夏至と重なる本日は、後三条天皇の祭日です。1年の分岐点の一つであるこの日が、天皇の歴史の中で一つの分岐点となった後三条天皇の祭日に当たっているのはなにかの象徴のように思えます。

 

第七一代後三条天皇は平安時代中期の天皇で、171年ぶりに藤原氏を外戚とせず、わずか4年半で朝廷を変えた天皇です。

 

生年は長元七年(1034年)。


御父は後朱雀天皇、御母は第六十七代三条天皇の第三皇女、皇后禎子(ていし)内親王。(藤原道長の外孫)。後三条天皇は円融天皇の曾孫に当たりますが、母君は円融天皇の兄である冷泉天皇の孫にあたります。つまり、後三条天皇が即位されたことは、冷泉天皇系と円融天皇系統に分かれた皇統が統合された天皇でもあります。


御名は尊仁(たかひと)。


父帝後朱雀天皇の遺勅により、異母兄後冷泉天皇即位と同時に立太子され、十二歳で皇大弟となられます。


藤原氏は娘を皇室に入れて、天皇の外戚になることで勢力拡大をしてきたので、自分達の外孫でない皇子を冷遇したり、排除してきました。後朱雀天皇の第二皇子の尊仁親王もそんな皇子の一人でした。(しかもその母は、誕生の際親王誕生を期待していた道長にがっかりされた、歓迎されない内親王として育っていました。)


その為皇太子になっても、皇太子が継承する秘宝・壺切御剣を渡されないなどの嫌がらせを、藤原一族の長、頼通に延々と続けらました。そうした苦労の後長い皇太子時代を経て、後冷泉天皇崩御により治歴四年(1068年)即位されました。


藤原氏にしてみればショッキングな事件で、頼通は関白職を弟に譲り引退。また天皇は藤原摂関政治に楔を打ち込み、天皇の権力を取り戻すため様々な天皇親政を推し進め、中でも画期的と言われているのが延久元年(1069年)の「荘園整理令の発令」です。


これは、寛徳二年(1045年)以降に作られた新たな荘園及び設立の手続きに不備のある荘園は認めない趣旨の法令で、一切の例外を認めずに違反荘園を没収し、藤原氏の財源に初めて楔を打ち込んだものです。藤原氏とは直接の血縁がなく、三十六歳と壮年で二十五年の長い東宮時代を送られた天皇は、国家財政の改革に着手され、藤原氏らの荘園も調査の対象とされたわけですが、唯一関白頼通の荘園の中核であった平等院領についてだけは全く手をつけることができなかったことが、頼通の権勢を物語っています。

 

 

しかしこのことは、摂関家などの後ろ盾がないと厳しい皇室と国家財政の政治力・経済力を飛躍させました。こうしたことは、後ろ盾がなく道長の圧力に屈しざるをえなかった母方の祖父である三条天皇の状況からずっとその解決策を考えてきた結果ではないかと思います。


延久二年(1070年)には絹や布の品質を統一する制度、絹布の制を発布。


同じ年に、征夷の完遂政策を進め、陸奥守源頼俊が清原貞衝と共に兵を率いて出征し、延久蝦夷合戦を戦い勝利し、津軽半島や下北半島までの本州全土を朝廷の支配下に置きました。これ以降近世(江戸時代)まで津軽海峡が日本の支配の北端となったのです。


延久四年(1072年)、市場における公定価格及び物品の換算率を定めた法令、估価法を制定し、律令制度の形骸化によって弱体化した皇室の経済基盤の強化が図られました。


同じ年に、米や水を図る升の大きさを一定にする公定升を定めました。


その治世が長ければ日本は大きく変わったかもしれませんが、わずか四年半で第一皇子の貞仁親王へ譲位(白河天皇)し院政を開こうとしましたが、翌年病気のため崩御。この譲位は病のために行われたとも言われています。


譲位により即位された白河天皇以降、院政が続く時代となっていきましたが、これは、後三条天皇以降、摂政・関白が外戚となることはまれになり、一時的に摂関が政治主導することになってもそれが長続きしなくなったことも大きく関係しています。摂関家を外戚としない後三条天皇が即位され皇室の経済力を飛躍させたことが大きな転換期となったのです。


在位期間は、治歴四年(1068年)~延久四年(1072年)。


延久五年(1073年)崩御。


母方の祖父、三条天皇をずっと意識されてきた後三条天皇は、生前から後三条を名乗られていたと伝わり、そのまま追号されました。摂関家の外戚策により、三条天皇の父の冷泉天皇の弟の円融天皇が即位することで始まった皇統の分裂は、正当な皇統の排除まで生み出していました。しかし、円融天皇系でありながら母方の祖父の名を後加号することは、両方の皇統を融合させた証でもあるのだと思います。

 

後三条天皇の御代の政策は、官や荘園領主、農民に安定をもたらしたため、「延久の善政」と称えられました。


御陵は圓宗寺陵(えんそうじのみささぎ)、京都市右京区龍安寺朱山町にあります。

 

 

復刻版初等科国史の後三条天皇の御代の段落をご紹介します。

 

やがて第七十一代後三条天皇が、御位におつきになりました。天皇は、世のなりゆきを深くご心配になり、御みずから政治をおとりになりました。たびたび藤原氏をおいましめになり、ゆるんだ政治を立て直そうと、おつとめになりました。おそれ多くも、倹約の模範をお示しになり、日々の御膳部にまで御心をお配りになったと伝えられています。石清水八幡宮に行幸の御時など、奉迎者の車のはでな金具に、お目をとめさせられ、その場で、これをお取らせになったこともありました。しぜん役人たちは、心をひきしめて務めにはげみ、さすがの頼通も、おそれ入って関白の職を退き、平等院へ隠居してしまいました。しかし天皇は、わずか五年で御位を第七十二代白河天皇におゆずりになり、まもなく、まだ四十の御年で、おかくれになりました

 

戦前は、後三条天皇は教科書で必ず教えられる天皇でした。しかし、現在の私たちは、その次の白河天皇以降の院政の始まりから教わっており、私は歴史の学び直しをするまで後三条天皇のことなど知りませんでした。しかし、その院政とは後三条天皇が親政で改革を成し遂げられたからこそできた制度でした。つまり、天皇の母方の外戚が勢力を持つ形から、父方である上皇が天皇をバックアップする形へ変えたのです。それは、長らく権力をふるってきた藤原氏の力がやっと削がれるということも意味し、天皇の地位が安定することでした。

 

こうしたなにかを成し遂げた方について知ることは、後の私たちへの励みになります。だからこそ、国史を知ることは重要です。かつて成し遂げられたことがあったなら、これからも成し遂げることができるはずだからです。国史はこうした励みになるためにも存在しています。そして、だからこそその国を滅ぼそうとする輩はそうしたことを教えないようにしようとするのです。戦後、GHQは「国民から尊敬される天皇の歴史は書いてはならない」という教科書基準を設けていました。だから私たちは、仁徳天皇も、嵯峨天皇も、宇多天皇も、後三条天皇もそして光格天皇も、戦前はみな教わったであろう尊敬される天皇について教わらずに来たというわけです。現在天皇陛下は126代ですから、ご歴代の天皇には色んな天皇がいらっしゃいました。そうしたなかで、私たちが教えられてきた天皇は、何かしら否定的な部分がある天皇ばかりだったのです。

 

 

竹田恒泰氏がねずさんこと小名木善行の動画チャンネルで語る。GHQが作った教科書基準の話は9:35ぐらいあたりから。

 

 

 

 

 

参照:「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記からです。崩御日は本により違います。
「天皇を知りたい」Gakken
「天皇のすべて」Gakken
「歴代天皇で読む正史」錦正社

 

 

 

 

 

 

 

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