中国の原発であり、
あの中国が原発を管理しているのですよ。

冷静に考えてみてください。普通に恐ろしいと思いませんか?

中国でおきた新幹線の事故をおぼえていますか?

あんな事故対応をする国が、
粗悪な原発を稼動させているのですよ。

あの隠蔽・捏造国家が原発事故をおこしたら、
世界に向かって、正直に公表すると思いますか?

日本に向かって、
原発事故をおこした!危険だから逃げろ!!なんて言ってくると思いますか。

中国の粗悪な原発なんて、いつ事故っても不思議じゃないんですよ。

そんな時限爆弾みたいな原発がいくつも稼動しているんですよ。

そして、現在進行形で、時限爆弾原発をいくつも建造しているのですよ。



日本の原発反対運動している人たちは、
未来の安全を求めて活動しているんですよね。

未来の安全を求めて、日本国から全原発を廃炉にしたいんですよね。

子供たちの未来のために、日本国から全原発を無くしたいんですよね。

その活動は正義の心にもとづいているのですよね。

そうに決まってますよね。


ええ、
であるならば、その目的達成の為に、中国に行って戦うべしですよね。

ええ、いくら日本から原発がなくなっても、
中国で原発が稼動している限り、残念ながら、絶対安全は保障されませんのですよ。

あの隠蔽・捏造国家ですから、
明日、原発事故がおこっても、絶対に隠蔽に走りますからね。

日本と違ってマスコミ報道はコントロールできますのでね。

日本は、知らずに、放射線を浴びているということもありえるのですよね。


だから、未来の安全が目的で原発をなくしたいのならば、
日本ではなく、中国の原発を完全廃炉にしなくてはならないのですよ。

未来の安全が目的であるならばね。


この日本の中に、
何人の原発反対者がいるのかは知りませんが、
あの、元芸能人の原発反対議員の山本太郎氏をリーダーにして、
全員で中国に乗り込んで原発廃炉デモをしてくださいな。

もちろん、拘束される覚悟でね。

山本太郎氏も、そこまでやらないと議員になった意味がないですよね。

そのくらいの勇ましい行動を見せてくれないと、
まったくホントに、
あの人たち(原発反対者)の行動は矛盾してみえるのですよね。

中国で原発が稼動している限り、
日本の原発を無くしても意味ないんですからね。


中国の原発を無くすことが、日本の未来の安全につながるのです。


山本議員よ!
日本の原発反対者を引き連れて中国行って抗議デモしろ!

日本の未来の安全の為に原発を無くそうとしているんでしょ!

中国から原発を無くす活動に着手しないかぎり、あなたがたの正義は偽物だ!



原発反対運動をしている人の気概を知りたい人もいっぱいいる。

生半可な気概で原発反対運動しているのだったら止めてくれ。

日本崩壊活動をするのは止めてくれ!


原発事故は、
再び民主党政権にでもならない限り、
おきる確立は、0%だ。

ゼロパーセントだ!!

福島の原発事故は、素人集団の意固地からおきた事故だ。

原発事故のプロフェッショナルたちの応援を撥ねつけなければ防げた事故だ。


それを思うとホントに残念なかぎりである。

green





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