あと20年後の日本 | 読んだ積もり

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読書記録メインに、日々のかけらを綴る

最近、三島由紀夫についてよく考える。

右や左やよくわかっていない者でも、その潔さには尊敬と畏怖を感じる。

ただあまりにも惜しい。

これはやはり日本人の根本なのだろうか。死を選ぶライフスタイル。

彼の思想をもう少し深く知るためにはやはり小説を再読するしかないと思う。

 

吉田松陰の言葉をたどりながら生きていくのには、あまりに不真面目で、息苦しくなってしまっていた私は、しばらく彼の本を置いたままに、日常生活に振り回されて、あまり読書という読書をしていなかった。

 

ハウツー本の類や、写真入りのガイドブックは、仕事や通勤の合間合間に目を通すだけでよいけれど、本当はもっと面白い本がよみたい。

せっかく日本には名作が沢山あるのだから、漱石、太宰、それに三島は死ぬまでに完読しなければ。

 

今はマンガが沢山あるから、ついついマンガで済ませてしまう読書もあるけれど、この前「君たちはどう生きるか」を読み直して、やはりマンガではだめだな、、と感じた。

マンガは素晴らしいものが、昔は沢山あった。

だから、マンガの絵と言葉が一体になって、ものすごい力を出していたんだと思う。

今書店に並ぶマンガの本はどれも三流な感じがする。面白いのかもしれないし素晴らしいのかもしれないけれど、何か惹きつけるものを感じない。手を触れたいとも思わない。

 

年をとるにつれ、若者たちの興味があることについて関心がもてなくなるばかり。

マンガだけではなく、音楽も素敵なものとして耳に残らない。

以前は、自分の親たちと自分たちのほうが、自分たちと子供たちのジェネレーションギャップより大きいと思っていた。

当然人間の質は私たちの世代で各段に落ちたと思う。苦労を知らないから。

 

でも、今は考えが変わった。実は自分たちと子供たちの世代のギャップのほうが、より大きくなり始めているようだ。

家庭を持つ、子供を持つ、ということが普通でなくなった世代。インターネットとスマホネイティブの世代。

 

そして、そうした新しい人間たちに、古い人間たちはもう何も残そうという気力がなくなってしまっている。

 

例えば建築。

中野サンプラザもなくなる。昭和の日本を代表する建物もあの形では残せないのだし、同じ形での復旧もしないようだ。

昭和の思い出の店が閉まっていく。

山の上ホテル、鷗外荘、学士会館、、、なぜ引き継いでいけないのか、、次の世代に。

 

表象を残さないだけでなく、ライフスタイルもつぶされていく。

この前ルミネの本屋がなくなってもうルミネカードの意味はないのかとショックを受けていたが、京王の本屋も少し前にしまっていたようだ。

昭和を懐かしむどころではなく、自分の生活にとってなくてはならない本屋がどんどんなくなってきているというのは本当に恐ろしい。そして、どうしてもなくてはならないと思っていたデパート。百貨店の閉店は止まらない。現存している百貨店も中身はもはや百貨店のものではない。100円ショップやニトリやヨドバシだ。

 

原宿だって昔はもっと夢があった。

同潤会もあったころはよかった、あそこにあのアパートがあっただけで街が美しかった。

表参道ヒルズはあんなに都市の真ん中にあって空虚だ。

完璧でもなく、ビジネスがすべてでもない空間が人にとってはまだ人間として生きる場所でありえたのだ。

人間を整理しすぎると、生活は途端に優雅でなくなる。

 

何かが音をたてて崩れている。

おそらく人が少なくなったから、情熱を持った人口も更に減り、

不在感だけが街に漂っているからなのだと思う。

 

今の若者たちは、もうアメリカやヨーロッパに行ってみたいとはあまり思ってないようだ。

私が小さいころには、アメリカは自由で広大な国、ヨーロッパは伝統を大切にした街並とおしゃれで知識のある人々の国、というような漠然としたイメージがあった。

今の子供たちの関心はもっぱら韓国のようだ。

正直何が面白くてどこがかっこいいのか理解不明のアイドルたちががじゃがじゃいるらしい。

私は新大久保の街を歩くととても気分が悪くなるが、あそこを歩いている多くの人は非常に楽しんでいるらしい。

 

各国のイメージはこうして変容しながらも、おそらくどんどん子供たちの中で国の特徴が薄れていっているのではないだろうか。やたらとタブーを作ると民族や国家の素晴らしい部分も弱まってしまう。

やたらと自由を奨励すると、自由になるべきではなかった精神が大腕を振って闊歩して人間の品格を下げる。

 

とにかく極端な方向にはふれないで、現状をもう少し維持できたらいい。

ただ日本が日本でなくなる日は、他の外国人の文化のほうが強力になっていく日は、わりと近い未来だと思う。

そのとき、気づいてもおそくなり、日本人はマイノリティーとして、どんな位置づけで嘗て自分たちの国だったところに暮らしていくのだろうか。ひとり、またひとりと古き良き日本人が亡くなっていって、私たちはその零れ落ちるキラキラした心をすくえないままに途方にくれている。