もずくスープね -16ページ目

STAY HUNGRY,STAY FOOLISH

前回の続きになるが、私の世代、というか、私にとっての最大の“ITヒーロー”といえば、あのホリエモンでも三木谷でも孫正義でも藤田晋でもなく、かといって、狡猾無比なビル・ゲイツや、風雲児の西和彦などでもけっしてなく、やはり革命児スティーヴ・ジョブズに尽きるのである!彼がどんなに山師だのホラ吹きだのと評されようとも。


APPLE、Macintosh、NeXT、ピクサー、iMac、iPod、iTMS……彼の発表したこれらすべてが悉く私たちをハッとさせてくれるものばかりであった。そのジョブズが、今年6月にスタンフォード大学卒業式で「わが人生」と題された祝賀スピーチを卒業生に対しておこない、多くの人々に感銘を与えた。その抄訳は今週の「アエラ」(堺雅人表紙)に掲載されており、また次のblogではなんと全訳を読むこともできる(実に有り難いことです)。
http://pla-net.org/blog/archives/2005/07/post_87.html


さて。……あれは今から7・8年前であろうか。当時わたしは「チケットセゾン」のホームページを作成・運営する仕事を行っていた。それは1995年からスタートしたもので、90年代後半において日本のチケットサービス業者が行う唯一のサイトであった。そのWEBデザインを担当していたのが飯田弘美さんという女性で、彼女を伴ってMacExpoにスティーヴ・ジョブズ講演会を聴きに行った。ジョブズがアップルに復帰後、最初の来日講演会ということで、会場の幕張メッセホールは超満員だった。さて、ジョブズが出てきた。たしかiMacなどを発表したのだと記憶する。そして、なにかのサンプルとして、壇上の巨大スクリーンに突然、「チケットセゾン」のホームページが映し出され紹介されたのだ。私と飯田女史は、不意打ちを喰らい戦慄いた。おお、そのページは私達が作っているものです、ありがとう、ジョブズ!と心の中で叫びました。かくして感動の込み上げる中、私はジョブズへのさらなる忠誠を固く誓ったものです。


その時のWEBデザイナー飯田弘美さんは、その後、中野拓人さんという男性と結婚し、子宝に恵まれ、幸福な家庭を築きましたとさ。めでたしめでたし。……で、その旧・飯田弘美さんこと中野弘美さんの現在の職場の同僚たちや、夫・中野拓人さんの愉快な仲間たちが繰り広げるパフォーマンス・ショウ「KENJI MATSUURA FESTIVAL 2005」@武蔵境スウィングホールが先日2005/9/10に開催されるというので、1000円という料金を支払って見て参りました。


中野拓人さんは、「テディ&タイガー」というユニットの一員として登場し、なにやらコントめいたものを披露しました。出演者たちは、とても小さなホールにもかかわらず、各々ワイアレス・マイクをつけ、しかもそのコントらしきものにそぐわないほど立派な大型アンプスピーカーを通して声が見事に再生されていたのには、大変な衝撃を受けました。ひょっとすると、これはコントと見せかけた、遠大なる音響装置自慢なのかもしれないと思った観客は、けっして私だけではなかったはずです。



また「よこやんふぃふぃ」という謎のパフォーマーが登場し、一人でスライドショウのようなものを見せつつ、もごもご語ったり、楽器を演奏したり、挙句にはボレロらしきものを踊ったりしていました。こちらのほうは、内容がどうこうという以前に、段取りがあまり思わしくなかったからなのか、異様なまでに間延びした上演になっていたのが非常に印象的でした。これほど暗転の多く、間延びした出し物は私も生まれて初めて見ました。驚愕しました。これもひょっとすると、エンタテインメントという通念を破壊しようとする、彼一流の観客挑発行為だったのかもしれません。


ショウ全体としては、コンピュータやヴィデオ映像への依存度が非常に高く、しかもそれらがことごとく内向きに閉ざされている、いわば身体性なき「内向の祭典」ともいうべきものだったのです。これにはなんだか、現代の若者の意識の典型的な有り様を垣間見たような気もしましたね。このごろ電車に乗ると、乗客全員が耳にiPodのイヤホンを突っ込みつつ、携帯とにらめっこしながらメールを打ち続けているという光景によく出くわします。ま、私もそういう時ありますから、純粋に批判することはできないのですが、そういうパーソナルに閉ざされた時代に我々は確実に生きている。映画「容疑者・室井慎治」で八嶋智人が演じていた憎まれ役弁護士も、常に携帯ゲームをやり続けながら、法解釈ばかりを振りかざすキャラでしたが、ああいう奴が実際確実に増えている。そして他者と痛みや体温が共有できず、そういうものが欠如してるがゆえの反動か、時として極端にナマモノを扱うような猟奇的な犯罪に走る者も出現する。IT文化が、そんな社会をも呼び寄せてしまっている面は、否めない。


でも、だからこそ、ライヴイベントとか飲食店には、もっとアナログで非合理な人間性が求められていいのではないか。それは日常空間以上に緩やかな、精神的なアジールであるべきだと思うのですが、どうでしょう。最近、個別に衝立のようなもので仕切られたパーソナルなラーメン屋がありますが、ああいう合理精神には共感を覚えません。また、最近開催されたある招聘ミュージカルでは、自由を求める若者達が管理社会を破壊しようとする内容であるにも係わらず、その上演会場での飲食行為に関して主催者が観客たちを徹底管理するかのような姿勢を強く示していたことに、違和感を感じないわけにはゆきませんでした。今の日本社会に蔓延しつつある、あたかも合理性を追求するかのように見せかけつつ、実は小利口な“コトナカレ主義”に徹する、プチ官僚主義は、どうも感心できません。私は、武蔵境スウィングホールで起こっている現代社会の縮図をまのあたりにしながら、舞台上の出演者のみならず、世の中全体に対して「STAY HUNGRY, STAY FOOLISH」というスティーブ・ジョブズのメッセージを心の中から発したものでした。

「組曲 約束の地」あるいは、「iPod」に関する或る提案

アップルコンピュータから新製品「iPod nano」が発売された。大きさ90x40mm、薄さわずか6.9mm、重さもたったの42gで、最大4GBの容量、鮮明なカラーディスプレイ付、14時間連続再生可能、色は白黒いずれか選択可能という魅力に満ちた音楽プレイヤーである。


私はこれまで「iPod shuffle(1GB)」でそこそこ満足して来たが、ミュージカルのST、プログレシブロック、あるいは長大なクラシック音楽などを好んでダウンロードし、また最近ではPodCastingの利用度も高まりつつある身としては、「iPod nano」(4GB)に魅了されずにはいられない。


昨今ときおり回ってくる「ミュージカルバトン」なるチェーンメールには、「いまコンピュータに入ってる音楽ファイルの合計サイズ」「現在聞いている曲」「よく聞く、または特別な思い入れのある5曲」といった設問があるが、それに答えるならば、PC上にはまさに4GBほど音楽ファイルが収納されており、よく聞くのはミュージカルものでは『SHIROH』『レミゼラブル』『WICKED』『SPAMALOT』のアルバム、そしてYES『海洋地形学の物語』『リレイヤー』、Hatfields&The North『Rotter's Club』、MAGMA『Mekanik Destruktiw Kommandoh』などなど。これらは同時に思い入れも相当に深いゆえ、「iPod shuffle」にも落として移動中などによく聴いている。


なかでもそのトップに君臨しているのが、(例によって)ミュージカル『SHIROH』、その冒頭ナンバー「組曲 約束の地~いんへるの~」という10分近くある大曲である。作詞:中島かずき&いのうえひでのり、作曲:岡崎司。この曲が素晴らしいのは、組曲形式であること。しかしその要素がバラバラに離れていず、連続性があること。それでいて、リズムやテンポ、調の変化が豊かであること。


当初、琵琶法師姿の山田寿庵=高橋由美子がアコギの伴奏でゆっくりと儚げに諸行無常の調べを歌い出す。そこにベース音が滑り込むや、徐々に声質に力強さが増されてゆき、遂には劇的な幕開けを導くと同時に、洪水のようなロックの大音響が炸裂!ほどなくして7拍子のスピーディーなヘビィメタルサウンドに転じ地獄の混乱が描かれた後、切支丹目付・津屋崎主水=池田成志による8分の12拍子のロッカバラードに切り替わり残酷無比な弾圧ソングを歌う。そこに現れるお福(益田四郎の姉)=杏子が「まだ諦めるな!」とスピーディなハードロック調で歌いはじめたかと思うと、やがて「あの言葉を~、雲が焼ける、空が焼ける」でスロウかつソウルフルなバラードへ移行、続いて「サンタマリア、ゼズス・キリースト~」という農民たちの合唱も加わり、荘厳な雰囲気が宗教的高揚感と共に拡がる。そこに四郎=上川隆也が登場し、「人は人を裁くことはできない」というメッセージを、慈悲慈愛に満ちた歌声でしっとり歌う。この時、コーラスセクションが繊細な美しさで「罪を決めるのは人ではない、父なるデウス」と四郎=上川のメロディを追うところは絶品である。そのままたちどころに農民たちは四郎=上川を「あなたこそ天の御子」と再び荘厳なコーラスで崇め始め、そのとき映像上には光り輝く十字架が上昇し、この上なく感動的なタイトル文字が立ち現れる……。


ここに登場する個々の楽曲の素晴らしさ、それはアンドリュー・ロイド=ウェバーやクロード=ミッシェル・シェーンベルグ、ステファン・シュォルツなどに比肩しうるものと個人的に思っている。しかも、この変化や起伏に富んだ、怒濤のドラマチック曲展開、これはもはや、ほとんど、私の愛するプログレシヴロックそのものである。また、この数曲後に聴かれることになる『我らの御魂をはらいそに』は、杏子のほどよくザラついた声質のメインボーカルと合唱団により悲痛な祈りが歌われた後、リオ=大塚ちひろが「儚く澄み渡る心」という、美の極みともいうべき調べを歌う、つまり私が泣けて泣けて仕方ないと過去に書いた例のナンバーが登場するのである。この傑作、作曲は岡崎司、そして作詞はなんとデーモン小暮閣下なのである。地獄の使徒のデーモンが、こんな胸に迫る歌詞を書いたのか、というか、悪魔は堕天使だからこそそういうことが書けるのかもしれないが、いずれにせよ感慨深いことだ。デーモンを改めて見直した。


と、まあ、こんな楽曲を好んで「iPod shuffle」で聴いている次第である。以前にも書いたが、『SHIROH』の曲を聴いていると、気分はすっかりクリスチャンとなる。そんなとき、私が求める、私の考える「iPod」とは、「iPod クルス」または「iPod ロザリオ」というべきものだ(わたしの作成したイメージ写真参照のこと)。十字架状の真白きiPodである。



両翼に突き出た部分の中には、それぞれ1GB相当のメモリが格納されており、左+右+中央で合計3GBの容量を有する。この「iPod クルス」の中には、『SHIROH』や『ジーザスクライストスーパースター』、あるいは一連のゴスペルソングや聖歌など、信仰に関係した音楽ばかりを入れる。また、どれか一つのメモリには、福音書の朗読が完全に収納されている。それを、首からぶらさげたい。


遂に「iPodと携帯電話の融合」を発表したスティーヴ・ジョブズに、今度はこの「iPodとロザリオの融合」という画期的なアイデアを届けたいと思うが、いかがであろうか。かつてスティーヴ・ジョブズは、アップル社を当時のジョン・スカリー社長に追放され、NeXTなる高性能コンピュータを立ち上げた際、そこにウェブスタの英英辞典&逆引辞典、オクスフォードの引用辞典と共に、なんとシェイクスピア全集をも、標準バンドルさせたのである。その発想の延長上に、聖書朗読音源を「iPod クルス」に格納させることは自然な流れといえはしまいか。あるいはこの話、先にローマ法王庁に持ちかけてみるという手もあるかも。バチカン市国の独占的土産物にするとかね。

我らの御魂ははらいそに……ゲキシネ版「SHIROH」

「信じよう~天の御子を~」

杏子のハスキーボイスを脳裏に思い浮かばせながら
「山に白き旗が立ち、空に炎のクルスが浮かぶ時……」
と、気がつけばまたもや口づさんでる私が此処にいます。
「わーれらの救い主は~こーの地に降り立つ~」
もちろん眼をウルウルうるませながら……



ええ、はい、まあ、お察しのとおり、そうなのです、
ゲキシネ版「SHIROH」、また見ました。
結局ゲキシネ版「SHIROH」3回見ちゃいました
(生舞台のほうは2回のみだったのですが)。



新感線の『吉原御免状』開幕を目前に控えて、その原作たる隆慶一郎の同名小説を読むうちに(これ実に面白かったです)、無性に『SHIROH』をまた見たくなってしまったのです。両作品の間には、相通じる主題が横たわっています。それは、どちらも、自由を求める人々と、大権力との凄絶な抗争とでもいいましょうか。『SHIROH』の場合は、二人のシローたちに率いられた切支丹や農民たちが城(SHIROH)に篭って反乱をおこすわけです。一方『吉原御免状』では、漂泊民の理想郷・アジールを……あ、ネタバレになりかねないので詳しくは書きませんが、要するにこれも或る意味で“城”を守る物語なのです。そして、これは実に、網野善彦の歴史学の世界なんですね。ってことは、これから新感線『吉原御免状』を見に行く人は、小説『吉原御免状』(新潮文庫)と併せて、網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリ)などを読んで予習されるもまた一興でありましょう。



で、話を『SHIROH』に戻すと、やはり大塚ちひろの登場シーン、これは何度見てもグッと来てしまう私です。リオ役のちひろちゃんの歌や身振りは、聖母マリア様を思わせるものです。それゆえに、ジーン(遺伝子)レヴェルでジーンとさせられるのでしょう。とりわけ、わたしの場合、カトリックの幼稚園に通っていた経験があり、5歳の頃に見た、マリア様が昇天する夢をいまだに強烈に覚えているのです。「はか~な~く澄み渡る心~」とエコーたっぷりに歌うちひろちゃんの登場シーンは、その夢の光景とも少々重なって、自分の意識の底でジッとしている魂を衝いてくるんですね。そうなると、たちどころに幼稚園児以来の信仰心が甦ってくるというか、もはや気分はすっかりクリスチャンです。こういう人、他にもいるんじゃないでしょうか。ま、そういう意味では、ゲキシネ版『SHIROH』、「ローマ法王庁推奨作品」に認定されるよう申請してみてはどうでしょうかね。動員激増は確実でしょう。



仮に暫定的であれ、そういう信仰心がめばえると、作品中に現れる様々な十字架にキュンとしちゃいます。とくに私は、上川隆也さまと中川晃教さまの二人の四郎/シローの関係を水平な横線と見て、一方で大塚ちひろ=リオと高橋由美子=寿庵の関係を垂直な縦線としてとらえることで、この4人が十字架的関係にあると思えました。舞台上でそのようなフォーメーションを見せるのは終盤近く一回だけなのですが。上川=四郎と中川=シローは、共に欠けたる三日月、二つ揃って救世の両翼として機能するから横線なのです。一方、大塚ちひろ=リオは天上から愛と慈悲を降り注ぎ、高橋由美子=寿庵は地上/現世で愛と慈悲を説く存在だから、縦線なのです。「リオは痩せ細り云々」という上川=四郎さまのセリフにもかかわらず、大塚ちひろ=リオのふくよかな丸顔はいかがなものかという意見もあるようですが、ちひろ=リオも、由美子=寿庵も丸顔だからよいのです。丸顔はユング的にも母性的包容の象徴です。丸顔は満月か、いや、むしろ太陽でありんす。天に輝く太陽と、地に映る太陽。その周囲の欠けたる月が二人の四郎/シロー。ともかく、この4人、男女関係なく、見ていて愛さずにはいられません。このうちの誰かがうちの小選挙区に立候補したら、郵政民営化賛成だろうが反対だろうが、とにかく投票してしまうことでしょう。




『SHIROH』にはその他にも、様々な「2」の関係が氾濫し、それらが色々組み合わさって十字架構造となってるように思えます。ですが、これについて書き始めると、また非常に長くなりそうなので、今日はここまで。そしてゲキシネ『SHIROH』は、いよいよ明日9/9までです。近日DVDも発売されますが、これはぜひ大画面、大音響のゲキシネで一回以上は見て欲しいものです。

PS.エンディング・クレジットロールでかかる音楽(とくにピアノのピロピロパラポロという流麗な“泣き”の演奏はたまりません)で感動をとことん胸に刻みこんだ後は、カーテンコールの映像になるわけですが、悪役良役が入り交じり、楽しそうに歌い踊っているのを見ると、ああみんな「はらいそ」に来れたんだねえという、ここが「はらいそ」なんだねえという思いを持ちます。キリスト教的には、最後の審判で「はらいそ」か「いんへるの」かに分別されるわけですが、ここでの気分はむしろ仏教徒です。浄土真宗的な極楽浄土ってな感じです。