読んだ積もり

読んだ積もり

読書記録メインに、日々のかけらを綴る




このブログは、最初は英検1級に向けての勉強の軌跡を残そうと思っていました。


その後、ひと段落して、読んだ本についての記録を書こうと思いました。



書いてみるとあれもこれも詰め込みたくなってしまって、、


ただ今、テーマ増殖中です。




主に読書、音楽、映画、アート、舞台、食べ物、そして、家族のことになると思います。




読書:     ビジネス書から西洋古典までなんでも


音楽と映画: 60-70年代が好きです


アート:    美しいものは何でも


舞台:     鑑賞と出演


数か月前に、山本有三記念館を訪れて、それで改めて著作を読んでみようと思ったのですが、時の映画となっていたジブリの作品と同じタイトルだったことで、こちらを読み直しました。

 

山本有三は目が悪くなってしまって、それを吉野源三郎に託したと。

若い世代に送られた日本少国民文庫の最終巻。

 

改めて読んだ時、やはりマンガには出せない言葉の迫力がありました。

人は、自分が「そうあるべきではない」と感じた時に悩む、ということ。

「心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることが出来る。」

 

人として、かくあるべきでない状況に直面するからこそ、不快感を感じ、苦しむ、というのは非常に腑に落ちてくるくだりです。

 

人が人に、いつでも尊敬の念をもって接する、そんな社会を築いていくには、どうしたらよいのだろうと常に考えてしまいます。

 

「志」と「配慮」、これを大事にしていきたいと思います。

 

最近の私は、今までと違う段階にあって、小学校、中学校、高校のころに読んでおくべきだった本をがむしゃらに読んでいます。どこにつながっていくかはわからないのですが、生きている間に自分の中の集大成ができればいいと思っています。

 

昨日は珍しく夜遅くに一人で電車。

ショックだったのは、ある家族連れを見た時。ディズニーランドがえりで疲れている若いお父さん、お母さん。それぞれ一人ずつお子さんを抱いていました。

空いている席が一つしなかったのですが、お父さんは何も言わずさっさと座ってしまいました。

私の感覚だと、奥さんに先に腰掛けさせてあげてから自分は後で席を見つけるとか、、

 

よっぽど疲れていたのでしょうか。でも、お父さんがお母さんを守る、という構図を押し付けちゃいけないんでしょうかね。

 

待機児童、待機児童と言いますが、私は自分で子供が育てられなかったから、子育てをさせてもらうほうがいいと思います。もし少しでも収入が得られるのなら。

お母さんはやっぱり子供を育てて、そして政府も会社もお母さんのその頑張りを認めて「子育て」をしっかりとしたキャリアとして評価して、来るべき時がきたら正社員としてその人たちを会社に迎い入れさせるべきですし、子供を育てている間は、お母さんが正社員として働いているぐらいの金額を支給するべきだと思います。

お金を払って、他人に我が子を預けて、自分は他の場所でその間子供と離れてお金を稼がなければいけない、、、何か騙されています、この世の中。

 

若い人たちが、家族を築いて、子供を育てて、次の世代へバトンタッチするまで頑張ろうと思えるような社会をつくるには、自分で子育てができる環境を作る必要がある、と私は思います。

 

教育だけでもないし、政治だけでもない。何か現在の社会は病んでいる。

夜の電車でみんながうなだれてスマートフォンを見ている姿を見て、手遅れにしたくない、とものすごく思うわけだったのです。

 

 

 

 

全盛期で子供たちを育てながら働いていたころよりは随分落ち着いた、と思っていたけれど、まだまだ配慮がない人にいらだってしまいます。悟りを開くにはまだ早いのか。。

 

今朝は娘の誕生日で、いろんな昔のことを思い出して涙がにじむようにメール書いたりしていました。

 

そして、昼頃、職場の無神経な人の言動にいらっとしました。

元々自分の話ばかりしているし、この人おかしいなあと思っていたのですが、案の定ものすごく変な人で、自分でもそれに気づいていないから、困ります。

 

行き帰りの乗り物の中でも、かまわず人にぶつかっている輩、本当に腹が立ちます。

「すみません」の一言すら言えない日本人。

歩道を自転車で乗り入れてくる無神経者にも腹が立ちます。交差点をスピード下げないでやってくる者もいて、本当に危ない。

 

いつから日本はこんなに無神経で思いやりのない国になったんでしょう。

 

昨日、ここ最近で一番力をいれていたことの一つの区切りがついて、今日からまさにまた新たなフェーズでがんらなくてはいけないのに、感情にじゃまされるの、困りますね。

 

一つ言えるのは、理解力があまり発達していない人にいい思いをさせると、増長して勘違いしておかしなことになる。

 

人に親切にするのは、相手を見つつコントロールしないとだめですね。

やってもらうのが当たり前になっていないかどうか、自分自身も常に気を付けていたいと思います。

主人と出会えたことで沢山の幸せをもらっている。

私をこんなに大切にしてくれる人はいないし(亡くなった父の再来)、私の家族をこんなに大切にしてくれる人も他にはいない。

そして、いろいろな小さな事件が毎日あれど、それはただただ私の小さな器量からなるストレスであって、もし彼か、今の仕事か、ということになれば私は仕事を捨ててもいいと思っている、ぐらい、かけがえのない人だ。

 

2人で将来の計画について話すたびに、今の生活がふっと全て他のものに入れ替わってしまっても、私はなんとかやっていけるんじゃないかとさえ思っている。それぐらい、多くのものを与えてくれている人だ。

 

結婚してからの自分にとっての大きな収穫の一つは、ヨーロッパで生まれ育った人の視点から、今の世界を見渡せるようになったことだ。

 

非常にセンシティブな内容にはなるが、私たちが10代のころくらいからなんとなくあてがわれてきた第二次大戦周辺の概念がかなり操作されているもののように思えてきている。

私がブーム的にドリュ・ラ・ロシェルに興味を持った時があったが、「フランス・ファシズム」という名称をひどく訝っているふうだった。

 

私が生きてきた日本の社会では、ファシズムといえば、「ヒットラー」「ムッソリーニ」がセットで浮かび上がる。ヒットラーとムッソリーニの違いについては、興味をもたない限り「一緒くた」、そこに日本も入っていて第二次大戦は3国とも負けた。

独裁、帝国主義、全体主義、それとユダヤ人虐殺というイメージに直結する。

 

しかし、家人のいう「ファシズム」とはイタリアのムッソリーニを中心とした政治運動である。

ドイツのファシズム、フランスのファシズムというのはピンとこないようである。

 

何か今日本まで到達してきて当たり前のように語られている西洋史の概念が胡散臭くてしょうがない気がして、最近発売された「ナチスは良いこともしたのか」を読んでみたが、もやもやは全く解消されなかった。

それが最近乱読の種に読んだ数十冊の本のうちのひとつ、「ファシズムの正体」by 佐藤優によって、だいぶすっきりした。

やはり、人々にとって良い政治の側面もなければ、人々は党首を支持しないわけである。

佐藤氏の本は、核心をついている部分があるし、よい参考資料も紹介してくれているけれど、やはりこれだけ言論の自由がある日本でも、今の世界が直面しているすべての矛盾の結果を指摘するにはいたらず、むしろ迎合が好まれているようだ。

 

ファッショと右翼とは全く一緒ではないし、すべてを右と左で分けて考えるのは危険だ。

かなりファシズムの実像をとらえていく良いきっかけはもらったが、果たして今のこのポピュリズムや、トランプ元大統領の話になると、また似て非なるもののバリエーション化で考えていかなければならない。

とにかく推し、があったとしても、そのすべてに負の部分もついてくるのが面倒くさい。

 

ただ言えるのはファシズムよりも大きな疑問。

なぜ聖書に旧約聖書が入っているのか、という点。

世界には、大きな勘違いの一緒くたが当たり前として通っていることが多すぎるように感じて、ちょっと辟易している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、三島由紀夫についてよく考える。

右や左やよくわかっていない者でも、その潔さには尊敬と畏怖を感じる。

ただあまりにも惜しい。

これはやはり日本人の根本なのだろうか。死を選ぶライフスタイル。

彼の思想をもう少し深く知るためにはやはり小説を再読するしかないと思う。

 

吉田松陰の言葉をたどりながら生きていくのには、あまりに不真面目で、息苦しくなってしまっていた私は、しばらく彼の本を置いたままに、日常生活に振り回されて、あまり読書という読書をしていなかった。

 

ハウツー本の類や、写真入りのガイドブックは、仕事や通勤の合間合間に目を通すだけでよいけれど、本当はもっと面白い本がよみたい。

せっかく日本には名作が沢山あるのだから、漱石、太宰、それに三島は死ぬまでに完読しなければ。

 

今はマンガが沢山あるから、ついついマンガで済ませてしまう読書もあるけれど、この前「君たちはどう生きるか」を読み直して、やはりマンガではだめだな、、と感じた。

マンガは素晴らしいものが、昔は沢山あった。

だから、マンガの絵と言葉が一体になって、ものすごい力を出していたんだと思う。

今書店に並ぶマンガの本はどれも三流な感じがする。面白いのかもしれないし素晴らしいのかもしれないけれど、何か惹きつけるものを感じない。手を触れたいとも思わない。

 

年をとるにつれ、若者たちの興味があることについて関心がもてなくなるばかり。

マンガだけではなく、音楽も素敵なものとして耳に残らない。

以前は、自分の親たちと自分たちのほうが、自分たちと子供たちのジェネレーションギャップより大きいと思っていた。

当然人間の質は私たちの世代で各段に落ちたと思う。苦労を知らないから。

 

でも、今は考えが変わった。実は自分たちと子供たちの世代のギャップのほうが、より大きくなり始めているようだ。

家庭を持つ、子供を持つ、ということが普通でなくなった世代。インターネットとスマホネイティブの世代。

 

そして、そうした新しい人間たちに、古い人間たちはもう何も残そうという気力がなくなってしまっている。

 

例えば建築。

中野サンプラザもなくなる。昭和の日本を代表する建物もあの形では残せないのだし、同じ形での復旧もしないようだ。

昭和の思い出の店が閉まっていく。

山の上ホテル、鷗外荘、学士会館、、、なぜ引き継いでいけないのか、、次の世代に。

 

表象を残さないだけでなく、ライフスタイルもつぶされていく。

この前ルミネの本屋がなくなってもうルミネカードの意味はないのかとショックを受けていたが、京王の本屋も少し前にしまっていたようだ。

昭和を懐かしむどころではなく、自分の生活にとってなくてはならない本屋がどんどんなくなってきているというのは本当に恐ろしい。そして、どうしてもなくてはならないと思っていたデパート。百貨店の閉店は止まらない。現存している百貨店も中身はもはや百貨店のものではない。100円ショップやニトリやヨドバシだ。

 

原宿だって昔はもっと夢があった。

同潤会もあったころはよかった、あそこにあのアパートがあっただけで街が美しかった。

表参道ヒルズはあんなに都市の真ん中にあって空虚だ。

完璧でもなく、ビジネスがすべてでもない空間が人にとってはまだ人間として生きる場所でありえたのだ。

人間を整理しすぎると、生活は途端に優雅でなくなる。

 

何かが音をたてて崩れている。

おそらく人が少なくなったから、情熱を持った人口も更に減り、

不在感だけが街に漂っているからなのだと思う。

 

今の若者たちは、もうアメリカやヨーロッパに行ってみたいとはあまり思ってないようだ。

私が小さいころには、アメリカは自由で広大な国、ヨーロッパは伝統を大切にした街並とおしゃれで知識のある人々の国、というような漠然としたイメージがあった。

今の子供たちの関心はもっぱら韓国のようだ。

正直何が面白くてどこがかっこいいのか理解不明のアイドルたちががじゃがじゃいるらしい。

私は新大久保の街を歩くととても気分が悪くなるが、あそこを歩いている多くの人は非常に楽しんでいるらしい。

 

各国のイメージはこうして変容しながらも、おそらくどんどん子供たちの中で国の特徴が薄れていっているのではないだろうか。やたらとタブーを作ると民族や国家の素晴らしい部分も弱まってしまう。

やたらと自由を奨励すると、自由になるべきではなかった精神が大腕を振って闊歩して人間の品格を下げる。

 

とにかく極端な方向にはふれないで、現状をもう少し維持できたらいい。

ただ日本が日本でなくなる日は、他の外国人の文化のほうが強力になっていく日は、わりと近い未来だと思う。

そのとき、気づいてもおそくなり、日本人はマイノリティーとして、どんな位置づけで嘗て自分たちの国だったところに暮らしていくのだろうか。ひとり、またひとりと古き良き日本人が亡くなっていって、私たちはその零れ落ちるキラキラした心をすくえないままに途方にくれている。

 

年末にひいた風邪、おそらくインフルエンザが、結局なかなか治らなくて、仕事を休んだりしておりました。

インフルエンザは熱が下がればいいというものではないのですね。

副鼻腔炎のヘビーなタイプに罹患してしまったようで、耳鼻科に行きましたが、先生の治療と処方が大変適切だったようで、先週無事初仕事をクリアしました。

 

さて、来週からまた週7日仕事になってしまうのですが、嵐の前の休日で、今日はゆっくり起きました。

そして冷蔵庫で料理できていなかった野菜、キャベツ、ビーマン、ネギ、お肉はさすがにフレッシュなものを使いましたが、それ以外にありとあらゆるものを使いきりました。

 

ちょっとだけ残っていたウスターソース

古い鮭の瓶詰(味見したら大丈夫だったので)

ラーメンについていてとってあったゴマ。

古くなって固まった納豆

大事にいただいていたけどいつの間にか忘れてしまっていたフランス製の赤いマスタード

飲み残しの赤ワイン

しばらく続けて飲んで飲まなくなった健康飲料 MBP

冷凍してあって忘れていたカヌレ

冷蔵庫にしまってあったチョコパイ

 

すっきりすっきりしました。

呼吸もだいぶ楽になって、仕事についても前向きに取り組めるようになって、やはり健康は大事です。

 

ちなみに、上記の古い食材、お菓子以外はみんな一緒に料理しましたが、赤ワインとマスタードが効いて、なんとなく料理としての形になりました。

 

一方で、読書はなんだか新しい本が読みたくなって、買ってしまいました。

吉田松陰については、何冊か読んで、何か芯くってない読書をしているような気がして、引き続きオリジナルの文がもっと掲載されている本を探したい。

また、中村天風、という人、本やで1つの棚のほぼ半分を割いて、売り出ししていましたが、あんまりにも売り出しムードが強くて読みたい気持ちがなえてしまいました。

 

新聞については電子の効力(紙の新聞形式ビューアーで)に目覚めましたが、本はやはり紙がいいという昭和なこだわりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒涛の年末だった。

休みがなかった11月と12月。

仕事がピークだった12月の日曜日を過ぎたあたりで、ちょっと怪しい風邪模様。

その後はなんとかだましだましやってきたけど、最終出勤日には悪寒。

あえて、インフルの人となりました。

 

久しぶりの悪寒、高熱、節々の痛み。

私ひとり実家にも帰れず、なんともさびしい年末となってしまいました。

まあ、苦しかったけど、今日はだいぶいい。

なんでも出口の光はあるんだと思って過ごしたい。

少しピアノが弾けたり、気になっていた洗濯物をやっつけたり、日々のことができるありがたみを感じる。

 

日常生活が通常に送れるありがたみを噛みしめているけれど、そんなのは現代人の贅沢で、吉田松陰は

「人一日此の世にあれば一日の職を食らいい日にの衣を着、一日の家に居る。何ぞ一日の学問、一日の事業を励まざるべけんや」と言っている。

昔のすごい人は本当にすごかったんだと思う。

一つ一つの文章が本当に隙間がなく、すべて学問と精神世界に向けられている。

現代のすごい人はすごく頑張るけど、どっかでものすごく気晴らしもしているんじゃないかと思う。

でも、こういう息の詰まるような鋭い思索をする風土もあったのだと勉強になる。

便利なことや楽なことにばかり流されてはいけない。

とは思いつつ、やはり今は病気から早く完全回復したい。。

 

最近毎日新聞を読んでいたつもりだけど、あまり嫌な刑事事件のニュースがにないなと思っていたら、ネットのニュースではたくさんありました。読んでいて苦しくなったのは、75歳のだんなさんが74歳の奥さんを殺してしまった事件。二人の生活の様子が細かく書いてあって、なぜ歯車が狂ってしまったのか、、なぜ幸せが壊れてしまったのか、、せつなくて。

 

そう家族をみな実家に帰したので、一人でいるものだから、熱が下がってきたら映画なんかも見てしまいました。

「禁じられた遊び」まだ見たことがなかったんですよね。

これも苦しくなりました。主人がいうところのフランスがフランスらしかったころのフランス人たちの名演技ですね。

 

そして最後にとどめで号泣するしかないビデオがユーチューブにありました。天才バイオリニストの渡辺茂夫さんのエピソードでした。海外留学はその直後には成功か失敗かわからないものです。私も帰ってきたときには自分の留学という選択は失敗だとも思っていました。でも今は違います。ただ、彼の選択した道はあまりにもつらすぎて。

 

おかげ様で年末に沢山熱も涙も放出し、すっきりしたような気がします。

そういえば、留学といっても全然違うタイプですが九鬼周造、この人も気になっています。

以前にも読書会でテーマになっていて彼の「いき」とはということについて数名の方と一緒にディスカッションしたのですが、今は彼の人物像に興味があります。こちらはかなり留学をエンジョイされていたようですが。ヨーロッパで最初から数か国語をあやつる、なんともハンデなしのスタートです。

最近読み始めた「日本的なもの、ヨーロッパ的なもの」の中の1章に彼が出ています。

やはり「いき」とは色気という要素なしにはありえないのですね。写真からはあまり遊ぶような人には見えなかったのですが、なかなか遊び人だったようで。漱石とは反対タイプのようです。

 

私は未熟でまだまだ知らない素晴らしい日本の作家がいて、そういえば今頃大岡昇平を読みました。「パルム」かな?フランス文学の訳者さんだったような印象であまり私の中で戦争の作家というイメージがないままにここまで来てしまっていました。

慌てて「野火」から読み始めました。今「事件」を読んでいます。「事件」についてはもう最初からなんとなく結末が見えているような気もするのですが、その誠実な筆致が読書を後押ししてくれています。

 

これは改めて読んでいる「美しい日本人」から大岡さんの本を読まなくてはいけない、と思ったからなのでした。

 

そのほかにも並行して、「フランスの高校生が読んでいる哲学者」「Atomic Habits」金太一先生の「ホンモノの日本語を話していますか」エマニュエルトッドの著作など沢山書きたいことはあるのだけれど、今日はそろそろまた熱が出ると困るので、やめておこうかと思います。

 

2024年、政治的な意味では、世界は予想できる方向にしか進まないと思うけれど、思惑を超えたところで何か感動があるような年になってほしいとは思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

ほぼ備忘録ですが、熱が出た後、なぜか決まってポテトチップスか唐揚げが食べたくなるんです。

小さいころから。

熱が出始めたころは、ナシや桃、果物オンパレードと水分補給だけなのですが、よくなってくるころに、なぜか消化悪いのでは、、と思うのですが、ポテチが食べたくなり。。

 

そんなわけで今日はアマゾンでポテチを大人買いしてオレンジジュースと一緒にいただきました。

今日中に届けてくれるのがカルビーではなくて、湖池屋だけだったのですが、湖池屋ポテチ、おいしくなりましたね。

ポテチなんてティーンエイジャー以来あんまり食べなくなってしまって、ましてやカルビー派だったので湖池屋のものはカルビーがポテチを発売する前の透明の馬車の絵が描いてあったかな??そんなパッケージのアブラギッシュの塩まみれのしょっぱすぎるポテチの印象しかなかったのですが、、、今日ジュースと一緒にいただいたのはとってもおいしかった。

 

今しか食べたくないから、あとは娘や家族、職場の人にもらってもらおうかな。。12袋も入っていました。。。

まあ、コンビニに買いに行く元気がなかったのだからしょうがない!

吉田松陰様には叱られてしまいそうな衝動による行動でした。

 

湖池屋透明ビニールのパッケージ、湖池屋のサイトにありました。

「イケイケGoGo湖池屋、ポテトチープス」というコマーシャルソング聞いたことがあるような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくの間、今もっている2つの仕事が忙しくて毎日口をぱくぱくさせながらサバイバル、でした。。。

プラス家族のケア、問題が重なり、まあ10月は怒涛の月だったから、乗り越えた自分にようやく休日が与えられた感じです。

 

ニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコ

 

その間、新聞は読んでいたけれど読書が滞ってしまった!

経済系の本は、私の中では読書のジャンルに当てはまらないので、、

やっぱり本心はもっと自分の趣味の世界を掘り下げたいのに、その時間が取れなかったことを反省。また、忙しいからとやたらとすぐに食べられる食品を買うためにあちこちの食品売り場を巡ってしまったのも、楽しかったところもあったけれど、反省。

やはり、忙しくても野菜を料理して食べることは大事。

 

本当に、大切な人と過ごす時間、好きなことを話す時間は大事。

 

さて、今日は夜になってやっとむさぼるように読書が始まった。

フランス人と一緒に心を割った話ができるようになって、私のヨーロッパへの理解は本当に一気に深まった。

宗教というものがものすごく奥深くに浸透しているヨーロッパの歴史。

それは脇で見ているだけではなくて、実際に毎日会話してその考えの真髄を理解していくことで初めて、非常に奥深くにある教育や思想の根底を垣間見ることができる。

 

日本というのは幸か不幸か、宗教色が薄い国であると、この国に育って思う。

苦しい時には「神様、助けて!」というけれど、その神様が果たして神道や仏教の神様かというとどこか西洋の文化で描かれているキリスト像に似ていなくもない。

だから宗教という言葉自体が非常に曖昧で、理解できないものとして心底にあり、その言葉を聞くだけで、異質で攻撃的なイメージすら受けてしまう。

またこれは今現在もまだ日々のテーマとなっている悪質な新興宗教のイメージも手伝っている。思い切って目を見開いて宗教を見つめなければいけない時がきているかもしれない。自分が入信するとかではなく、少なくともその根底にある思想を理解するために。

 

そして、日本の思想というものも戦後うまく引き継げているかどうかわからない。だから我々の世代から先は、更に子供たちに受けついでいける教育が希薄になってしまってきている。

そんな中で一過性の薄っぺらな考えをまとめた書籍やインターネット情報が横行し、私たちは結局お金に振り回されている。

 

それが、このフリーメーソンの秘密を読むといろいろと辻褄が合ってくる。

 

そして、やはりキリスト教と同様に日本に輸入されたフリーメーソンは何かオリジナルとは別のものであるのだと強く感じる。

 

私たちの生活はこの現代の経済システムの上に成り立っている。

これを知ったように語り、知らないうちに自分を奴隷化しているのに気づかず、私たちは自分の意志でこの生活をつかみ取っているかのように錯覚している。

しかし、こんな中にあっても、このフリーメーソンの元となっている思想にまったく侵されてコントロールされてはいけない、と強く思うのだ。

 

甘ったるい日常の惰性に流されることを許してもらえるこの現代社会は、それでもバランスをとらないと生きていかれない危うさが潜んでいる。

私たちが働くこと、家族との時間を削られていること、経済の奴隷化を強いられている状況なのに、そのことを振り返る時間すらも奪っていこうとしている危うい思想。

そして最近の私は人道的な問題には勿論非常に憤りを感じるが、しかし歴史上にあった様々な弾圧の根底にある憎しみに何か不可抗力を感じずにはいられないでいる。

すべてはこの本の裏表紙に集約されている。

 

この本はただ読んだだけでは、秘密を垣間見るというだけの薄い理解になってしまうけれど、その根底にある宗教対立を深く見据えると、私たちが隷属している社会の問

 

 

題点が見えてくる、そんな深い読み方ができる本なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

夏から秋への移り変わりはこんなに急転直下だっただろうか、、と思いながら、それでもまだ夏物を着てくしゃみをしたりしている。

 

いろんなことが差し迫っているようで、でもなかなか遅々として進まなかったり、人との距離感をうまくとりつつ、どうやってことを運ぶかについて考えあぐねたり、降ってくるシステム変更で口をパクパクさせたり、放っておきたいことがらが放っておけなかったり、、、

 

今やっと自分に向き合って、これからの優先事項をまとめ始めようとしているところ。

昼休みに読み始めた「考えるヒント」、これをしっかり読み下すには、沢山の知識がないといけないのに、なまくら読者のわたしはまたいつものペースで、自分なりの解釈と浮遊する思考を、飛んできては捕まえられない虫のように、掴もうとしているわけで。

 

ふと、昔の人からしての本と、今の人からしての本の存在価値の変容を感覚的にわかろうとしなければならない。

現代のような多様な漫画がない時代に、文学作品や詩を楽しんだ時代、それが、今では本は勉強のために読まなければいけないもの、または読んでいると「こむずかしいもの」に触れているのね、というような見方。

 

100年前と現在とで、人々の活字に対する感覚の違いというのは、是非知りたいと思う。

 

さて、なぜこんなことをいうかというと、小林秀雄氏は、文学を、活字をものすごくエンジョイしていたようだから。

以前に仏文の大家のあとがきなどでも、長い長い文学作品を「何度読み返しても面白い」と評していたことを思い出すのだが、現代という時代は、またはただ単に私という人間は、ものすごく想像力が乏しくなってしまったのだろうか。

活字が活字という言葉でしか入ってこないから、言葉を実像の代わりとして三次元の世界を浮かび上がらせる道具でなく、言葉を言葉の響きとしてとらえてしまっているだけに過ぎないような気持になってしまう。

それぐらい、小林秀雄氏は、言葉と思考が一体化していて、一つ一つの言葉が説得性があるのだ。

 

まあ、私がほぼ全巻読破したのは、「のらくろ」ぐらいだろうか。

作者の田川水泡氏が、小林秀雄氏の義理の弟さんとは!

小林さんは、本当にいろんなつながりがある人なんだな。

 

もちろん戦後の苦労知らずの世代の私はただ単にのらくろをのらくら読んだにすぎなかったが、小さいころ病気の床で読んだのらくろは、なんとも痛快で。ブル大佐のヒューマニティ(ドギティ?)を愛しつつ、「~であります」という軍隊式のセリフの奥にある時代背景も何も見ないで、ただただキャラクターたちの行動を追っていただけだった。しかし困ったことに敵の豚軍隊が、中国の人の代わりに描かれていたことは子供ながらに教えてもらっていて、「このような時代だったのだ」というあえて目を伏せておきたいような気持と罪悪感のような気持とが入り混じっていた部分のなかったわけではない。

 

あらためて、「のらくろ」というキャラクターの哀愁からディズニーのミッキーまで発展して、文学よりも漫画に可能性を感じるかのような小林氏の展望を読んで、それが現代にもまだ脈々と続いているのだろうか?であってほしいと願わずにはいられない。

ただ、インターネットの広告にあがってくる胸が悪くなるような漫画にはもう辟易としている。

 

創作とは、十分に突き動かされてから、世に出てきてほしいのである。

 

 

 

 

今週もいろいろあったけど、とりあえず、職業柄、声を大事にしないと、、プロポリス飴が欠かせません。

そう、まあまあいい年を超えてからの異業種への転職でしたが、案の定、今までの仕事、職場環境からしたら甘すぎる。

とても楽に感じてしまっています。

「変わった人が多いよ」と聞いていましたが、そんなこともなく、周りもまともそうな人ばかりだし。。

 

もちろん、例外的にとても変わった人もいましたが、あえて本人が変わった人になりたがっているようなので、放っておいていいのかな、、と。

最近職場以外の関連でも「変わった人」で困ることがありましたが、要は、「変わっている」というのは、モラルの問題だと思います。自分のことしか考えられない人。。モラルがない人。最低限のことをしてくれていればよいですが、それがやっぱりできないから、「変わった人」と呼ばれるんですよね。向かい合って座っているのに、その人のことを悪く言ったり、別の人が言っている陰口をそのまま受け売りで使っていたり。こんな楽な職場で何が不満なのかと思ってしまいます。

まあ、街を歩いていても、見た目は普通っぽい人でも最近礼儀を知らない人が多いし。

「ありがとう」「すみません」も言えない人が多いですね。悲しいかな。

 

でもこんなことはちっぽけですね。

金曜日の夜、夢を見ました。

誰かが私にささやくのです。

ロシアから戦闘機が迫っていて、日本に核爆弾を落とす予定だと。

こんなに沢山の日本の人々、みんなあと少ししか命がないんだ、と、なんかむなしくなりました。

また、今朝ほどYahooニュースだったかな、2億年後の地球はもはや人間は住めない暑い大陸になっているとのこと。

いつまで続くかわからない人間の世界。

こうして言葉の破片を綴るのも、小さな人生への精一杯の抵抗ですね。

 

というわけで、「無常という事」を読み始めました。

最近の本を数冊読んでいたせいか、とても懐かしい場所にきたような語り口です。

 

話は飛びますが、今朝がた夫から「演説しているヒトラー」のビデオをFWDしてもらいました。

すごい迫力でした。

大変失礼かもしれませんが、いつも紙に書いてある原稿を読みながら話していた元管総理の弱弱しい様子を思い出して、そのコントラストにタメイキが出ました。

ヒトラーについていく人もトランプについていく人も、気持ちがわかるように思いました。

これも夫と話していましたが、教育は「見てはいけない聞いてはいけない」とフタをするものがあるかもしれませんが、すべてにフタをするのも危険だと思われます。うわべだけしか知らないことが増えていくから。

 

そういえば、金曜日にはうれしいこともありました。

主人のビザの期限が長くなりました。

日本の入管には不満もありますが、日本を守ってくれてもいるのは感謝しております。VISA申請にそこに来ている様々な変な人、公共の場で大声で歌ったり、、、とかくマナーが悪い人たちがあまり日本に定着しないでほしいという気持ちは大いにあります。私は一度しか訪れたことがないので、記憶に残ってるだけですが、主人は行く度にいわゆるマナーのない外人にストレス感じているようです。

 

そしてまた話はころころ変わりますが、3つめの仕事が9月に終わったところ、また新しい仕事がきそうな気配!

すべて、受けて立つつもりです!

 

 

連休の後は、やはり忙しかった。

様々なことがあったが、ビッグトラブルは何も起こらず、一区切りがついた。

 

主任と金曜日にちらっと話したけど、最近の若い人たちはより一層Sensitiveになっていて、どうしてあげたらいいんだろうってもう私たちの世代では理解できないことが多い。

もっともっと強くなれるのに、どうしてそこで限界を感じてしまうんだろう。。。まあ、本人の立場じゃないからあんまり言えないけど。もったいないと思うんですよ。

 

思えば私はそんなことを感じる暇もなく、がむしゃらに仕事ばかりしていたから、いろんなことを繊細に感じている余裕がなかったのかもしれないけど、、そういう意味では子どもたちに感謝です。子どもたちが生活していけることだけを考えて仕事をしたから、自分の限界なんか考える余裕がなかった。思い切り壁にぶつかって、でも次に進むレジリエンスが鍛えられました。。

 

2人の子供たちが今後どのくらい社会にきちんとかかわって貢献できるようになるか、まだまだわからないけど、でもバーバ(母)にはもう少し頻繁に連絡してあげてほしいなあ。

今年の7月に二人は母の家に遊びに行ったはずなのに、母はもうそんなこと忘れてしまっている。

時間は長いようでいて一瞬なんだと認識して、そして大切な人と時間を分かち合うことをなおざりにしないでほしい。

そこにいつもいてくれる人がいなくなったときに、失ったものの大きさを、彼女たちは改めて感じるのだろうか、、

私がそこまで親や親せきにまめに連絡していたかというと、そうでもないので、たいした立場ではないけど。時間が猛スピードで過ぎていること、わかってほしい。

 

*****

さて、そんな思いを持ちながらの帰宅途中、主人と待ち合わせをするまで(相変わらず仕事がおそいので)本屋さんで気になっていた本を買ってしまいました。

「2050年の世界」、新聞の広告で見かけて、読みたいと思っていたんです。2050年、遠すぎなくて、自分たちのジェネレーションにかかわる気になる未来ですよね。

 

なんとなく昨日は、フンパツして、ローストビーフを買ったり、この本を買ったりしているうちにやっと帰ってくるとのこと連絡が入りました。最寄り駅で待ち合わせしたところ、バケツをひっくり返したような大雨。

バス停やタクシー乗り場に行くにもすごいので、しばし雨宿りしようと、何年ぶりかでスタバに入りました。

主人はスタバは好きではないのですが、そこしか空いてなかったので、有無をいわさずな感じでした。

久々のスタバ、チーズケーキは相変わらずおいしいけど、飲み物は私が変なものをたのんじゃった!甘いだけのシロモノ。あまり慣れないものは頼まない方がいいですね。

 

そして、今日やっと仕事がはけて、ご飯の支度と片付けが終わって読み始めています。

*****

まだ読み始めたばかりですが、どうも内容的にはいろいろ薄まっている感があります。

本とは、出版されるまでにどんどん校正されて、内容的にもパンチがきいたところは薄められていく運命なのかもしれませんが(ハンチバックは違いましたけどね)、元々思想的にはかなり穏やかで癖のない人なんでしょう。というか全く思想が感じられない。事実をつぶさに分析して説得しているわけでもなく、残念ながら。私は納得させられませんでした。

High LevelのOverviewに徹してしまっているようで、なんのインサイダーの視点もないから、客観的といえば客観的、そこに日々私たちが感じている根拠のない不安を解き放つストーリーは展開されなかったのでした。

 

トランプのポピュリズムに対してもこれだけ話題になっているのですが、非常に楽観的です。トランプより強い候補が出てくる?アメリカが、今よりも穏やかになって居心地がよくなる?はてなマークで頭がいっぱいになります。

まあ、今から27年ほど先のことですからね。そういう可能性もあるのでしょうか。

フランスの未来にしても、日本の未来にしても、彼の提供するソリューションはいちいち表面的で単純、楽観的に思えました。

共感不足の読者の直感的な感想です。

 

もちろん、各国の状況で知らない情報も沢山詰まってるので、頭の中にマッピングを作るよいベースにはなります。

ただ、あくまでも参考として一読しておいて、あとは自分の目で見て、自分で考えていかないと、、

この人が各国で見て来たのは、上澄みだと思います。

 

私が注目しているのは、ナショナリズムや民族としてのアイデンティティが、このITに満ち満ちた世界でどのくらい継続し得るのかというところです。

先祖から引き継いだものがどんどん小さくなっていくのであれば、さらにグローバリズムの影響で個人の国への帰属意識は薄まり、人の流動性を高めるのに好都合になっていくでしょう。。

将来、国を去る人が増えたとき、またやってくる人たちがコントロールできないぐらい増えたとき、何を守らなくてはならなかったのか、気付くのが手遅れにならないために、根拠なき楽観主義は、危険だと思うのです。


先週買った吉田松陰の本に戻りたいと思います。