我らの御魂ははらいそに……ゲキシネ版「SHIROH」 | もずくスープね

我らの御魂ははらいそに……ゲキシネ版「SHIROH」

「信じよう~天の御子を~」

杏子のハスキーボイスを脳裏に思い浮かばせながら
「山に白き旗が立ち、空に炎のクルスが浮かぶ時……」
と、気がつけばまたもや口づさんでる私が此処にいます。
「わーれらの救い主は~こーの地に降り立つ~」
もちろん眼をウルウルうるませながら……



ええ、はい、まあ、お察しのとおり、そうなのです、
ゲキシネ版「SHIROH」、また見ました。
結局ゲキシネ版「SHIROH」3回見ちゃいました
(生舞台のほうは2回のみだったのですが)。



新感線の『吉原御免状』開幕を目前に控えて、その原作たる隆慶一郎の同名小説を読むうちに(これ実に面白かったです)、無性に『SHIROH』をまた見たくなってしまったのです。両作品の間には、相通じる主題が横たわっています。それは、どちらも、自由を求める人々と、大権力との凄絶な抗争とでもいいましょうか。『SHIROH』の場合は、二人のシローたちに率いられた切支丹や農民たちが城(SHIROH)に篭って反乱をおこすわけです。一方『吉原御免状』では、漂泊民の理想郷・アジールを……あ、ネタバレになりかねないので詳しくは書きませんが、要するにこれも或る意味で“城”を守る物語なのです。そして、これは実に、網野善彦の歴史学の世界なんですね。ってことは、これから新感線『吉原御免状』を見に行く人は、小説『吉原御免状』(新潮文庫)と併せて、網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリ)などを読んで予習されるもまた一興でありましょう。



で、話を『SHIROH』に戻すと、やはり大塚ちひろの登場シーン、これは何度見てもグッと来てしまう私です。リオ役のちひろちゃんの歌や身振りは、聖母マリア様を思わせるものです。それゆえに、ジーン(遺伝子)レヴェルでジーンとさせられるのでしょう。とりわけ、わたしの場合、カトリックの幼稚園に通っていた経験があり、5歳の頃に見た、マリア様が昇天する夢をいまだに強烈に覚えているのです。「はか~な~く澄み渡る心~」とエコーたっぷりに歌うちひろちゃんの登場シーンは、その夢の光景とも少々重なって、自分の意識の底でジッとしている魂を衝いてくるんですね。そうなると、たちどころに幼稚園児以来の信仰心が甦ってくるというか、もはや気分はすっかりクリスチャンです。こういう人、他にもいるんじゃないでしょうか。ま、そういう意味では、ゲキシネ版『SHIROH』、「ローマ法王庁推奨作品」に認定されるよう申請してみてはどうでしょうかね。動員激増は確実でしょう。



仮に暫定的であれ、そういう信仰心がめばえると、作品中に現れる様々な十字架にキュンとしちゃいます。とくに私は、上川隆也さまと中川晃教さまの二人の四郎/シローの関係を水平な横線と見て、一方で大塚ちひろ=リオと高橋由美子=寿庵の関係を垂直な縦線としてとらえることで、この4人が十字架的関係にあると思えました。舞台上でそのようなフォーメーションを見せるのは終盤近く一回だけなのですが。上川=四郎と中川=シローは、共に欠けたる三日月、二つ揃って救世の両翼として機能するから横線なのです。一方、大塚ちひろ=リオは天上から愛と慈悲を降り注ぎ、高橋由美子=寿庵は地上/現世で愛と慈悲を説く存在だから、縦線なのです。「リオは痩せ細り云々」という上川=四郎さまのセリフにもかかわらず、大塚ちひろ=リオのふくよかな丸顔はいかがなものかという意見もあるようですが、ちひろ=リオも、由美子=寿庵も丸顔だからよいのです。丸顔はユング的にも母性的包容の象徴です。丸顔は満月か、いや、むしろ太陽でありんす。天に輝く太陽と、地に映る太陽。その周囲の欠けたる月が二人の四郎/シロー。ともかく、この4人、男女関係なく、見ていて愛さずにはいられません。このうちの誰かがうちの小選挙区に立候補したら、郵政民営化賛成だろうが反対だろうが、とにかく投票してしまうことでしょう。




『SHIROH』にはその他にも、様々な「2」の関係が氾濫し、それらが色々組み合わさって十字架構造となってるように思えます。ですが、これについて書き始めると、また非常に長くなりそうなので、今日はここまで。そしてゲキシネ『SHIROH』は、いよいよ明日9/9までです。近日DVDも発売されますが、これはぜひ大画面、大音響のゲキシネで一回以上は見て欲しいものです。

PS.エンディング・クレジットロールでかかる音楽(とくにピアノのピロピロパラポロという流麗な“泣き”の演奏はたまりません)で感動をとことん胸に刻みこんだ後は、カーテンコールの映像になるわけですが、悪役良役が入り交じり、楽しそうに歌い踊っているのを見ると、ああみんな「はらいそ」に来れたんだねえという、ここが「はらいそ」なんだねえという思いを持ちます。キリスト教的には、最後の審判で「はらいそ」か「いんへるの」かに分別されるわけですが、ここでの気分はむしろ仏教徒です。浄土真宗的な極楽浄土ってな感じです。