時のきねん日

 

六月十日は、時のきねん日です。

この日は、今から千三百年ばかり前に、天智天皇がごじしんでお作りになった水時計で、始めて、みんなに時をお知らせになった日であります。

天智天皇の、お作りになった水時計とというのは、水のもれるしかけで、時をはかる時計です。

今では、はしら時計や、おき時計や、うで時計や、たくさんあって正しい時を知らせてくれますが、昔の人は、時を知るのに、いろいろと工夫したものであります。

しかし、どんなにりっぱな時計があっても、私たちが、時を知るだけでなく、時を正しく守るように、心がけなければ何にもなりません。

学校の授業は、時間通りに行われます。家にかえっても、おさらいとか、運動とか、ごはんとか、みんな時をきめて、それをよく守らなければなりません。そうでないと、人にめいわくをかけるばかりでなく、からだを弱くしたり、病気になったりします。

時を守ることは、やさしいようで、なかなかむずかしいことです。時計を見るたびに、私たちは、正しく時を守るようにこころがけましょう。

時のきねん日をきねんして、みんなで、きまりよくくらすように心がけましょう。

(復刻版初等科修身一:三年生)より

 

 

2020年、時の記念日百周年と話題になっていましたが、それをいうなら、2021年は時報1350年の年でしたが、そんなことを書いていたのはこのブログくらいだったかもしれません。しかし、天智天皇が時を知らせたことを記念してからの時間よりも、記念日にしてからの時間を喜ぶなんて本末転倒です。だからこれからも繰り返し、本来のことを伝えていきたいと考えています。

 

日本で時報を初めて行ってから、今年で1353年となります。

 

時の記念日は中大兄皇子が漏刻(水時計)を作成し、即位した後(天智天皇)、治世10年(671年)4月25日漏刻を設置し時報を開始した事に由来します。漏刻を作成した日付が不明の為、漏刻を設置し時報を刻んだ日の4月25日に対応するグレゴリオ暦の日付6月10日を、近江朝廷で時報が開始された記念日として大正9年(1920年)に制定されたのが、時の記念日です。

 

毎年この日には、近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり漏刻祭が行われています。コロナ禍では縮小して行われましたが、今は例年通りに戻っています。

 

漏刻祭(近江神宮HPより)
近江神宮のご祭神・天智天皇は、時を認識することが社会文化の発展に不可欠のものとお考えになり、ご治世の10年、その都・近江大津宮に漏刻(水時計)を創設して時報を開始されました。
『日本書紀』に「鐘・鼓をもちて時を知らす」とあり、この日を記念して、太陽暦に換算した6月10日が『時の記念日』と定められています。
この日、わが国時報の創始を仰ぎ、時の祖神・天智天皇に感謝の祈りを捧げるとともに、社会と文化の発展・産業繁栄・家内安全を祈願する祭典として、近江神宮ご創建以来『漏刻祭』が斎行されています。
当日は王朝装束をまとった時計業界の皆様(29年はシチズン時計株式会社の役員の皆様)と びわ湖大津観光大使ほかの采女の皆様が、各メーカーの時計新製品を御神前にお供えして時計の歴史の進展を奉告し、感謝の誠を捧げます。
祭典の中で奉納行事として女人舞楽・原笙会による舞楽が行われます。本年度は「八仙(はっせん)」が舞われます。またこの日の恒例により、滋賀県華道協会の流派持ち回りにより内拝殿前に献花が活け込まれます。
なお、当日は時計館宝物館が無料公開、また古代火時計は線香に点火し実演されます。(雨天中止)

 

 

こちらでは毎年、時を守る標語を募集しており漏刻祭に表彰式を行っています。今年の最優秀募集標語は以下となります。

 

夢を追い 未来へ進む 時の道

 

 

近江神宮 時計館宝物館

わが国の時刻制度は、今をさかのぼること1350年の昔、天智天皇の御代に大津の都に漏刻(ろうこく)を設置され時間を知らされた御事績に始まります。漏刻とは水時計のことであり、日本書紀には、初めて漏刻を用い鐘鼓を鳴らして時を知らされた、と記録され、時の記念日の由来ともなりました。
昭和38年、近江神宮時計博物館は、わが国最初の時計博物館として、日本の時刻制度発祥の地に設けられました。平成22年4月、近江神宮御鎮座70年を期して改装し、「時計館宝物館」として新装開館、その後、27年に屋根の銅板を葺き替えました。1階の時計館には高松宮家(有栖川宮家伝来)から御下賜されたわが国最古級の懐中時計や、各種の和時計をはじめ古今東西の時計、2階の宝物館には曾我蕭白「楼閣山水図屏風」(重要文化財 展示品は複製)や河井寛次郎の陶器、刺繍で織った百人一首織かるたなど、御鎮座以来各界の方々から奉納いただいた各種の品々を展示しています。

 

漏刻について

近江神宮の御祭神天智天皇は、その10年(671)4月25日に漏刻を作り、大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始されました。その10年ほど前、斉明天皇の6年(660)にも中大兄皇子が漏刻を作られたとの記述があり、どちらにも「初めて」と書かれているので、その関係はよくわかっていません。そして斉明6年の方には日付がないので、天智10年のその日を太陽暦(グレゴリオ暦)に直して6月10日を時の記念日とされました。
この時の漏刻がどのようなものであったのか、文献には全く記載がなく、不明というしかありません。飛鳥の水落遺跡は斉明朝の漏刻の跡ではないかとされていますが、漏刻そのものが出土しているわけではありません。

しかし漏刻・水時計そのものは、古く3500年前からエジプト・バビロニアで使われていたことが確認されており、中国でも前漢のころの文献にも出土品にも残され、この後多くの文献に図面や絵、また実物も残されており、この中国から伝わった知識のもとに日本でも作られたと考えられます。

それらの中国の文献などをもとに江戸時代の日本の文献にも描かれたものがあり、それらによって近江神宮の漏刻も水落遺跡の漏刻模型も推定され、製作されました。

 

近江神宮の御守には、「ときしめす守」「三つ目守」があり、いずれも時に因んだ御守となっています。


近江神宮は御鎮座が昭和15年11月7日と新しい神社ですが、その御祭神である天智天皇は皇子の時代に大化の改新へと繋がる乙巳の変で蘇我氏を誅殺したことで知られています。
大化の改新以後の、天智天皇の皇太子として、また天皇としての政治は明治維新にいたる1200年の基礎を形作り、奈良平安時代以来、歴代天皇のなかでも特別の位置に置かれ、歴代天皇のご即位の宣命にも、必ず天智天皇のことに触れられる習わしがあるといいます。


以下、近江神宮のご由緒より

御祭神・・・天智天皇(てんじてんのう)
          またの御名 天命開別大神
            (あめみことひらかすわけのおおかみ)
御神徳・・・時の祖神 開運・導きの大神

        文化・学芸・産業の守護神

 

御祭神・天智天皇(御神名・天命開別大神)は第34代舒明天皇の皇子で、中大兄皇子と申し上げ、1370年の昔、皇太子として藤原鎌足とともに蘇我一族の専横を除去遊ばされ、大化改新(645年)を断行されました。古代社会の転換期に、大陸からの圧力により存亡の危機に直面していたわが国を、偉大なる英知と勇気とをもって雄大な建国の理想を実現せられ、古代国家確立の大本を打ち立てられ、中興の英主と称えられます。

 

「天智」とは天のように広く限りない意味であり、四海あまねく智恵の光をおさしのべになる大神であられます。別名の「天命開別」とは、神ながらの理想をうけて日本の運命を開き、画期的な新時代を確立、推進なさったことの尊称で、運命開拓の大神と拝します。

 

特に天智称制6年(667年)都を奈良の飛鳥より近江大津宮へ遷され、その後の内外の施策は目覚ましいものがあり、わが国憲法の源をなす「近江令」を制定、学校制度を創始して国民教育の道を開かれ、また戸籍の制定(庚午年籍)土地制度の改革(班田収授)、当時最新の科学技術を駆使して産業振興を図られるなど、次々に新時代に向けての政策を推進せられ、政治経済の改革・学芸文化の創造発展に寄与されました。

 

天智天皇の御事績は、明治維新に至る1200年の基礎となり、古く奈良時代から、御歴代の天皇陛下のなかでも別格の位置におかれ、特別な崇敬がありました。天智天皇の御陵は十陵の筆頭として、歴代朝廷から奉幣が行われ、平安時代を通じて、その忌日には一般の政務を停止し、諸大寺での法要に当ることになっていました。後世に至るまで歴代天皇のなかでも格別の位置に置かれていたことがうかがわれます。

 

また歴代天皇の即位に当っての宣命には、かならず天智天皇のことに言及されるなど、皇室の歴史のなかでも特別崇敬の深い天皇であられました。

 

このほか小倉百人一首の巻頭の天智天皇の御製

「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」

 

は広く国民に親しまれ、歌かるたの祖神としても仰がれています。近江神宮ではかるた祭―かるた開きの儀―も行われていますが、近年は百人一首競技かるたが漫画やドラマでも取り上げられるなど、ことに正月の名人位クイーン位決定戦はよく知られるところとなってきました。境内には奉納された板かるたの額も展示されています。
 
天智天皇の数々の御事績により、さまざまなご神徳を拝することができ、多くの方々から崇敬されています。ことに困難を排して画期的な政策を推進し、日本の運命を導いてゆかれた御祭神の開運の神様としての御神徳、時の一瞬の判断が運命を左右することをつかさどり、開運への方向を説き示す、時の神様、導きの神様としての御神徳が高く、産業・文化・学芸の守護神として崇敬いただいています。

 

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中大兄皇子は、母である斉明天皇が崩御された後も即位されずに政務を執る称制をという立場にいらっしゃったことが知られています。その間には斉明天皇の時代から続いた白村江戦で、我が国初の対外戦での大敗がありました。滅亡した百済再興の要請により日本・百済の連合軍と唐・新羅連合軍での戦闘となったのです。しかし、その直前には百済復興のために尽力していた名将を日本から帰国したばかりの百済の王が讒言を信じて誅殺するなど不利な状況の中での闘いでした。この敗戦により百済再興は途絶え、多くの百済人が渡来してきました。現代で言えば亡命ですが、そうした人達を日本は受け入れ土地を用意し田を支給しています。

 

古代より半島から朝貢されてきた日本は、この大敗により半島での立場が弱まり、大国唐の脅威にさらされるようになりました。この後、唐の鎮将が来日しましたが冊封を要求するためであったため中大兄皇子は謁見していません。一方では高句麗が唐の脅威を感じて日本に朝貢してきていますがその高句麗も、皇子が即位された後唐に滅ぼされています。

 

そうした中、皇子は唐や新羅が日本へ攻めてくることを想定し、筑紫に大堤を築き水を蓄え、水城を築城しました。そして対馬・壱岐・筑紫に防人を置いて狼煙台を設置し、唐の侵略に供えました。また、都を内陸の近江に遷したのも防衛のためでした。そして、最新の技術を得るために遣唐使を送りました。この遣唐使がもういらないと菅原道真の進言により廃止となるのはそれから約230年後の宇多天皇の御世、そして水城が元寇などによって大いに役立つのは、さらに380年後の後宇多天皇の御世のことです。


これは天智天皇の何百年先までをも見据えた目、思し召しのおかげでした。こうしたことは、なにも天智天皇お一人だけのことではなく、この天智天皇を見習ったと思えるご発言をされた昭和天皇は先の大戦の後、復興には50年かかると言われた時に、こうおっしゃられています。
「50年で日本再興ということは私は困難であると思う。恐らく300年はかかるであろう。」
 

「敗戦復興の千年史」を読むと、未来という長い時間をみすえた天皇の視点が理解しやすくなります。

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そして、幕末の急激な開国に反対なされた孝明天皇は、今のような和心、先人達が長い間に培ってきた知恵を忘れるような今の世の中を見据えていたと、孝明天皇の研究をされている竹田恒泰氏が仰られています。

 

鎖国という言葉に騙されていますが、日本は江戸時代でさえ外の世界との繋がりを絶つ様なことはせず、最新の情報を絶えないようにしていました。なにしろナポレオンが生存中に日本ではナポレオンの伝記が大人気となり、幕末にフランス式の軍隊を取り入れたのはそのナポレオン人気によるものでしたし、ペリー来航だってそのはるか前に来ることはわかっていましたし、オランダが一時滅んで国がなくなったときも出島のオランダ人が情報を入れなかったのにも関わらず、オランダという国がなくなっていたことを日本では情報解析により知っていたのです。情報は重要だから取り入れるけれども、悪いものを入れないために規制することは我国が培ってきた知恵の一つでもあるのです。

 

 

時は金也といいますが、誰にも等しく時は刻まれ過ぎていくもの。人生で一番貴重なものは時といえます。そして長い間に培ってきた知恵を知るのは、新たにそうした知恵を経験で学ぶよりも時間を短縮できます。

 

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

 

というビスマルクの言葉があります。経験から学び取ることはとても重要なことですし、多くの人の人生はその経験の積み重ねでなっています。しかし、経験=死ということだってありうるわけですから、学びうることを先に学び取ることはとても重要なことです。賢者は歴史から学び取り、歴史から学べば賢者になれるのです。


天智天皇の弟であり、同様の体験をされてきたであろう天武天皇は古事記・日本書紀の編纂の詔を出されました。それまでの歴史から学ぶためにこれは編纂されたのです。

 

 

 

古事記の序文には古事記の趣旨が書かれており、それはこの言葉に凝縮されています。
「稽古照今」

これは「古を稽りみて、今を照らす」と書かれています。つまり、「過去に学んで、今の世の指針を見出す」ということです。歴史というのは翻訳語だといいます。だとしたら、日本では歴史ではなく稽古照今という方が相応しいといえます。だからこそ、鏡という表現もあり、そうした歴史の物語が語られたのが『大鏡』をはじめとする鏡のついた物語集です。歴史の語源はhis story つまり人の物語です。アメリカの大学が、中国・韓国・日本の歴史を調べたところ、中国の歴史はプロガバンダ、韓国の歴史はファンタジーで、日本だけが歴史だったといいます。これはそのままその国の人や考えを表しているではありませんか。歴史が人より変わるhis storyであってはそこから学び取ることはできません。

his storyではなく鏡として鑑みるもの、稽古照今を学ぶのが日本の道なのです。さらに時の鏡という面も見逃せません。時を経たからこそ理解できる、みえてくるものがあります。時間だけが持つ力、時にはそうした力があります。だからこそ、そうした力を生かして学び取ること、愚者になることを避けるのが、悠久の時が流れる我が国の道ではないかと考えます。

しかし、現在の日本はhis storyにも劣るのではないでしょうか?

 

 

伝統とは時代と共に変わるものではなく、時代の変化に対応しながらも変わらない価値観のことをいいます。これは一時の流れにまかされやすい人間の愚かさを超えて存在する叡智です。だからこそ伝統は続いていくのです。そしてそれを守るのが保守という言葉であり、これは長い間に培われてきた知恵です。人は新しいものが好きですが、その新しいものが良いものとは限りません。その時良いと思えたものも長い目で見ればよくなかったということは長い歴史の中には沢山ありました。そうした歴史の中を生き抜いてきた知恵が伝統です。我が国が、世界に類をみない老舗大国であることは、皇室を頂点とする伝統を大切にする国家であるからであり、だからこそ安定した国を保ってこられました。そして我が国の人々は、その安寧の中で暮らしています。その有難さは、世界中の国々と比較してみればわかるかと思います。

 

そして我が国でその伝統を一番守り抜いてきたのは天皇であり、皇族です。そうした悠々の時をみつめるのに時の記念日である本日はふさわしい日だと思います。

 

方向性を決めるとそれを守る民族といういい例がこれかもしれません。世界中で厳格に時を守る国民として知られる日本ですが(というか他の国が守らなすぎる?)103年前は、時間にルーズであるからそれを改善しなければならないと思われていたわけです。

 

 

 

 

 

 

君が代は、ある意味時の歌ともいえるかもしれない

 

 

 

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