前々回、前回からの続きである・・

 

前回までの記事はこちら。

 

私を育ててくれた先生たち。〜序章〜

 

私を育ててくれた先生たち。〜第1章「カバリエ先生との思い出」〜

 

 

あれから・・・

人間より猿が多いような岡山の山奥に、ピアノとともに引っ越してきたあもる一家。

 

親戚の知人にピアノを教え始めた人がいる、ということで紹介されたのが、

健やかなるときも病めるときも14年間私を熱く教えてくれることになる先生であった。

それまでの先生(カバリエ先生)が、いかにも声楽の先生、オホホって感じだったのに対し、この先生は髪の毛は短く刈り込みボーイッシュで、裏表の全くないカラッとした女性であった。

てなわけで、湿度0%のカラリ先生とここでは呼びたい。

けして優しい先生ではなかったし(笑)、小さい頃はともかく中学生にもなって練習もせずましてや譜読みなんかしてこなかったら最後、めっちゃどやされたが、ネチネチ叱ったりそういうことをしない先生であった。

 

以前、カラリ先生のエピソードを少し書いたのでこちらもご参考までに。

→『壽 初春大歌舞伎 歌舞伎座百三十年 松本白鸚/松本幸四郎/市川染五郎 襲名披露

 

※T先生というのがカラリ先生のことである。

 

 

初めて出会ったこのとき私8歳、カラリ先生は大学を出たばかりの22歳であった。

このときは私も子供で意識しなかったが、あのときのカラリ先生って若かったんだなあ。

 

ところで前回の記事で「14年も一緒にいたら姉妹やん!」と言ったが、私とカラリ先生の関係はけして「姉妹」と呼べるようなものではなく、ガッチリ先生と生徒で、仲良し姉妹とかそんな雰囲気は1mmもなかった。

若い女性というものは子供に優しいと思っていた私だったが、カラリ先生の第一印象は

「子供に媚びない人だなあ」

であった。

 

そしてこのカラリ先生のピアノ指導の方針を一言で表すと、表現力第一、であった。

 

そりゃミスはしないに越したことはないが、ミスの有無なんかより「音楽を感じる」「心をこめて演奏する」ことを第一にし、ミスを怒られたことはないが、ミスをしないことに気をとられて音楽が小さくなったり、うまく流れなかったりすると厳しく指導された。

ミスのない無味乾燥の演奏をするくらいなら、ミスしまくっても自分のピアノに一瞬でも聴きほれるような演奏をしなさいと。

 

さらには「呼吸する」ことを常に意識するよう言われていて、難曲演奏時に息をするのも忘れ、息を詰めて必死で演奏していると

「呼吸〜!!肩の力抜く!」

と激が飛び、常に歌うように演奏することを求められていた。

そのクセというか習慣が未だに残っているのか、今習っているモネ先生(後日登場)に

「あもるさんはよく呼吸できてる。」

と言われる。


歌え、歌え、もっと歌え。

子宮で感じろ!

私が楽譜の指示なんかに従ってなくても(オイッ笑)、それが心地よい音楽の流れになっているのであれば褒めてくれる先生でもあった。

よって、

少しは作曲家の指示に従うように・・(呆)

とモネ先生によく注意されるのも、カラリ先生のクセが抜けきれないからでありましょう(笑)

 

この場面の「のだめ」のようなことを普通にやっていた。

(さすがに強弱くらいは指示に従っていたけども・・!!)

 

そして、私の演奏の特徴の1つに手の形が独特、ということがある。

一般的には、

猫の手のように指を丸めて弾く

ふんわり手のひらに卵を持つようにして弾く

のが正しいポジションと教えられる(今は違うのかも?)のだが、私はその「猫の手」「卵を持つ」がどうしてできず、いつ頃からか5本の指全てを伸ばして演奏するようになった。

ホロヴィッツ方式といいますか、さすがにそれは言い過ぎといいますか。

 

まさにこんな感じ。手の形だけだけど!あとは全く比較になりませんけども!!

 

上記のとおり一般的には注意される事項である(実際、このあと直される時期が来る。)。

カラリ先生も最初は注意していた気がするが、この方が私にとって弾きやすい、ということが段々分かって来たのか、言っても治らないと諦めたのか、言わなくなった。

 

 



 

わかりにくいが数ヶ月前のピアノの発表会での演奏でも指が伸びきっております〜。

 

 

 

 

ここで思いだした話がある。

高校時代、ドヴォルザークのスラヴ舞曲という連弾曲が大変気に入り、一度この連弾曲を弾いてみたい〜と思った。

しかしこの曲、か〜な〜り、難しいのだ。

 

息が合うという点では妹と弾くのが一番いいのだが(遠慮なく文句も言えるし笑)、小学校卒業と同時にピアノをやめた妹にとてもじゃないがこの曲は弾けない。

私と一緒に弾いてくれる人はおらんか〜

と高校で探しましたところ、序章で触れた、ミスすると先生にモノサシでぶっ叩かれていた友達が私と同じくらい弾けることが判明。

連弾やろう!と声をかけると、快諾してくれて、早速翌日高校の音楽室のピアノで合わせてみることになった(あの頃の私、譜読みが超絶早かったんだなあ・・遠い目。)。


私たちが弾いたドヴォルザークの曲(2曲)はこちら。。

 

↑この曲は私がプリモ(上)を、友人がセカンド(下)を弾き・・・

 

 

↑こちらの曲は選手交代、私がセカンドを弾いた。

(パート選びは公平にじゃんけんで担当。)

 

いや〜、これまで私、他人の演奏(自分と同じレベル)を間近で聞いたことがなかったので彼女の演奏を聞いて雷にうたれた。ビカーーー!!

 

こんな正確無比な演奏をする人がいるんだ・・・と。←すごく良い意味で。

 

ちなみに彼女は私の演奏を聞いて

こんな自由な(=無茶苦茶な←言葉には出てないが表情で笑)演奏する人がいるんだ・・

と思ったそうです(笑)

 

そして彼女の手はまるでお手本のようなニャンコのお手手で、鍵盤上をクルクル回っていた。

さすがモノサシでぶっ叩かれてただけのことはある(笑)

(とか言ってみたが、彼女はモノサシでぶっ叩く先生のところは早い段階でやめ、別の先生のところで研鑽をつんだ。モノサシで叩かなくても上手になる子はなるんです。)

 

そんなニャンコフィンガーの彼女、

 

「その指でどうやって弾いてるの・・?」

 

と半ば強引に鍵盤を飛び回る私の伸びきった指に心底感心しておりました(笑)

私の手は日本人女性の中では大きい方なので(汗かき夫よりでかい笑)、鍵盤上でバタバタ動き回り、和音を雷鳴のごとく打ち鳴らす私の手はかなり圧巻であったろう。

 

 

カラリ先生の話に戻り、カラリ先生は特にバッハを重要視しており、早い段階でバッハの二声、三声の曲を練習曲として用いた。これは私が成長してもかわらず、必ずバッハは弾くように言われていた。

バッハを弾くのが苦手、という人もわりといる中、たった2年間ではあったが幼い時期にカバリエ先生からソルフェージュをみっちり教えられたおかげか、わたしゃ耳が人より良く、バッハの二声、三声を聞きわけ、弾き分けるのが全く苦ではなく、さらにカラリ先生がみっちりバッハを指導したのでバッハに抵抗なく、そして超絶得意となった。

バッハに苦手意識がない、というのはどのピアノ曲を弾くのにも役立つ。

なんてったって、音楽の父ですから。

全てはバッハに通ず。といっても過言ではない。

 

そんなこんなでカラリ先生からは何から何まで色々なことを教わった。上記に述べたことはほんの一例である。

そんな中でも私がカラリ先生に教えてもらった一番大事なことは

 

「ピアノは奥が深くて、楽しいものだ」

 

ということである。

このことは私の財産だ。

下手の横好きであってもそれはかまわない。

あれから長い時を経て、こんなおばちゃんになっても再びピアノを弾きたい!と思える土台を造ってくれた。

モノサシで叩かれたり、ネチネチ叱られたりしていたら、ピアノをまた習おうだなんて思わなかっただろう。

 

出会った時から14年という長い年月が過ぎ、私は就職のため上京することになった。

カラリ先生とお別れの時である。

カラリ先生は私に

 

ずっとピアノを好きでいてね。

東京にはいい先生がたくさんいる。せっかく東京行くんだからいい先生に習ってほしい。

 

という言葉をくれた。

 

と言われてもなあ・・

東京の一人暮らしのマンションにピアノを持っていけるわけもなく、

ピアノを好きではいるだろうけど、習うことは無理・・

とかぶちぶち言っていた。 ←現実的な答えだが、よき生徒の回答としては不正解!!

 

が、カラリ先生が私にくれたこの言葉、約20年という時を経て実現することになる。

(カラリ先生の言う「いい先生」かどうかはともかく(笑))

 

 

次回、人生で最初で最後(おそらく)の男の先生の登場です。

 

 

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